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第3章 聖なる石と空の十字架




 陽気な音楽と食事で場が温まってきたら、船員たちによる隠し芸の時間らしい。
 露天甲板の中ほどに、まるく空間が明けられ、そこでお手玉や手品が披露され――
「いよッハロルド! 出やがったなこの変態!」
「今日も楽しませろよ変態!」
「待ってたぜ変態!」
 ――割れんばかりの拍手と、悪口にしか聞こえないがどうやら彼らなりの歓迎の仕方らしい言葉を浴びながら、自信たっぷりな笑顔のハロルドが場に出た。
 今日何度目だ? という着替えをした個性派操舵手は、藍色の髪がよく映える、黒と赤の華やかな衣裳をまとっていた。手には房飾りがついた大判のショール。周囲に向ける流し目には「変態? 望むところだ」とでも言いだしそうな、むやみに堂々とした風格がある。
「長老! 頼むよー」
「――わかっておる」
 今までの隠し芸とは一線を画すオーラのようなものをハロルドに、今まで以上の期待感を海賊たちから感じる。忙しなく給仕をしていた白雪も、思わず足を止めた。
(何が始まるんだろう……?)
 ――と、音楽担当の海賊たちがいるほうから、勇壮な曲が響いてきた。
 客席がとたんに静まり返る中、ハロルドがおもむろに動きだす。
(! 舞いだ)
 最初は「そんな特技もあったんだ」程度の気楽さで見物していた白雪だが、すぐにハロルドの作り出す空気に惹きこまれていった。それは、ただの隠し芸という域を超えた芸術だった。
 靴のかかとに何かを仕込んでいるのか、小刻みでスピード感のあるステップを踏むたびに、乾いた音が響く。まるで、足元で音楽を奏でているかのようだ。
 指先まで美しく、かつ切れのある動きには、彼が普段は感じさせない――もしかしたらわざと隠しているのかもしれない――男性としての色香や鋭い雰囲気がある。洗練された動作は、本職の舞人にも劣らないのではと思われた。
 白雪は我知らず「……かっこいい」とため息をついていた。
 ただの女装好きな変人操舵手じゃなかったんだ、と見直したときである。
 曲調ががらりと変わったのは。
(……ん? これは――)
 今度はうって変わって、風と波の音と絡むかのような……ひどく甘ったるい曲だ
 ハロルドがそれまで旗のように振っていたショールを、流れるような動作で腰に巻きつけたかと思ったら、舞いの雰囲気までもが一変した。
(って……え? ええええ!?)
 なまめかしく身をくねらせ、長い髪をかき上げる仕草は、まるっきり女のものだ。というか一瞬本気で女性に見えて目を疑った。
 先ほどの切れ味たっぷりの舞人とは別人で、周りの海賊たちに媚びを売るかのような動きは、ろうたけた娼婦さえ連想させる。
(い、いいの? こんなことして……?)
 どうやら男性の動きから女性の動きへ――一人二役をするのがこの舞いの見所らしいと不調法な白雪にもわかってきた。男だらけの海賊船ではかなりスレスレの冗談のように思われたが、海賊たちは「いいぞ変態!」などとはやして、思いっきり楽しんでいる。
 確かにすごい技量だ。
 すごいと、思うのだが……白雪は内心ちょっと複雑だった。
(……わたしなんかよりも、はるかに女の色気があるような……)
 自慢ではないが、母国でも女の子らしさとは縁遠かったし、実は女だとバレるほど今の自分から女性的な何かがにじみでているとは思えないし――男のフリをしているのだから、それでたいへん結構なはずなのに、なんだろうこの敗北感は。
 なんとも言えない顔でハロルドの舞いを最後まで見終えると、ぽむと肩を叩かれた。
「白雪ちゃん。悪いけど、これ、配ってきてくれる? そしたら食事にしていいから」
「――はい! 今すぐ」
 愛想のいい料理長エルバートに託された、ワインを中心とする新しい飲み物を載せた盆を手に、白雪は再び船員たちの間を泳ぐ。
「なんだよ新入り、こういうときはあのドレスでも着てこいよ」
「……汚したくないから駄目です」
「汚してもハロルドなら怒らないと思うぜぇ」
「おい、ちびすけ、長老んとこにも行ってやんな。演奏しっぱなでお疲れだろうからよ」
「了解しました」
 ギルバート船匠長に、スカーフを巻きつけた頭をぽんと叩かれて、白雪は方向転換する。
「長老」と言われる人物は、メイン・マストの根元にたたずんでいる。オライオン号最年長の海賊、イアン=ダルフォードのことだ。
 鷲鼻のたいへん彫りの深い顔立ちで、総白髪を後ろでざっくりと縛っている。
「あの――いかがですか?」
「……む? そうだな、もらおう」
 フィドルという西方の弦楽器を抱えた老楽士は、白雪がおずおずと差し出した盆から、紅茶を選んだ。飲み干す仕草は洗練されていて、海賊らしからぬ教養の高さを感じさせる。
 潮風吹きすさぶ船の上という物が劣化しやすい状態にもかかわらず、フィドルはぴかぴかで、調律の具合もよい。
 肩書きは楽士だが、新月の夜を思わせる漆黒の双眸には、若い海賊たちとは違う深く力強い光がみなぎっており、ただ楽器を引いてきただけではないことがうかがえた。……おそらく、何度も戦場を経験しているのだろう。
「少年は、この船にはもう慣れたか?」
「みなさんに親切にしていただいているのでとても過ごしやすいのですが……慣れた、と言えるほどお役に立てている自信は、あまり」
「少年はまじめだな。わしの見る限り、おまえさまは確実に自分の言いつけられたことはこなしているではないか」
「それは当然のことです」
「当然のことを着実にやれるやつは、それだけでも偉いと思うのだがな。――ま、焦らずに精進するがよい」
 乾いた手に、背中をぽんと叩かれる。
 はい、とあごを引きつつ、白雪は長老イアンのオーラに感服していた。この老練の海賊の声を聞くと、何百年もの年を経た大樹を見上げたときに感じるのと似た、静かな重みが肩にずしりとくる感覚が身体に満ちるのだ。
(クリス先生もそうだけど……)
(……長老も、いくら金額が莫大でも、お金目当てに海賊をやっているようには思えないな)
 そこだけはやはり引っかかったけれど、今考えこむことではないので、とりあえず頭の片隅に疑問を押しこめておいた。



 編んだ黒髪をしっぽのようになびかせながら、白雪が再び給仕に戻ると、やがて長老イアンが演奏を再開した。
 今度はさわやかで、どことなく優雅な調子の曲だ。酒が入って上機嫌の海賊たちが続々と踊りだしたことで、白雪はそれが、みんなで踊って楽しむための曲であることに気づく。
「――ワイン、もらっていい?」
「ヴィンスさん」
 盆に残っていた最後のカップを、風のようにさりげなく取り上げたのは、月明かりと同じ色の髪をした少年司祭。
 先ほど船長から「要注意」と言われたその人からの接触に、白雪は思わず固くなるが、ヴィンスはそんな彼女の緊張に気づいていないのか――あるいは気づいていてわざととぼけているのか、さわやかに話しかけてくる。
「さっきから動きどおしだけど、大丈夫? まだ何も食べてないだろう?」
「ええ、まあ……。これを配り終えたら食事をいただくつもりでしたから」
「それはよかった。――はい」
 と目の前に差し出されたのは、いろいろな料理が盛られた皿だ。白雪が料理長を手伝いながら、食べたいなと思っていたものも。
「みんな食いしん坊で、すぐになくなってしまうから。初めての祝宴なのに、つまらないものしか食べられないんじゃ可哀想だと思って」
 わざわざ、白雪の分をとっておいてくれたらしい。
 要注意人物のはずなのだが、予想外のやさしさに、一瞬それを忘れて感動してしまう。
「ありがとうございます……わざわざ、こんな」
「君は嫌いなものはない?」
 白雪はとりあえず、うなずいておいた。苦手と感じるものはあるにはあるのだが、西方の食事は食材も味も見慣れないものばかりだから、食べてみないことにはわからない場合が多い。
 音楽を聞きながら、料理長が腕によりをかけた料理に舌づつみを打っていると、ヴィンスが不意に、舷側の向こうの夜空を指さした。
「ああ、ほら――南十字星だ」
「え?」
「たぶん、君の国の緯度では見えない星座だよ」
「いど」
「簡単に言うと、国や島がある場所を表す座標――数字のことかな。僕たち船乗りには必須の知識だ。気候はもちろん、風や星の位置も変わってくるし」
「場所が変わると……見える星も違うんですか?」
「うん。あの南十字星なんかは、代表的だよ。――これに似てるから、僕」
 丁寧に説明しながら、ヴィンスがシャツの胸元から、首に下げていたものを引っ張り出す。

 十字に交差した台座に、彼の瞳よりも深い緑色をした輝石や金剛石が散りばめられたそれは、確か異国の神のしるしだと聞いた。海賊たちは案外信仰心のある者が多く、似たようなペンダントをしている人を、白雪は何人か知っている。
 ――地平線すれすれの場所でひときわ輝く、四つの星
 それは確かに、空の十字架――母国では見たこともない星座だった。
(そうか……)
(……もう、だいぶ遠くまで来てしまったんだ)
 綺麗にした皿を手に、白雪はふと、感動のようなものと心細さに胸をおおわれる。
 静かに波立つ、夜の海面。
 船からの灯りを照り返すさまは美しく、けれど海の広大さとこのただ一隻の船の小ささを浮き彫りにさせるよう。この果てのない海のどこか、はるか遠くの水底に、父の魂は眠っているのだろうか?
 そんなことを考えはじめてしまうと、また悲しくなってしまうのだけれど。
「おなかは大丈夫?」
「あ、はい。満足しました」
「それじゃ――踊っていただけますか?」
 とびきり典雅な言葉遣いとともに、ヴィンスが、すっと手を差し伸べてくる。
 白雪は面食らい、何度も瞬いた。
「えと……お気持ちはうれしいのですけど、わたし、こういう踊りは経験がなくて」
「大丈夫」
 ヴィンスはにこりと微笑んだ。
「僕が踊らせてあげるから」
 春の光を感じるような優雅な笑顔は、やはり天使のよう。
 けれどきっぱりとした口調や、白雪の手をぐっと強く引く動作は意外と男らしくて、有無を言わせないものがある。その二面性に戸惑っているうちに、白雪はいつのまにか、少し開けてあった場所へと連れ出されていた。
(さ、さりげなく強引だなあ……)
 周りでは、すでに何組かが、笑いを狙って男同士で踊ってみせている。
 さすがにハロルドの女舞いほど本格的かつ熟練のものはないが、大の海の男が昆布のようにくねくねとシナを作るさまは、噴き出さざるを得ないほど可笑しいものだ。
「白雪、僕の足元の真似をして」
「足元――」
「1・2・3って頭の中で数えながら、ね」
 白雪の手をそれぞれとって、ヴィンスがささやく。――耳のそばでというのは、思わず背筋がぞくぞくするのでやめていただきたいと白雪は心の底から思った。こうして手を握られ、身体の距離が近づくだけでも、かなり心臓に悪いというのに。
 ヴィンスの月の神のごとき美貌を直視しないように気をつけながら、教えられるまま、ゆっくりとステップを踏んでいく。
 最初は腰が引けていたが、動き自体は規則的で、簡単に思えた。
 少なくとも、小さい頃から叩きこまれてきた武術の歩法などより、はるかに気楽だ。
「そう、上手だよ。筋がいい。君がお姫さまだったら、すぐに慣れて、舞踏会でデビューできそうだね」
「……はい!?」
「言わなかったかな? この曲は、舞踏会で男女が踊る曲なんだよ」
 そんなことは微塵も言ってくれていない。
 というかそんな際どい情報を知っていたら、女っぽく見られては困る白雪は、どうにかして固辞していたところだ。今さら遅いようだが。
「舞踏会って、おとぎ話でお姫さまが王子さまと踊る、あれのことですか?」
「ああ、君は物語本で言葉を学んでいるんだったね。そうだよ。――僕たちの母国では、お姫さまに限らず、ある階級以上の生まれのお嬢さんは、みんな舞踏会に出席して、結婚相手を見つける習慣なんだ」
「……ヴィンスさんは海賊なのに、どうしてこんなにダンスが上手なんですか?」
「まあ、僕の人生にもいろいろあるっていうことだよ」
 ヴィンスは微笑みを絶やさない。
 ――そういえばこの人も、お金目当てに海賊稼業を選ぶとは思えない雰囲気だ。
 それとなく裏があるようだし、船長もヴィンスの秘めた部分について示唆していたが。
「本当は、昼間のドレスの君とこうしたかったんだけどね」
「……ドレスはもうこりごりです。歩きにくいし」
「似合ったのに」
 褒められても、反応しづらい。白雪は密着しないように身を引きつつ、ヴィンスの表情をうかがいつづけた。
 それにしても――さわやかな笑顔なのに、どうして妙に危うい色気があるのだろう。
 見るからに危険で毒のありそうなアレクと違って、一見無害そうなのが逆に恐ろしいのかもしれないと頭の片隅で思いながら、慎重に言葉を選んだ。
「……男なのにああいうものが似合ってもうれしくないですし、転んでフィロさんにぶつかって冷たく睨まれただけでも、もう結構という気になります」
「フィロか。そういえばフィロの『通過儀礼』もすごかったんだよねえ。変な色気が出てて、何人かが血迷って迫ろうとしては殴り倒されてたな。確か『俺の助手に何するんじゃい』って副長に鼻の骨を折られて、クリス先生のお世話になった人もいたかな」
(……それは要するに、男色を迫られたと?)
 白雪はなんとも言えない顔になった。
 普段「可愛いぜよ〜!」と言いながら抱きついてくる悪癖のある副長に怒られても説得力があるんだろうか? ないんじゃないか? と妙なことが気になりはしたが。
「君は清純派の可愛い系かつキャビンボーイで助かったんだよ。――それに本物の女の子みたいに見えても、さすがに船長のものには手を出せないし」
「……そうですね」
 妙に含みのある言い方が、また白雪の胸騒ぎを誘う。物語よりも王子様めいた美少年との時間に、うっとりする余裕などない。
 例の警告めいた言葉。
 オウムのアーサーの「オンナノコ」という口癖。
 ケーキを食べさせてくれたりと、新入りへの面倒見という域を微妙に逸脱して甘やかしてくれること――
 ぐるぐると頭の中で考えながらも、なんでもないような表情の仮面をかぶり、どうにかヴィンスの教えのとおりにステップを踏んでいると、曲がいったん終わりに至った。続いて、リズムは同じだが、今までの曲よりも奔放に音が跳ねて遊ぶような曲が始まる。
「あの、それじゃヴィンスさん――」
 わたしは一曲で十分ですから――とすかさず離れようとした白雪の手を、彼女の背後からとる者がいた。
「じゃ、今度はおれ……じゃなかった、あたしねー」
「――って、ハロルドさん!?」
「いやん、今はハリエットって呼んで」
 女名を主張して、右目でウィンク。
 さほど長身ではないとはいえ、小柄な白雪より頭ひとつ分近く背が高いのに、女めいた媚びの動作がやたらと似合う。
 ……たぶんきっと願わくば冗談なのだろうが、実は非道徳的な趣味の持ち主なんだと告白されても、ちっとも驚かない自信が固まりつつある白雪だ。
「ハリエットでもなんでもいいですけど、わたしは給仕の仕事が」
「君一人がいないくらい、大丈夫だよー」
「……でも」
「こうやって見世物になってみんなを楽しませるのも、新入りの大事な役目だよ? おれの用意した服を着てくれなかったんだからさー。これくらいはしよう?」
「…………う」
 それを持ち出されると弱い。
「あれーなんで普通の服に戻ってるの?」「ドレスを汚したらマズいですから」「そのために作業着あげたのにー」「あれは……その……スカートの丈が短すぎて」「えー、あれって膝上ギリギリ丈だよね? 別に下着が見えるほどじゃないんだからいいじゃんー」「ちっともよくありません!」「お堅いなー」
 ――と、ちょっと強引に押し切ったのは、祝宴が始まる前のことだ。
「おれが女役やるから、君はさっきのヴィンスの動きをしてみせてー」
「ヴィンスさんのって――こう……ですか?」
「そうそう、君は飲みこみが早いねぇ」
 身長差のせいで若干苦しいが、スカート風にショールを巻いた腰におずおずと手を置いて、ハロルドをリードするような体勢に持っていく。
 やっている白雪にはなんだかしっくりこないが、お堅い美少年を年上のおねえさんが誘惑しているかのような図に見えるのが、海賊たちには大ウケしたようだ。巧みなハロルドに、半ば引きずられるようにしながら一曲踊り終えると、景気よく拍手されてしまった。
「お疲れさまー。」
「〜〜〜〜ッ!?」
 白雪は後ろにぶっ倒れそうになった。
 身体を離す直前、ハロルドのやわらかな唇が、彼女の頬になにげなくふれたのだ。
 そんな二人の様子に、周囲では、海賊たちがげらげらと大笑いしている。……悪質な冗談だというのは考えるまでもなくわかったが、心臓に悪いので勘弁してほしい。
「そうそう、可愛いキャビンボーイさん――アレク船長が呼んでたよー。おれと踊り終わったら来いってさー」



 船首に近い甲板の、上が円卓のように使える索巻き機のまわりが、アレクたち幹部クラスのテリトリーだ。
 船長のアレクを筆頭に、副長バージル、船医クリストファ、戦士長ダリウス、甲板長ジェフリー、司祭ヴィンセント。――こうして一同に介すると、みな、タイプの違いはあっても顔立ちの整った男たちばかりだとわかる。
 椅子に座って行儀悪く脚を組んでいるアレクに近づこうとしたときだ。
 視界の端から、何かが飛んできたのは。
「!」
 驚きながらも、御庭番の一族として鍛えられてきた反射神経で、それを受けとめる。
 ――流木を削ってこしらえたとおぼしき、素朴な木剣だ。
 確か、白兵戦の訓練で使う道具のはずだが――なぜここに、しかも吹っ飛んできたのか?
 激しく当惑しながらも、いやな予感に眉をひそめた白雪に答えをくれたのは。
「――へえ、いい反応してるじゃねえか。こいつは楽しみだ」
 低い声。
 赤髪の戦士長ダリウス・デイ=ルイスが、ばっと振り返った先にいた。彼が木剣を投げてよこしたのだということは、ダリウスの手にも白雪のそれと同じ木剣が握られているから、想像するまでもなかった。
 ダリウスは木剣を、白雪の目と鼻の先に突きつけた。
「今のダンスで準備運動は十分だろ?」
「え――」
「余興だ。手合わせしようぜ」
「……わたしが戦士長と、ですか?」
「決まってんだろ? 俺様が切れ味を試してない新入りは、おまえだけなんだぜ」
 そう言われて思い出す。
 クリストファから、戦闘狂のダリウスに無茶を吹っかけられないよう、鍛錬の時間は彼に会わずにおけと言われていたことを。言われたとおり、普段は、夕刻はなるべく露天甲板に近づかないようにしていたのだが。
(なのに――今、ここで?)
 うろたえ、思わず船医の姿を求めてずらした視線が、船首のほうで椅子に悠然と腰かけているアレクと――闇の中でも青く燃えるように隻眼とかち合う。
 やってみろ、とでも言うように、アレクはあごを軽くしゃくった。
 妙に楽しそうなその表情に、瞬間、彼の言葉が甦る。
 ――『剣はどの程度使える?』
 ――『ちょっといいことを思いついただけだ』
 ――『後で教えてやるから、おまえはいつ何が起こってもいいように構えておけ』
(まさか、これが……?)
 ダリウスとの手合わせで、剣の腕を示してみろというのか。
(そんな……荒療治すぎる)
(確かに、ここで『男』を上げられたらいいかもしれないけれど)
(相手が、よりにもよってこの戦士長なのか……)
 父の命で、剣術はもちろん、武術と名のつくものはひと通り学んできた。男のするような修練を積まされもしたけれど――
「――ダリウス。もう酒を過ごしたんですか」
 割って入ったのはクリストファだ。ダリウスの猛禽のごとき視線からかばうかのように、彼は白雪の前に立つ。
 ダリウスがつまらなそうに舌打ちする。
「なんだよクリス。めずらしく俺様が張り切って仕事しようってのに、邪魔する気か?」
「彼は――白雪は、まだこの船に慣れたとは言えません。無理はさせたくないというのが、船医としての気持ちです」
「慣れた慣れないが関係あるかよ。今日は船首追撃砲だけでカタがついたが、接舷して白兵戦になったら、船ん中に安全な場所なんてねえんだぜ?」
「あなたにしては理屈が通ってますが、問題はそういうことではないでしょう」
「そういうことだと思うけどな俺様は。だいたいそこのちびすけは、母国じゃ姫様の護衛をしてたんだろ? 俺様の手ほどき程度に耐える根性がないとは言わせねえぜ」
 ――クリストファがかばってくれたことと、朧姫の件を持ち出されたことで、白雪は逆に覚悟が固まった。
 何も、命をとられるわけではないのだ。
 お世話になっている船医をわずらわせ、あるじをナメられるよりは、いっそこの危険な賭けに参加してしまうほうがマシだと思われた。
「大丈夫です、クリス先生。わたしはやります」
「――本気ですか」
「……いつまでも逃げられるとは、思っていませんでしたし」
 互いにだけ聞こえる小声でやりとりする。
 クリストファはしばらく複雑そうにしていたが、やがて嘆息した。心配そうな表情を消さぬまま、諭すように白雪の肩に軽く手を置く。
「無理だけはしないでください。ダリウスは見てのとおり危険な男ですが、ああ見えても悪魔ではないから、あなたを無駄にいたぶることはしません。もう戦えないと思ったら、迷わずに降参すること。彼に勝てないのは恥でもなんでもありませんから」
「……心得ました」
 白雪は神妙にうなずき、木剣を握りしめて、ずば抜けた長身の戦士長の前に進み出た。
 昂然とした彼女の瞳に、ダリウスはおもしろがるように笑う。薄暗がりの中、金色の瞳が、猛禽の眼光を宿した。
「腹ぁくくったか」
「はい」
「ルールは簡単だ。――俺は利き手は一切使わない。おまえはその木剣で、俺の身体のどこにでも攻撃できたら勝ちだ。的がでかいから簡単だろ?」
「……他は、なんでもアリなんですか?」
「おうよ。脚を使おうが、引っかこうが、咬みつこうが、おまえの自由だ。ま、そんな女々しい攻撃でこの俺様をどうこうしようっていう考えでイケるかは別だけどな」
 念押しされるまでもない。
 まともにやって勝てるとは正直思っていないが――
 無様に負ける気も、またなかった。


2010.07.19. up.

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