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第4章 グラティザンの恋する一夜




 西方の暦でいう「土曜日」の夕刻に身体を清めるのが、この船の習慣だそうだ。
 翌日「日曜日」の礼拝のためで、嫌がると、美少年司祭のヴィンス――ヴィンセントが怖いらしい。どう怖いのか白雪は知らないが、たくましい海賊たちがブルブルと震えて言うのだからよほどのことだろう。
(……たしかにヴィンスさんは、逆らえないところがあるしなあ)
 それはさておき。
 白雪が船上での風呂を体験するのは、実は今日が初めてだ。
 ほかの船員たちとは入れないため、白雪が女だと知っているアレクの風呂を貸してもらう約束だったのだが――前回の「土曜日」は、慣れない船の暮らし+男のフリという緊張続きのせいで体調を崩してしまったので、湯を浴びるのはあきらめたのだ。
 クリストファが特別に用意してくれた、花の香りがする湯で身体を拭けたので、気持ち悪さとは無縁だったけれど。
「俺らは湯を用意すっから。あんたは桶を先に頼むっす」
「了解しました!」
「転ばないよう気をつけるっすよ〜」
 真鍮を胴に巻いた頑丈な桶は、いつもは洗濯に使っているものだ。重さよりは大きさに苦戦して、よたよたしながら船長室まで運び入れる。
 小柄なキャビンボーイのがんばりを、アレクは愉快そうに見物している。
「働け働け。男の子なら、そのくらい余裕だよな?」
「……性格が悪いですね、あなたは」
「海賊には褒め言葉だな」
 手伝ってほしいとは思わないが、声をかけられると落ち着かない。
(まあ、気まずくならないのは助かるけど……)
 ちらっとうかがえば、アレクは実にいつもどおりで、ほっとする。
 今日まで白雪ばかりがあの夜に囚われていたのだと思うと、妙に悔しくもあるが。

「ちーっす。入るっすよ〜」
 やがて、湯の用意を担当する船員たちが、小さめの桶を抱えてきた。
 湯船の用意が整う前に、白雪はアレクの着替えやタオル、石鹸などを戸棚から出す。
 クリス先生の手製だという石鹸は、精油や蜂蜜が練りこまれているそうで、とてもいい香りがした。お菓子と間違えてかじりついてもおかしくない。
(器用な方だ)
 改めて船医の多才ぶりに感心しつつ、衝立を設置し終えるのと、湯を運ぶのが終わったのはほぼ同時だった。「お疲れ〜」などと言い交わしながら、若い海賊たちを見送る。

 手伝いの船員たちが去ると、窓辺で待っていたアレクが腰を上げた。
(背中を流せ……なんて言われないかな。大丈夫かな)
(……言われても無理だけど)
 そうでなくても、アレクが湯浴みをする近くにいるのはやりにくい。
 いったんキャビンボーイの個室に退散しようとしたが、途中で腕をつかまれた。
「どこ行くんだ」
「どこって――」
「おまえが先に入れ」
 無造作な言葉とともに、石鹸を、ぽんと手渡されて驚く。
「……いいんですか?」
「俺は女にやさしい紳士だって、以前にも言っただろ」
 まじまじと青い隻眼を見上げれば、アレクはクセのある笑みを向けてくる。
「それとも俺と一緒に入りたいか?」
「何をどうしたらそういう考え方になるんですか!」
 からかわれているのだと、わかっていても声が大きくなってしまう自分がいやだ。
「俺はここで見張ってるから、行きな」
「…………。ありがとうございます」
 いいのかなという想いはあるが、ぐずぐずしていては湯が冷めてしまう。白雪は素直に礼を言ってしまった。
(その代わり、さっさと済ませよう)
 衝立で囲んだ内側に入るなり、黒髪をほどき、服を脱ぎにかかる。
 湯が冷めたら悪いし、いくら船長室の中でも、裸身を長い時間さらすのは賢くない。
 男装でごまかしている間はいいが、白雪の肢体は男っぽさとは程遠いのだから。
 と――
「おい白雪」
 衝立の向こうから声をかけられ、白雪はびくりと動きを止めた。
「そういえばおまえ、石鹸の使い方は知って……」
 制止する暇もあらばこそ、あまりにも大胆に衝立がずらされて、アレクが顔を出す。
 予想外のことに白雪は凍りついた。頭の中が真っ白になる。
「…………」
「…………」
 初めて会った動物を凝視するように、目をまんまるにみはった白雪の前で、アレクも中途半端なポーズで静止していた。
 白雪はジレとシャツを脱ぎ、サラシまでほどきかけた状態だ。
 反射的に胸元こそ隠したものの、普段隠している上半身の素肌があちこちむき出しになっていて――少なくとも、嫁入り前の娘が人様に見せる格好では談じてない。身体は石と化してしまったが、見られているのだと思うと、羞恥で肌の下にじわじわと熱がこもっていく。
 我に返ったのは、アレクのほうが先だった。
「脱ぐの早いなおまえ」
「〜〜〜〜ッ!!」
 そこか! という感想で硬直が解ける。
 白雪は耳まで真っ赤になると、声にならない悲鳴を上げて足元の籠を投げつけた。アレクがすぐに衝立を元の位置に戻したので、籠は彼に当たらず床に落ちたが。
(あの最低船長……!)
 怒りやら羞恥やらで、眩暈までする。
 白雪は身悶えしながら額を抱えると、どっと疲れて、その場にうずくまった。



 風呂に入る気力は正直根こそぎ奪われたが、せっかくの湯の恩恵を受けずに済ますのももったいなくて、白雪はどうにか肌をきれいにした。髪は先日洗ったから今日はいいだろう。もうとにかく早く終わらせたい。
 脱いだとき以上に手早く着替えて、衝立の内側から飛び出す。
「お先に――」
 失礼しました、という言葉を途切らせたのにはわけがあった。
 アレクは窓際の作りつけの長椅子に座っていた。めったにない真剣な顔をして、何か難しそうな書類を読んでいる。意地悪な笑みを浮かべていないせいか、横顔が知的に見えて、普段とのギャップに妙にどきりとさせられたのだ。
 アレクが書面から顔を上げる。
「おう。思ったより早かったな」
 見惚れていたのに気づかれたくなくて、つい白雪はつっけんどんな言い方をしてしまった。
「どうしてそこで待ってるんですか」
「おいおい、外で待てってか? んなことしたら、ほかの連中に怪しまれるだろうが」
 正論だ。白雪は目をそらす。
 すれ違いざま、ぽんと軽く頭を撫ぜられた。
「――さっきは悪かったよ。まだ脱いでないと思っててな」
「…………」
 あっさりした謝罪だ。憤慨し、意識している自分のほうが馬鹿に思えるほどに。
 沸騰した頭が完全に冷めたわけではないが、白雪はどうにか冷静な声を作った。
「早く着替えたり食べたりするのは、御庭番の心得のひとつですから」
「隙を作る時間は、できるだけ短くってことか」
「ええ。――それより、早く入ってしまってください。お湯が冷めないうちに」
「じゃ、おまえはそこで待ってろよ」
「!? ど、どうしてですか?」
「どうしてもだ。逃げたらお仕置きするぞ、いいな?」
「…………」
 露骨にじらす物言いは好きではないが、親切にされたのに突っぱねることもできない。
 仕方なく部屋の片隅で、自分の航海日誌を眺めていると、衝立の向こうからかすかに衣擦れの音が聞こえてきた。
(今脱いで――)
(……か、考えるのはよそう)
 白雪はあわてて頭を振って、反射的に浮かんだ、はしたない想像をかき消す。
 さっきは気がつく余裕もなかったが、衝立一枚をへだてた向こうに一糸まとわぬ異性がいるなんて、刺激的すぎる状況だ。
 海賊たちは(一部を除き)大胆という自由というか――暑いときは気軽に脱ぐので、上半身裸くらいにはいやでも見慣れてしまったが、これは何かが違う。たぶん、二人きりというのが問題なのだろう。
 気をまぎらわせようと、目につく端から片付けものをしているうちに、アレクが出てきた。
 振り返ったとたん、ぽいっとタオルを投げ渡される。
 ――髪を拭け、という意味か。
 白雪は観念して、吊り寝台に腰を下ろしたアレクの元に向かった。
 巫女姫さまの御髪を洗うのは手慣れた女官たちに任せていたから、白雪が他人の髪を扱うのはアレクが初めてだった。最初は「もっとしっかり拭けよ」だの「気持ちよくねえ」だの文句言われ放題だったが、だんだん慣れてきた。
 濡れた金髪が首筋に貼りついているのが、怖いほど艶っぽくて、目のやりばに困るけれど。
「そこ――首筋んところ、少し強く押してくれよ」
「こう、ですか?」
「ん……悪くないな。ちょっと効いた」
「疲れてるのなら今度肩でも揉みましょうか?」
「得意なのか?」
「一応習いました。御庭番衆は多芸でないと務まりませんから」
 目は合わせず、話だけは合わせて作業を進めていると、ふいにアレクが振り返った。
 思わず逃げようとした白雪の肩に腕を回して、ぐいと引き寄せる。
 抗いを封じるみたいに、耳元に軽く吐息をかけれられる。そんな無駄な色仕掛けに、ぞくりとさせられるのが悔しい。
「可愛い部下にはいいことを教えてやろう。――惚れた男にさわってもらうと大きくなるって話は知ってるか?」
「? なんのこと――」
 聞き返そうとして、アレクの視線がさりげなく胸元に向かっていることに気づき、白雪は頬に朱を走らせた。さっき、そこまで見ていたのか!?
「別に全部は見ちゃいねえよ。おまえの腕の隙間から、チラッと上の部分だけ」
「〜〜〜〜〜ッ!!」
「いてててて。怒るなって、褒めてんだからよ」
「何をどのように!?」
「てっきり断崖絶壁だと思ってたが意外と可愛らしくふくらんで、痛ぇ!」
 ぽこぽこと白雪に殴られても、アレク憎たらしい悪ガキじみた笑みを崩さない。それがまた腹が立つ。
「だいたい下手に大きくなったりしたら、男のフリが難しくなるでしょう!」
「つっても、一生男のフリをするわけじゃねえだろ」
「それはそうですけど……」
「けど、なんだ?」
「母国に帰っても、わたしには胸が大きくて得することはないと思います」
 どんなに厳重にサラシで押さえても、立ち回るのに邪魔になるふくらみは、昔から白雪の劣等感の源だった。自分が男だったらこんなものはなく、逆に上背や筋肉がついて、もっと父の助けになれたのにと思いつづけてきた。
 アレクは見えない何かを不思議な力で見透かすような目をした。白雪の苦手な目だ。逃げられないと思わされるから。
「おまえは影の一族っつっても、歴史の古い家柄なんだろ? 許婚とかいないのか」
「いません」
 いずれは父の部下の中から婿養子をとるのかなと、他人事みたいに予想はしていたが。
 それよりも巫女姫さまの結婚問題のほうが、白雪には気がかりだった。
「右腕に傷があったな。母国にいたときに作ったのか?」
「……そこまで見たんですか」
「腕くらいで、そんなにむくれるなよ。答えろ」
 なんだろう。
 今日はやけに、白雪の深いところにまで食い下がってくるような。
 もしかして――この船で作った傷かどうかを、気にしているのだろうか?
 性格は悪いが、船長としてはたしかに誠実で責任感のあるアレクだから、ありえない話ではない。
 そう思ったから、白雪は丁寧に答えた。
「朧姫さまを狙った刺客が、矢羽根を――短い投擲用の矢を投げてきたときに受けた傷です。わたしは刀で叩き落としたつもりだったのですが、一本だけあしらいそこねて」
「つまり、姫さまをかばって矢を受けたってことか」
「――はい」
 苦い過去を思い出しながら、うなずく。

 鋭い痛み。火箸を突きつけられたような異常な熱さ。その後の血を失っていく寒気。
 どれも忘れられないが、何よりも鮮烈に覚えているのは、やはり父のことだ。
 手傷を負った白雪は、冬厳に眉を不機嫌そうにしかめられ――
 ――『何をしているのだ、おまえは』
 怖い顔で言われてしまった。
 この程度の忍務でけがをしてどうする。情けない。
 失望させてしまったのだと思い、白雪はひたすら小さくなって耐えたものだ。

「傷、ちゃんと見せてみろよ」
「ど、どうして」
「ビビんなよ。もしかしたら消せる傷かもしれないと思っただけだ」
(クリス先生の医術なら……ということ?)
 仕方なくシャツを肘の上までまくってみせれば、その小さな傷痕が見える。
 アレクはしばらく難しい顔をしていたが、やがてひどく自然に、彼女の傷痕に唇を寄せた。
 え? と思う白雪のすぐ前で、舌先がそっと肌にふれる。
「――!?」
 白雪は今度こそ手加減抜きでアレクの頬を張り飛ばした。
「痛えな、おい」
「何をしてるんですかこの変態船長!! 今……わたしの腕を、な、なめ……!」
 動揺のあまり舌がもつれる白雪をよそに、アレクはしれっとのたまう。
「馬鹿、なめたんじゃねえよ。キスしてやったんだ」
「同じじゃないですか!」
「全然違うだろ。どう違うのか教えてやろうか?」
「ぜひそうしてください」
 憤然として白雪はうなずき――
 おとがいをつまんで上を向かされた刹那、アレクがどうやって「教え」るつもりなのかに気づき、あわてて振り払った。
「ッ……あなたという人は、どこまで恥知らずなんですか!」
「恥知らずとはまた古くせえ言い回しだな。クリス先生に習ったのか?」
 わずかに赤くなった頬をさすりつつ、アレクは平然と言う。
「俺の国には、祈りをこめてキスをすると傷が消えるって言い伝えがあるんだよ」
「わたしの国にはそんな破廉恥な言い伝えはありません!」
「破廉恥とはまた、古い言い方で」
 我慢強い白雪でもいいかげん部屋を飛び出したくなっていたが、アレクが巧みに腰を抱えているせいで身動きがとれない。よく考えてみれば、寝台の上でこの状態はマズいのでは……。
「他に傷痕はないだろうな?」
「ありませんけど……なんなんですか、さっきから」
「おまえに俺の知らない傷があるのが気に喰わないんだよ」
「…………」
 自分の所有物だから、という意味だろうか。傲慢なことだ。
 アレクらしいと思えなくもないが、複雑である。
 こんなふうに、わたしを支配したがるくせに――
「――わたしには、あなたのことを教えてくれないじゃないですか」
「俺のこと?」
 訝るアレクの左目をおおう眼帯に、白雪はまなざしを向ける。
 それだけで、時に困るほど聡いアレクは、彼女の複雑な想いを感じとったようだ。
「俺の隠してることを知ったら、おまえは俺の嫁になるしかないぞ」
「……は?」
「そのくらいの秘密って意味だ」
 こつんと額をぶつけて告げられる。
 まるでからかっているみたいな体勢だが、声音はひどく真摯な声音だ。
(嘘をついているようには思えないけれど)
(秘密って――)
 そんなに重大な秘密が彼にはあるのか。
 戸惑う白雪を見つめ、アレクはなぜか彼女を深く抱き寄せた。
 もしかして唇が重なるのでは、と焦ったとき、けたたましく鐘の音がとどろいた。

「――船影視認!」

 おかしな形で高まりかけた熱が、甲板から聞こえた声で、一気に冷めた。
 船影。
 それは海賊にとって、獲物か、敵である可能性が高い。甲板の上が騒がしくなる。
 急いでアレクと身体を離し、白雪が吊りベッドを降りたのと同時に扉が開いた。
 現れたのは、海賊らしからぬ銀髪緑瞳の美しい少年司祭だ。
 ヴィンセント・ドレイファス――ヴィンス。
「敵か? ヴィンス」
「そうです」
 落ち着いた様子で、ヴィンスがうなずく。彼は慇懃に続けた。
「5隻から成る船団が、この船を追跡しています。追いつかれるまで時間はありますが」
「じゃ、攻撃はされてないんだな? 船籍は」
「距離があるので確認はできませんが、可能性が高いのはエスパーニャ王国でしょう」

 ――エスパーニャ王国。

 先日、追撃砲の一撃で降参した船と同じ国籍か。
 白雪はまだ西方の国々の関係はよくわからないが、海賊たちの会話から、エスパーニャは彼らの一番の敵らしいことは理解していた。
 アレクはヴィンスに、副長をはじめとした幹部への伝言を与えると、何をしていいのかわからずにいる白雪を振り返った。
「久々に手ごたえのある獲物のおでましだ。おまえの本当の初陣だな」
「逃げないんですか?」
「そのほうが楽だが、逃がしてもらえない可能性が高そうだ。だったら叩き潰す」
「でも……5対1なんて――」
 大丈夫なのかと弱音をこぼしかけた唇を、アレクの乾いた指先がふさいだ。
「勝てる風が吹いてる。これで勝利を引っ張りこめなきゃ、俺に船長をやる資格はねえよ」
「……!」
「余計な心配はするなよ。素直に俺の言うことを聞いてりゃ怪我はさせねえ。わかったな?」
 有無を言わせぬ口調と、強い意志を秘めたまなざしにどきりとした。
 さっきの余韻のせいか、怖いほどに胸が熱くなり、白雪は言葉もなくうなずいた。
 素直な反応を見て、アレクが薄く笑った。
「いい子だ」



2010.12.31. up.

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