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第4章 グラティザンの恋する一夜




天気:Partly Clouded(晴れ。少しだけ雲がある)
海面状態:Smooth(小波がある)

07時:甲板みがき終了後、クリス先生の医務室の整理をお手伝いした。クリス先生のそばにいるのが、今は一番ほっとする……。

08時:朝の見回り、異常なし。フィロさんは朝に弱いみたいで、目を開けたまま居眠りを始めることがあり、驚いた。でも、このくらいたくましくないと、海賊はやっていられないのかもしれない。わたしも見習うことにしよう。

09時:大砲の訓練に参加。フィロさんに叱られながら初めて大砲を撃った。かなり凄まじい音だ。「ゴム」というもので作った耳栓をヴィンスさんがくれたけれど、命令の声も聞こえづらくなってしまうので、つけるのは迷うところ。

09時30分:訓練を中断。バージル副長が変な魚を釣り上げて、大騒ぎになった。今回のはクリス先生の図鑑にものっていない新種らしい。毎回、狙いすましたように怪魚を釣り上げる副長は、ある意味、釣りの才能がある気がする。

12時:今日の昼食は、定番の固いビスケット、乾燥野菜を煮込んだスープ、バージル副長が釣り上げた変な魚の揚げもの。魚の揚げものは、かなりゲテモ……度胸を試される形と色をしていたけれど、味は意外とよかった。

(……こんなものかな?)
 白雪は、いったんペンを止めた。
 航海日誌の書き方には、本当はいろいろと決まりがあるそうだが、白雪のはあまり本格的ではない。オライオン号で責任のある役職ではないから、ただの日記代わりなのだ。
(母国に帰れたら、朧姫さまに読んでいただこう)
 そんなふうに思っている。
 天気や海面状態はそれらしく西方の言葉で書いているけれど、文章はほとんど母国語でしか書けていない。西方の海賊たちとの会話にはほとんど不自由しなくなってきたが、書くほうはまだ苦手だ。
(文法が、わたしの国のと全然違うせいかな……)
 船医のクリス先生に教えてもらっているのだが、思うように上達しないのが最近の悩みだ。
 顔を上げる。
「教えてくださってありがとうございました、ジェフさん」
「――別に。大したことじゃねえし」
 対面に座っている銀色の髪と瞳の青年は、ぶすっとした顔で答えた。
 まあ、彼はいつでもこんなふうで、けれど本当はいい人だとわかっているから、白雪も気分を害したりはしない。
(あの船長に比べたら、この人はわかりやすいし、安心する……)
 ――下層甲板のテーブル。
 夜はハンモックを吊り下げて寝床に、昼はいくつものテーブルを設置して食堂や休憩室などに使う空間だ。白雪は最初、ここのあまりに雑然とした雰囲気に入りこみづらいものを感じていたが、このごろは慣れてきた。
 今は昼休み。
 同じ班のフィロはバージル副長に、ヴィンスもなぜかダリウス戦士長に呼びだされている。
 妖精たちに囲まれながら、めずらしく一人で西方の言葉と格闘しようとしたところに、ジェフリーが来て――
「筆記体も書けねーのか?」
 親でも死んだような仏頂面でそう言ったのだ。
 白雪は最初、不興を買ってしまったのかと警戒したが――ジェフリーは親身に文法を教えてくれた。クリス先生の手をいちいちわずらわせるのに気後れを感じていたところだったので、正直とても助かった。
「そこは過去形じゃおかしいだろ。過去分詞にしろ」
「ここ……ですか?」
「そうだ。そっちもスペルが少し違ぇよ。最後にeをつけろ」
「こう、ですね」
 アレク船長と同じくらい強面だけど、やっぱりいい人だ。
 このところ性悪船長に悩まされる日が続いていたので、感動もひとしおである。ジェフリーを見上げる目が、無意識にキラキラしてしまうほどに。
 そういうふうに見られることに慣れていないのか、ジェフはひたすら仏頂面だが。
「あの、ジェフさん――」
「なんだ?」
「これ、お礼に」
 白雪がさしだしたのは、水で割っていないラム酒を詰めた壜だ。
 毎日配給されているが、酒に弱い白雪にはどうにも飲めないので困っていたところ、同じ班のヴィンスが「綺麗にとっておいて、だれかにあげると喜ばれるよ」とおすすめしてくれたので、地道にそのとおりにしていたのだ。
「いいのか?」
「わたしはあまり、お酒は得意じゃないですし……。ほかにお礼もできませんから」
「別に、謝礼が欲しくて教えてやったんじゃねえぞ」
「わかってます。でも、わたしの気持ちが済みませんから」
「そうかよ。じゃ、もらっといてやる」
 仏頂面だが人はいい青年へと白雪が壜を渡したとき、横からいきなり声がした。

「――そういうときは、頬にキスしてあげればいいのにー」

 常識はずれを通り越してぶっ飛んでいる提案に、ジェフリーが盛大にむせた。
「ハロルド! てめッ、いきなり現れて何を……!」
「前向きな提案だろー?」
 しれっと言い放ち、提案者――ハロルドは、当然のように白雪の隣に腰を下ろす。
 妖精の中でも、大きな黒猫といった感じのケット=シーが、ハロルドにじゃれだした。それをあやしつつ、
「ジェフだって、キスのほうがうれしいだろー?」
「だれがそんなこと言った!」
「幼なじみの勘。おれも酒より、可愛い子のキスのがうれしいしー」
「てめぇみたいな変態と一緒にすんな」
「可愛い子のキスで喜ばないほうが変じゃない?」
「いくら可愛くたって、白雪は男だろ!」
「可愛いに国境はないよー」
 のんびりと反論はしても、ハロルドは「変態」という言葉にまったく動じていない。
(まあ……動じるようなら、最初からこんな格好はしないか)
 幼なじみの恒例の言い合いに入れない白雪は、ハロルドの格好に目が行ってしまう。
 今日も彼は、明るく元気に女装だ。
 木綿のシャツにズボンという典型的な海賊のいでたちではなく、藍色の髪が映える明るい灰緑色のワンピース姿で、銀の髪飾りまでつけている。
 女になりたいとか男色の趣味があるわけではなく、ただ女性の服が大好きで、好きが高じて自分でドレスを作る技術を身につけ、さらに「海賊生活って単調だから」(本人談)自分でも着るようになったのだという。
 はじめは白雪も面食らったが、最近では、彼がそういう生き物なのだと受け容れられた。
 ……というより、この程度で動揺していたらオライオン号で生活なんてできない。
 しかし。
「そうだドレス! 白雪がドレス着てキスしたら、ジェフも素直に喜ぶかもー」
「い、いきなりこっちに振らないでください」
「新しいの作ったんだけど着てみないー? 君の黒髪が色っぽく見えるやつ」
「色っぽく見えても困るだけです!」
「君に色気が出たら、だれもが落ちると思うんだけどなー」
「だれを落とせと言うんですか……」
 手を握って迫ってくるハロルドに、白雪はたじたじになる。
 ……彼の問題は、白雪にも隙あらばドレスを着せようとすることだ。
(女だとバレるようなことは、できる限り避けたいのに……)
 お断りする理由を考えるのに、毎度ちょっと頭が痛い。
 ジェフも、幼なじみの趣味にあきれている。
「おまえはよ……。こいつにそんなカッコさせて、船内で間違いが起きたらどうすんだよ」
「その点は平気でしょー。戦士長がいつも警備してるしー」
「そうなんですか?」
 思わず、白雪は口を挟んでしまった。
「だって白兵戦がなきゃ、戦士長は基本的にヒマだしね」
「なるほど」
 戦士長ダリウスの見るからに海賊らしい風貌で、風紀の取り締まりというのも不似合いな気もするが、たしかに彼ににらまれたら羽目ははずせまい。
 ハロルドは自分で持ってきたビールで唇を湿しながら、変わらず明るい口調で続けた。
「それに、みんなの間では紳士協定ができてるしねー」
「? なんだそりゃ」
「白雪は船長のもの。可愛がるのはいいけど、無理強いはだめ」
「ろくでもねえな。……つか、俺は初耳だぞ」
「わたしもです」
 怪訝そうに眉をひそめるジェフに、白雪も同調する。女だとバレたら困る身なので、ありがたい協定だとは思うが。
 凝った作りの髪型を整え直しながら、ハロルドは二人から視線をそらした。
「あーまあジェフはねー」
「なんでそこでとぼけんだよ」
「君の名誉のためにぼかして言うと、港の女の子とさえよろしくできないやつが、抜け駆けする可能性はないよな〜って」
「全ッッッ然ぼかしてねえだろ!!」
 もっともな突っ込みとともにジェフが拳でテーブルを殴ったところで、白雪の後ろから声が響いた。

「おまえらは本当にいつも、にぎやかだな」

 びくりとした白雪の両肩に、大きな手が置かれる。逃げるなよ、と言うように。
「アレク船長――」
 船長に忠実なジェフはもちろん、常にマイペースなハロルドも、さすがに驚いたように目をみはっていた。実際この船でも1・2を争うにぎやか幼なじみ組も、船長の前ではさすがに威儀をただすようだ。
 そっと後ろに首をひねると、金髪眼帯の船長は、愛くるしい妖精たちを従えて立っていた。
 アレクは船内でも特に妖精になつかれているらしいが、失礼ながら似合わないと白雪は思ってしまう。兇暴な虎が仔猫とたわむれているみたいで。
 ジェフが若干緊張の面持ちで言った。
「何かご用ですか?」
「いや、おまえたちにじゃない。『午後』のために、こいつを拾いに来た」
 もちろん、彼のキャビンボーイ――白雪のことだ。
 複雑な事情など知らないジェフたちの手前、助けを求めることはできず、白雪はいつもどおりの態度を装ってアレクに拾われていくしかなかった。



 そのまま、船長室ではなく、錨索の格納庫に連れて行かれた。
 太さが余裕でひと抱え以上はある綱――錨索がとぐろを巻くそこは、普段はほとんど人気がないので、秘密の話にはうってつけだ。
「こんなところで一体なんの話ですか」
「なんの、と言われてもな」
 身構えて硬い声を発する白雪をよそに、アレクは憎らしいほど飄々と肩をすくめた。
「おまえ、ここ数日俺を避けてないか?」
「……気のせいでは」
 ぎくりとしながらも、白雪は努めて平静を装う。
 もちろん、その程度で引き下がってくれる可愛い船長ではないのだが。
「ほう? じゃ、最近夜にキャビンボーイの部屋に戻ってこないのも俺の気のせいか」
「それは……その、体調があまりよくなかったので、クリス先生のところで――」
 半分は事実で、半分は嘘だ。
 医務室に転がりこんで、空いている病人用寝台を借りていたのは事実だ。
 が、体調がよくないというのは嘘だ。
 やさしい船医は何も詮索しなかったけれど、白雪が悩みを抱えていることは察している様子だった。その上で「病名:船上疲労性」などと適当な診断書を作り、様子見と称して、そばに置いてくれている。……甘えさせてくれている。
 そんな白雪の苦しい胸の中を、ある程度は見透かしているのだろう。
 アレクは
「おまえは、嘘をつくのが下手だな」
「嘘というわけじゃ――わあ!?」
 なんとなく後ずさりした白雪を、アレクはいきなり距離を潰して抱き上げた。
「色気のねえ悲鳴だな。俺の前では男のフリはしなくてもいいのに」
「ば……ッ」
 ばかなことを言う男を、錨で殴り倒したい衝動にかられる。
「というか何なんですか、この体勢は!」
 小さな子を高い高いするみたいな抱き方だ。バランスを保つには、嫌でもアレクの首にしがみつかざるを得ない。
 今日は波が穏やかとはいえ、常に揺れている船の中なので、白雪はいつ彼と一緒に転ぶか気が気でないのに、アレクはやけに余裕たっぷりだ。どれほど足腰が強靭なのか。
「おまえが俺をちゃんと見ないから」
「は!?」
「俺の目を見て答えたら下ろしてやる。大きく揺れたら、おまえ、頭をぶつけるかもな?」
 下層甲板の天井は低い。白雪の頭上すぐに、天井が迫っている。
 不愉快だが、かといって、むやみに暴れて床に放り出されても痛い目を見そうだ。
「キャビンボーイのくせに、船長を無視すんなよ」
「船長のくせに、子供っぽいことを言わないでください」
「ほう。おまえも生意気になったな」
「……誰のおかげでしょうね」
 精一杯の皮肉だったが、アレクにはそれすらもおもしろがられてしまう。
「で。何を拗ねてんだ?」
「拗ねてるわけじゃ……」
 ――ただ、祝勝パーティーの夜のことが、自分でもどうしてと思うほど胸に引っかかっているだけだ。
 今は吐息がかかる距離にある、眼帯に覆われた目。
 どうやら彼の秘密と苦悩が隠されているらしいそれが、気になって仕方がない。
 母国に無事帰れれば、それでよかったはずなのに。
 深入りしないほうがいいと、頭ではわかっているのに。
「……そんな目をするなよ」
(そんな目?)
 はっとして視線を戻すと、アレクは妙にやさしい表情をしていた。
 性悪だったり皮肉げだったりする笑みや、凄絶なほど怖い表情なら何度も見ている。
 けれど、こんなふうに穏やかに諭すような目をされると、彼のあいまいな色香を変に意識してしまう。
「そんな可愛い目をされると、おまえは俺に惚れてんじゃないかって勘違いする」
「ば――」
 睦言めいたささやきに、白雪の頬が朱で染まったとき――鐘が鳴った。
 昼休みの終わりを告げる鐘だ。
 おかしな空気が霧散したことと、これ以上の追求をかわす口実ができたことに、白雪はほっとする。アレクもようやく、彼女を床に降ろしてくれた。
「ま、今はこのくらいにしてやるか。でも今日は俺から逃げられると思うなよ」
「……?」
 不吉な予感に顔をしかめる白雪を見下ろして、アレクはお得意の性格の悪そうな笑みを浮かべた。
「忘れたのか? 午後は風呂だぞ」
 ――すっかり忘れていた。
 たしかに逃げようがないことを理解して、額を押さえる。白雪は重いため息をついた。
 本当に、最近のわたしはこの人に振り回されっぱなしだ。
 母国にいた頃は、朧姫に「白雪は冷静すぎるわ」なんて怒られたりしたのに、まったく自分らしくない。しかも相手は、こんなどうしようもない海賊だし。



2010.11.22. up.

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