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第4章 グラティザンの恋する一夜




「野郎ども、パーティーの始まりだぜ!」
 戦士長ダリウスの吠え声が、一気に騒がしさを増したオライオン号の上を薙ぐ。
 そして続けざまに、
「総員、戦闘準備! 風上をとるぞ!」
 露天甲板ウェザーデッキに現れた船長アレクの号令一下、空気がびしりと引き締まった。
 いつもはリラックスした様子で、作業しながら水水割りラム酒グロッグをあおることもめずらしくない海賊たちが、別人のように動きを変えた。矢のように素早く、各々が担当する場所に移動し、甲板長をはじめとした幹部クラスの指示に従って仕事に集中する。
 まるで徹底的に訓練された兵士のように、よどみがなく鋭敏な動き。
 ――やるべきことがわからず、片隅で立ち尽くしているのは、船乗りになって日の浅い白雪だけである。
 アレクに連れられるまま船尾甲板に来たのはいいが、なんともいたたまれない。
 舵輪の手前には、すでに副長バージルが陣取っていた。手には望遠鏡グラス
「どーこに行ってたんだぜよ」
「野暮用だ。もう見えたか?」
「先頭のはな。アリエス号って言うらしい」
 黒髪の副長はうなずき、改めて望遠鏡をのぞきこむ。
 ――後で教えてもらったことだが、この船でも一番視力がいいのは、バージルとフィロなのだそうだ。
 白雪ではたとえ望遠鏡を使っても、ぼんやりした豆粒の大きさにしか見えない船団なのに、バージルはこのときすでに、船の種類はもちろん船名まで把握していた。尋常ではない。
「おいおい、旗艦はあいつかいな……」
 バージルは頭をばりばりとかき、なんとも言えない表情になった。
 たとえるなら、昔手ひどく振った女が、道の向こうからやってきたのを見つけて、反応に困っているかのような。
「アレクアレク」
「なんだよバージル」
「敵さんの旗艦、この前の〈リブラ〉号だぜよ」
「――げ。わざわざ俺たちを追ってきやがったのか?」
 潮風になぶられる金髪の下で、アレクの顔が「面倒くさい」という本音をあらわにしてしかめられる。
 白雪の戸惑いをあらわにした視線に気づくと、アレクは説明を足してくれた。
「おまえと逢う前に一戦ぶちかました相手だ。そのときは一隻だけだったから、軽くマストをへし折った後で、甲板に煙幕弾と石鹸水ぶちまけて、放置プレイにしたんだが」
「石鹸水?」
「足元がぬるぬるして、数時間はまともに操船作業ができなくなる罠だ」
 ……さすが海賊だ、えげつない。
「それで逃げたんですか?」
「海のど真ん中で、金持ってなさそうな船と戦うほど暇じゃねえからな」
「でも、さすがにその仕打ちは屈辱的だったのでは……」
「だろうな。連中、プライドだけは高いから」
 アレクはひょいと肩をすくめた。
(プライドとかいう問題かな……)
 白雪はあきれを多分にふくんだ視線で、若き船長の横顔を見つめてしまう。
 船長のやんちゃな言いように、彼の兄のような副長も苦笑いだ。その手から望遠鏡を奪い、今度はアレクがのぞきこむ。
「1隻目はキャラックか?」
「改造しとるがな。元は商船だろうなぁ。船足は速いが、大砲は右舷側にしかない」
「……喫水がやたらと浅いな。物資も人員も最低限しか積んでない、か」
「ん。見るからに足止め要員だな」
「だな」
 戦闘準備を整えるまでの時間稼ぎに、オライオン号は風上に向かって叶う最高の速度で帆走しつづけている。帆や索具を操る指示の声がひっきりなしに飛び交う中だが、船長とその右腕の会話は、普段と大差ない落ち着いた様子だ。
(場慣れしてるな……。さすがは海賊)
 おかげで白雪もだんだんと、当初の緊張と不安でじっとしていられないような気持ちをなだめることができた。
「敵さん、ずいぶんとお冠だな〜。わざわざ艦隊こしらえてくるたぁ大した頑張りだ」
「だが急ごしらえだ。艦隊に金使ったせいで、お宝は積んでなさそうだし」
「白けなさんな。さすがに今回は逃げられんぜよ? さて、作戦はどうする――」
「――白雪!」
 本格的になりはじめた作戦会議に思わず身を乗り出したとき、いきなり怒声がぶつかってきたので、白雪は跳び上がってしまった。
 あわてて見れば、甲板長のジェフリーが、桶を片手に現れたところだ。琥珀色の瞳が、陽光と使命感で強く煌いている。
「手前、今日の当直は甲板だろうが。仕事をやるから来い!」
「! ――はい!」
 叱りつけたつもりなのに、しょげるどころか子犬がしっぽを振るみたいな喜びで瞳を輝かせてきた白雪に、ジェフリーはやや面食らったようだ。わずかに眉をひそめている。
 だが白雪としては、仕事が与えられるのは純粋にうれしいことだった。居場所がないような心細さは苦手だ。
「何をすればいいんですか?」
「これを甲板にまけ」
「砂……ですか?」
 押しつけられた桶は砂で満杯で、ずしりと重かった。
「すべり止めだ。ほかのやつらの邪魔になんねーように動けよ」
「了解しました!」
 邪魔にならぬよう「ほかのやつら」へと絶えず目を配りながら砂を巻けば、甲板がみるまに戦うための場所へと切り替えられていく様がわかる。
(さっきまでは、みんなが航海を楽しんでいた場所なのに)
(これは……)
 舷側にはまるめたハンモックが並べられ、甲板を守る壁に変貌。高みにある檣楼トップボードには銃火器が運びこまれ、敵船を狙撃するポイントに。危険なマストで作業する者たちのために、落下防止の網が頭上にはりめぐらされる。
(これは、まるで城砦だ)
(敵を待ち構え、打ち砕くための城砦――)
 砂をまく作業は程なくして終わる。と、白雪は早くも手持ちぶさたになってしまう。
「こっちはもういい、力仕事じゃ手前の出る幕はねえだろ!」とジェフに追い払われ、「砲列甲板ガンデッキ、戦闘準備よし。いつでも行けます。……邪魔」と報告に来たフィロに突き飛ばされ、再び肩身が狭くなる白雪だ。
 完全に足手まといである。
 生真面目な性分が災いして、海戦の経験はないし、なんて開き直れることもできず、小さくなるしかなかった。
(陸戦でなら、もう少し役に立てる……と思うんだけど)
 せめてどこにいれば邪魔にならないだろうかと、卑屈な考えにとらわれかけたとき、ふいに腕を引かれた。
「白雪。今は何も命令を受けていないんですか?」
「! クリス先生――」
 穏やかだが通る声に、救われた思いで振り返る。
 船医クリストファに、眼鏡の奥からやさしいすみれ色の瞳に見つめられ、白雪は無条件にほっとした。彼もまた、周囲の喧騒をよそに冷静だった。
「私のほうも準備があるので、手伝ってくれませんか」
「もちろんです」
 即答して、クリストファとともに梯子に近い階段を駆け下りる。
 海賊らしからぬやさしさの船医はおそらく、白雪に仕事を与えるために、わざわざ露天甲板まで出てきてくれたのだ。その気持ちが、胸をじんわりと熱くさせる。



 最下層甲板オーロップデッキにもうけられた「治療室」が、戦闘時のクリストファの持ち場だという。ここは喫水線よりも下にあるので、まるで洞窟の中のように湿気があるが、上の甲板よりも被弾する危険性ははるかに低い。
 暗い船室には、楽師のイアン翁もいた。経験が豊かなオライオン号最高齢の海賊は、ここでは有能な助手なのだという。
 白雪はここでもまた、すべり止めの砂をまいた。よく見ると、床にはところどころ血のしみがある。白雪の知らない戦闘の爪痕。
「……ここは、ずいぶん静かですね」
「船内では一番安全な場所と言えるでしょう。とはいえ『斬りこみボーディング』になったら、ここも完璧に安全とは言えませんが」
「斬りこみ?」
「白兵戦です。ある程度敵の数を減らしたら、接舷して敵の船に乗りこみ、指揮官を殺すか降伏させる。ダリウスの専門分野ですね」
「……戦士長とは、お友達なんですか?」
 苦々しい口調に聞こえたので思わずそう訊ねると、温厚な船医にしてはめずらしい、皮肉めいた言い方で答えが返ってきた。
「腐れ縁です。あの闘争狂のせいで、私は船に乗るはめになったようなもので――ああ、その桶は寝台の足元に置いてください」
 ここだけ夜のように暗い中、ランプの灯りだけを頼りにして、治療用器具や清潔な水、大量の布、負傷者用のハンモックを用意していく。
 何もかもが初体験の白雪は、ともに作業するイアン翁にも、思わず質問をぶつけてしまう。
「こんなに暗くて、治療ができるんですか?」
「あまりランプを増やすと、戦闘時はうっかり火事の元になりかねん。心配せんでも、クリスは手探りで縫合ができる程度には有能だわい」
「程度って……それ、十分すごすぎませんか?」
「まあな。陸の医者など目じゃないわ」
 整えた白いひげをしごいて、イアンはにまりと笑う。
「おまえさんが、あやつの腕を頼ることにならんよう、海神マナナーン・マリクールに祈っておこう。――ほれ、ここはもう準備できたから、船長の元に戻るがいい」
 ぽん、と背を叩かれる。
 いくらか充実感を得た去りぎわに、戸口のところでクリストファに耳打ちされた。
「怖くなったら、いつでもここに来てください。だれもあなたを責めませんから」
「……はい。ありがとうございます」
 白雪はなんとも言えぬ複雑な気持ちを隠して、気遣いの言葉にうなずいた。



 陽射しが、暗がりに慣れた目に突き刺さる。
 駆け足で戻った露天甲板は――さっきよりはマシだが――依然として騒がしかった。
 砲列甲板ほどではないが、ここの舷側にもいくつか砲台が並んでいる。固縛を解かれたそれはすでに戦闘状態だ。
(……いつ始まるんだろう?)
 また、心臓がうるさくなる。
 オライオン号の足止めを図ろうとしている敵船の先鋒からは、脅しのつもりだろうか、散発的な砲撃が続いている。まだこちらの船体にかすりもしていないし、彼我の距離もあるが、派手な爆音は白雪を堅くさせるには十分だった。
(アレク船長は――)
 親を探す迷子の目になってしまう自分が情けなくて、唇を噛んだときだ。
「おろおろしちゃって、かわいーぜよ――ッ!!」
「うひえ!?」
 物思いしていたところに背後からタックルまがいの抱擁をされ、白雪はなんともいえない悲鳴を上げた。
「ば、バージル副長!」
「バージルお兄さんって呼んでくれてもかまわんぜよ」
 ……無駄にいい笑顔で何を言いだすんだこの人は。しかも戦闘前に。
 普段とまったく変わらぬ暑苦しいと言ってしまいたくなる抱擁から、どうにか胸元をかばうのには成功しつつ、
(って――これは何事!?)
 振り返った白雪は、バージルの派手な身なりにびっくりした。
 すねまで長さのある上着は深紅で、金色の肩章や勲章で華々しく飾り立てられている。
 横に真紅の薔薇を咲かせる黒シルクの三角帽が、全体の印象を引き締めているが、ともすれば船長と間違われそうなくらい目立つ装いだった。航海の間に伸びかけていた黒髪も、サテンの紅いリボンできちりと束ねている。
 普段シンプルな木綿シャツで、のほほんと笑っているバージルとは別人のようだ。正直に言って、男前すぎる。
 思わず見惚れていると、バージルは小首をかしげた。
「どうした。ビビってんのかい?」
「! ビビってなんていませんッ」
「じゃ、な〜んで困った顔をしてるのかいな。お兄さんに話してみ?」
 男前は数倍はねあがったが、きらめく緑の瞳には、普段どおりの気安い包容力がある。
 なので、白雪は正直に疑問をぶつけてみた。
「ええと……どうして、戦闘なのにそんなに着飾ってるんですか?」
「戦闘だから」
「…………」
 答えになってない。
「戦闘だから死ぬ可能性はあるわな? でもって同時に海賊の晴れ舞台でもあるわけよ。着飾らない理由はなかろ?」
「はあ……そういうものなんですか」
 目を糸にしたさわやかな笑顔には、むやみに説得力があり、白雪が思わずうなずいてしまったときだ。
 バージルは、船長のお下がりのシャツにサッシュという、普段どおりの装いだった白雪をひょいとつまみあげると、
「つーわけで、ハロルド〜。まだ着替えてない子がいたから、ほれパス」
「はぁい受けとったよぅ!」
「ちょ!?」
 船内随一の着道楽のハロルドに放り投げた。
 藍色の髪の操舵手は、今日ばかりはいつもの女装ではなく、物語の騎士のように凛々しい黒衣裳で決めていた。胸には造花の紅い薔薇。
 騎士さまと違うのは、剣が刀身が短めのカトラスで、短銃がいろいろな場所にベルトを使って挟まれている点か。
「ハロルドさんまでカッコいいなんて」
「その言い方は若干気になるけどありがとう!」
「……どうして普段は女装なんですか?」
 いつもそういう普通に男らしい服装をしていればいいのに。という本音を、白雪は遠回しににおわせてみたのだが――
「だって、これ可愛さが足りないから物足りないんだもん」
「…………」
 のれんに腕押しだった。なんて残念な美形なんだ。
 かっさらわれた勢いで連れこまれたのは、忘れられない「通過儀礼」で訪れたことのある衣裳部屋だった。ほかの海賊たちも着替え中だが、どうやらハロルドが一人ひとりの「晴れ着」のコーディネイトを考えているらしい。
「君のはねー、前から戦闘では何着せようか妄想して、じゃなかった悩んでたんだけど」
「はあ……」
「ふりふりのドレスにしようかなって誘惑にもかられて」
「絶対にやめてください!」
「怒るなよ〜。じゃ、今回はこれでいこう!」
 いきなり脱がされそうになって慌てた。
「ひ、一人で着られますから放っておいてください!」
「シャイだなー」
 ……そういう問題ではなく、白雪には死活問題なのだ。さすがに素肌を見られたら、男だと偽るのは無理だ。
 衣裳部屋の片隅に引っこみ、布一枚をへだてた向こうで男たちが着替えている中で服を脱ぐのには、かなりの度胸が必要だった。ついでに、今までの常識を捨てる覚悟も。
(早着替えを鍛えていてよかった……)
 御庭番の心得のひとつである。食事も着替えも――隙の生まれやすい行動は、早く済ませること。
(これも、ハロルドさんの手製なんだろうか)
 その気になれば、豪華なドレスまで仕立てるハロルドだ。ときどき、あなたの本職はなんだとつっこみたくなる。
 バージルのように凝った上着をはおるのは、白雪では腕の動きがにぶりそうなので「どうかな……」と思っていたが、ハロルドが選んでくれたのは幸いそういうタイプではなかった。
 フリル満載の白いブラウス。裾にレース飾りをふんだんにあしらった、漆黒のジレ。同じ色のズボンは膝丈で、そこに銀色の大きな鳩目のついたブーツを合わせる。なぜかアクセサリが多くて、十字架や髑髏、王冠をかたどった銀のネックレスや指輪を全部つけると、ごてごてしすぎて重たげに見える。
 帽子は紅い薔薇を飾った、やけに小さな黒のシルクハット。肩掛け式の剣帯で、愛刀を背負えば完成だが――
「やっぱり君は、膝こぞうが可愛いねー。シックで素敵だよん」
「どこがですか!?」
「やっぱりドレスのほうがいい? それだと刀がちょっと合わないし」
「そういう意味じゃありませんよ! むしろ派手すぎるでしょう、これ……」
 白雪のまっとうな抗議は、もちろん綺麗に聞き流された。もうあきらめるしかない。
 ハロルドにチェックを受けると、髪をきれいに編み直させられた。最後にベルトにさしこむよう、短銃を渡される。
「一発しか撃てないけどねー。お守り代わり。使える?」
「はい。母国にいたときに、何度か――わあ!?」
 変な声が出たのは、衣裳部屋から出される前に頬にキスされたからだ。
「な、何をするんですかッ」
「はっはっは、照れ屋さんだなー」
「そういう問題じゃありません、男が男にするなんて、はしたないでしょう」
「そんなに怒るなよー。君はほんとに、巫女姫さんに一途なんだねー」
「わたしの国では普通のことです」



 豪快に脱ぎ着している海賊たちの肌色を見ないようにして、どうにか甲板に戻った。
 以前に教えられたことだが――海戦は、敵を発見してから実際に交戦するまで、数時間は平気でかかるそうだ。だからこんな、のんきともいえる着替えができるのだろう。
 船尾甲板では、アレクが妖精たちと何事か相談していた。彼も着替えている。
「……!」
 バージルの深紅と対になるような、はっとするほど発色のいい、海の蒼をした上着。胸には紅い造花の薔薇。輝く髪の色を際立たせるそれは、金モールや葉模様の刺繍で壮麗に仕立てられていた。羽飾りを盛った三角帽までかぶった姿は、まるでどこぞの海軍士官である。
 真っ白なアザラシみたいな妖精――普段は船大工を手伝ってくれる、ローンたちだ――を、どこかに見送ると、アレクはこちらを振り返って目を細めた。
「どこに引っこんでんのかと思えば、おまえもハロルドの着せ替え人形になってたか」
「あ、……はい。船長もですか?」
「戦闘前の恒例行事だからな」
 漆黒の眼帯も、銀糸で薔薇が描かれた上に宝石飾りまでついた華やかなものだ。
「どうした、ぼんやりして。惚れ直したか」
「だ、だれが」
「赤くなるなよ。変に思われるぜ」
 堅物の白雪をからかう笑顔は、まったくもって普段どおりだったが。
「おまえも、おもしろいのを着せられたな」
「おもしろすぎです……」
「いいんじゃねえの? 『十四歳くらいの少年』らしくて可愛いぜ」
「からかわないでください」
 言い慣れた反論を口にしたとき、アレクが不意に身をかがめた。内緒話の響きでささやく。
「――おまえは、斬りこみのときは参加しないでいい。そうなったら、治療室に下がってろ」
「え。ど、どうして」
「大事な姫さまのところに戻りたいんだろ?」
 アレクの真摯な声は、普段が意地悪と冗談ばかりな反動で、威力がある。
 それを惜しみなく耳元に送りこまれるのは、そんな場合ではないのに心臓に悪かった。
 彼は淡々と続けた。
「海の上の戦いは、逃げ場がない。陸地とは何もかも勝手が違う。おまえは母国では鍛えてきたんだろうが、船じゃひよっ子だ。無理はするな」
「でも……」
「拗ねるなよ。俺の言うことを聞くって、最初に約束しただろ?」
 刀がある。
 白兵戦なら役に立てるかもしれない。
 ――そう言いたかった白雪の声は、感情を差し挟まないアレクの声に呑まれ、溶けた飴玉みたいに喉に貼りついてしまう。
「というわけで、おまえの配置はここな」
「はい?」
「そこの伝声管。砲列甲板のフィロや船匠係から報告が来るから、俺に余さず報せろ」
「あ……は、はい」
役目を与えられたことはうれしいが、戦いを禁じられたことが胸をふさぎ。
アレク。クリストファ。彼らが白雪を案じて、保護してくれようとしているのは、もちろんうれしいことなのだ。けれど彼女の胸には、もうひとつ、並び立たない願望がある。
(わたしは……)
「――上手回し用意」
 アレクの命令一下、甲板長のジェフリーが呼子笛を鳴らした。
 甲板係の男たちが、一斉に操船作業にとりかかる。まだ船に乗って日の浅い白雪にはめまぐるしく思えるほどの速さでロープや帆桁が動かされ、滑車が乾いた音を立てて回転し、素早く帆の向きを変えていく。
 やはり普段より華やかなスカーフで髪を押さえているジェフリーが、やがて叫んだ。
「上手回し、準備完了です!」
 眼帯に隠されていない碧眼でにらみつけていたアレクは、静かにうなずいた。
「下手舵!」
「了ぉ解!」
 船長がみなまで命令を口にする前に、ハロルドが場違いなほど明るく答えて、ぴかぴかにみがかれた舵を切る。
 風が、甲板を斬るように吹きぬけた。船体が大きく動く。泡が立つほどに波を激しく蹴りたてながら、オライオン号が急速に方向を変える。執拗に追いかけてくるアリエス号と、真っ向から向き合うように。
 そうして急速に縮まる、敵船との距離。
 うるさいほどに鳴る心臓を押さえつつ、白雪は背負っていた刀を胸に抱いた。
 ――この刀は。
 自分の身を守るためだけに振るうしかない――そんな寂しい武器なのだろうか。
 父がくれたものなのに。
 白雪の腕力でも振るえるようにと、特別にこしらえてくれたものなのに。
(たしかに……朧姫さまのためにさえ、抜いたことがなかったけど)
 母国で巫女姫を護る日々は、白雪が海に落ちたあの日まで、ずっと穏やかだった。
 結果、白雪は未だに実戦で人を斬ったことがない。
(でも……わたしは――)
 苛立ちにも似た悩みを打ち砕くかのように、轟音がとどろいた。オライオン号が波のリズムとは違う揺れ方をする。
 檣頭マスト・ヘッドの見張りが声を張り上げた。
「船長! アリエス号の砲撃が、俺らの横っ腹をかすめました――!」
 それはオライオン号が、とうとう敵の射程圏内に入ったことを意味していた。



2011.7.29. up.

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