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第3章 聖なる石と空の十字架




 船速が上がっていたので、バージル副長は釣りをあきらめ、副長室に下がっていた。
「おお、来たか来たか」
 目を糸にした笑顔でバージルが扉を開け、白雪を招き入れる。
 彼女を連行してきたフィロも、用は済んだとばかりに露天甲板[ウェザー・デッキ]に戻ろうとしていたのだが、バージルにやや強引に招きいれられた。フィロ本人は「用がないなら戻る」といやそうな顔で主張したのだが、バージルは「照れんな照れんな」と軽〜く聞き流していた。
 無愛想なフィロだが、バージルには逆らいきれないようだ。紅玉石の瞳に「不本意」の文字がはっきり見える気がする。
(のれんに腕押し、という言葉を思い出すかも……)
 部下のそっけなさにもまるでめげないバージルを前に、内心そんなことを思ってしまいつつ、白雪は室内へと目を向けてみた。

 窓から明るい陽射しがそそぐ室内は、アレクの船長室よりは片付けられている。が、あまり統一感はない。
 壁には地図やバージルの手による風景画が張られているかと思えば、そのそばに伝統的な海賊の装備だという刃がゆるく弧を描く剣が飾られており、さらにその向こうには彼の愛用するさまざまな釣具が陳列されているのだ。
 さらには中央にある円卓にも、地図や何かの帳面とまぜこぜになって、作りかけの釣り針らしきものが転がっていたりする。
(仕事と趣味が、一緒くたになってるな)
(アレク船長もそうだけど……混乱しないのかな?)
 父・冬厳[とうげん]の書斎は、いつ見ても、几帳面を絵に描いたようだったので、妙に新鮮だ。
 筆や硯は、それらの定位置から髪の毛ひと筋ほどもズレていたためしがなく、おまけに塵ひとつないほど清められているせいで、人間が住んでいるとは思えないほど整然としていた。
 いろいろな男の人がいるものだ。
 ――いて当然なのだが、これまで自分が、父以外の男性にちゃんと目を向けていなかったことに気づかされた想いだ。

 ともあれバージルは、ここでかっこよく一等航海士らしい仕事をしているわけではなく、大柄な黒猫といった感じの妖精――ケット=シーたちを集めて、一人一人(?)ブラシをかけてやっていたそうだ。暇つぶしに。
「潮風浴びてると、毛並みが荒れやすいからな。俺のブラッシングは痛くないし毛並みが上品に整うって好評なんだぜよ」
「はあ」
 飄々として掴みどころのないバージルらしいと言えば、らしい。
 青い矢車菊の花のようなドレスを着せられた白雪を上から下まで眺めると、バージルはまずこう口にした。
「通過儀礼、お疲れさんな。大変だろう? おちびさんは特に、俺らの服に慣れとらんし」
 意外と冷静な口調だった。
 白雪はまた「かわいーぜよー!!」と突撃されるかと身構えていたのだが、それはなかった。
 自意識過剰だったかな……と内心恥じている白雪に気づいたらしく、バージルがにこやかに付け足してくる。
「おろおろしなさんな、俺もちゃんと、おちびさんが可愛いとは思ってるぜよ? ただ、俺とハロルドは好みが違ってのう」
「好み……? どこがどのように」
「俺は男に女の服を着せるっていう、ちょっと無理して作った可愛さよりも、こう……普段どおりのナチュラルな仕草から生まれる意外な可愛らしさに、健全にときめくんだぜよ。図体のでっかいおっさんが、小動物みたいにまるまって寝てる姿のほうが、おっさんのドレス姿よりも胸キュンなわけで」
「…………深い……ですね」
 ……うまい言葉が組み立てられなかった。
 救い、もしくは共感を求めて傍らをうかがうも、フィロは無言で「俺に聞くな。俺だって理解できない」という空気をかもしだしていた。バージルとの付き合いが白雪よりも長いはずの黒髪の少年でもついていけないなら、副長の特異すぎる嗜好について、白雪などは脳髄をしぼっても理解できそうな気がしない。
「俺もやったなあ。もう10年以上昔になるか」
「副長も、女装を?」
「俺んときは、膝の上までスリットの入った黄色いドレスだったぜよ。頭に宝石のついたリボンを飾って」
「…………」
「想像しただけでそんなに蒼褪めるほど気持ち悪いかい?」
「! い、いえ、そういうわけじゃ……!」
「はっはっは。焦ってるおちびさんは可愛いぜよ〜」
 ぎゅう、と。
 普段のように抱きつかれたけれど、普段よりは勢いが八割減といった感じで、バージルが本当に女装が好みではないことがうかがえる。男装していたときのほうがこってり可愛がられるのは、微妙に複雑だが――昼行灯に見えても一等航海士らしい聡明さを持つバージルに、「実は女か?」と疑われなかったのは安心した。
「副長」
 白雪たちのやりとりを距離を置いて傍観していたフィロが、氷の塊でも落とすみたいに、ぽつりと呟いた。
「なんだぜよフィロ?」
「用件は」
「お! すっかり忘れとった。おちびさんを呼んだ理由だけどな――これだこれ」
 部下の冷淡なツッコミで我に返ったバージルが、壁際にあった箱から、砂色の布に包まれた細長いものを持ってきた。
 白雪も我に返って円卓に駆け寄れば、彼女の目の前で、バージルが布をするりとほどく。
 白雪は大きく目をみはった。
「! これは――」
「おちびさんの剣、だろ?」
「そうです! てっきり、漂流してる間に失くしたかと思ってました――」
 白雪は感嘆の息をのみ、しばらくぶりに見る愛用の刀に釘づけになっていた。
「……『雪月華』」
 白雪の母国で鍛えられた氷刃だ。
 元通り――否、それ以上に綺麗にみがかれている、白雪のような少女には不釣り合いな漆黒の鞘。刀身はさほど長くはないが、短刀というほど短くもない。
 片手打といって、男なら片腕でかるがると扱えるし、女の腕力でも苦労せずに振れる軽量の刀である。白雪の一族では、一人前の忍びになった証として、各人の体格や戦い方に見合った武器が贈られるのだが、彼女の場合はこれだった。
 白雪のために造られた刀なのだ。
 父が、娘には片手打を、と手配してくれたという話も聞いている。普段はあまり声もかけてくれない、あの父が。
 ――だから当然、思い入れは強く、深かった。
 しかし、巫女姫の身代わりになって戦うというあの大変な状況で、これといったケガもなく生き延びられただけでも奇蹟だと思っていたから、『雪月華』についてはあきらめていた。……あきらめるしかなかった。
 なくしたものについて、くよくよ考えないようにもしていた。この船に助けられてからは、いろいろな意味で、落ちこんでいる暇なんてなかったし。
(それなのに)
(――戻ってきてくれた。……よかった)
 手元に『雪月華』を引き寄せ、両腕でぎゅっと抱きしめる。
 女々しい仕草かもしれないと頭の隅で思ったけれど、そうせずにはいられなかった。実を言えば、泣いてしまう寸前だったのだ。
 こらえられたのは、バージルの温かい視線とフィロの無感動な視線、どちらのお蔭なのか。
 ぽむ、と頭に手が置かれる。
 大きな乾いた手。バージルだ。
 はっとして見上げると、副長は少し申し訳なさそうに眉尻を下げて言った。
「もっと早くに教えてやればよかったかのう。おちびさんの剣は俺が修理してるって」
「副長が修理してくださったんですか!?」
「海水に長く浸かってたせいで、刃がちょい錆びかけてたのと――たぶん、何か衝撃を受けたせいで、柄と刃の固定がゆるくなっていてな。鍛冶担当の奴と相談しながら、手入れし直してたのよ。俺らが普段使ってる剣よりも刃の作りや構造が繊細でな、いろいろ悩んだ」
「ごめんなさい……そんな大変なことを」
「いやいや、謝るこたないぜよ。それよりは『ありがとう』のが聞きたいかな?」
「ありがとうございます!」
「うんうん、素直でよろしい! ――ま、俺も勉強になったぜよ。俺たちが普段使ってるのとはだいぶ造りが違うが、いい剣だ。おちびさんの国で輸入して、西方で売ったら、高くさばけるかもしれんなあ」
 最後には海賊らしい抜け目なさをのぞかせたバージルに、白雪は何度もお礼を言った。
「よし。そいつがあれば、おちびさんでも戦えるな?」
「もちろん――」
 です、と答えかけ、ハッとして白雪は言葉を途切れさせた。
 ――母国での「戦う」と、この船の上での「戦う」は、意味が違う。
 そのことを思い出した。
 ここで戦うということは、掠奪行為だ。
 物を奪うために、人を傷つける。時には殺す。
 朧姫[おぼろひめ]――あの純真可憐な巫女姫さまを護るためなら、人を殺める覚悟はあったけれど。海賊の下っ端として、罪もない人に刃を向けることが、わたしにできるのだろうか? 金品を奪うため、そんな誇り高いとはいえない目的のために。
(少なくとも、父上は……)
(父上は、そんなことをさせるために、わたしを鍛えたんじゃない)
 そう思うと、たまらなく胸が痛む。

 ――『同じ船の仲間として、これから一緒にがんばろうね』

 銀髪のヴィンスは、そんなふうに言ってくれたのに。
 白雪が生きて母国に帰るためには、オライオン号の役に立たなくてはいけないのだけれど。
(わたしは……)
 適当にあいづちを打って茶を濁せばいいものを、根がまじめなせいで言葉に詰まってしまった白雪をよそに、バージルはフィロと話している。
「フィロ。おまえさんはこの子の教育係として、戦闘配置ももう考えとるんだろ?」
「無論」
「やっぱり火薬運び係[パウダー・モンキー]かい?」
「基本は。でも、船大工として鍛えるのも手」
「ああ、おちびさんは細くてちっこいから、狭い場所でも修理してもらいやすいわな」
「そう。他にも、使いどころは考えてる」
「よし、任せたぜよ。――ところでおまえさんは、白雪の今日の格好はどう思う?」
 唐突すぎる話題転換に、白雪はずっこけそうなほど驚いた。
 隣に立つエキゾチックな美少年をうかがえば、案の定、無表情なりにげんなりした様子を露わにしている。
 フィロはものすごくイヤそうに言った。
「別に。何もない」
「何もってことはなかろう。好みか好みじゃないかぐらいは、この副長さまに報告してもいいぜよ。ほれほれ言うてみ?」
 対照的に、無駄に楽しそうに問いを重ねるバージル。
 フィロはますますイヤそうに嘆息した。視線の険が増している。
(止めたいけど……ど、どうしたらいいんだろう?)
 白雪は妙な展開におろおろとして、噛み合わない上司と部下を交互に見る。
「報告することも、ない」
「照れなさんな、フィロ。俺とおまえの仲でないの」
「意味不明」
「そういや、おまえさんも通過儀礼のときは、ハロルドに結構アレなのを着せられてたのう。確かあのドレスは――」
 白雪もうっかり好奇心を疼かせてしまった言葉を、バージルは最後まで口にしなかった。
 いや、できなかった。

 ――突然響いた音が、多少問題はあってものどかだった空気を砕いたから。

 白雪は初めて聞くそれにびっくりして、目線を上に跳ねあげた。
 激しい音は、上の甲板から聞こえてくる。
 ゴォ――ン、ゴォ――ンと、長く、そして重々しく響く鐘の音。
 まるで火事のときに鳴らされる警鐘だ。太鼓が素早く連打されていると思しき音が、それに重なる。意味はわからないなりに、白雪は焦燥をあおられた。不吉な予感で背筋が震える。それはそんな威力をもった響きだった。
(一体何が……?)
 気づけば、フィロの姿が忽然と消えている。
 彼はそこから飛び出したらしく、扉は大きく開け放たれており、通路を行きかう船員たちの慌しい足音や指示を飛ばす声がここまで届いてくる。昂奮と緊張が、波のように副長室を満たしていった。
『セイル・ホー!』
 ――そんな言葉が繰り返されている。
 わけがわからず棒立ちになっていると、
「『船を発見した』――っていう意味だぜよ」
 バージルが答えをくれた。
 振り仰いだ白雪は、副長のオリーブグリーンの瞳に、冷たい炎が宿っているのを見つける。
(戦場に向かう前の、父上みたいな目……)
 戦う者特有の、研ぎ澄まされた光だ。
 目を糸にする笑顔や、のんびりとした雰囲気などは、とっくに消えている。普段のバージルとはまるで別人だ。バージルとは性格が正反対な双子の兄とこっそり入れ替わりました、と言われても納得してしまうかもしれない。
「船というと――」
「そのとーり。獲物だぜよ」
 呆然と見ている白雪の前で、バージルは腰のベルトに銃を突っ込み、金色の薔薇が絡みつく装飾が美しい大剣まで手にする。どちらも壁に金具で飾られていたものだ。武装。その言葉が白雪の頭に焼印のように押しつけられた。
 物々しい雰囲気にそぐわぬ、小さい子に童話の筋でも教えるような、さらりとした口調でバージルは補足した。
「で、この鐘と太鼓は、総員戦闘配置につけっていう合図なんだな」
 白雪は思わず、ぞくりと震えた。
 愛刀が手元に戻ったと思ったら、こんなにも早く――
「お仕事の始まりだぜよ。――とりあえず、甲板に行こうかい?」



 強い風が、黒髪をなぶる。
 天を突くマストには、初めて見る旗が揚がっていた。
 闇空を切りとったかの如き漆黒の地に、重厚な風合いで刺繍された黄金の髑髏[どくろ]
 その禍々しく笑ったように見える顎の下には、交差した剣と、血を連想させる真紅の薔薇。
 ――海賊旗。
 白雪の脳裡にその言葉がよぎる。
「右舷、2時の方角っす!」
「距離は!? どのくらいで追いつけんだよ」
「逸るなよ、こっちが風上だ。このまま風がもてば、追いつくにはあと――」
 陽射しを照り返す甲板には、ひどく興奮した――そしてその一枚下に、言い知れぬ歓喜を含んだ声が飛び交っていた。
 初めての雰囲気に肌を刺されながら、白雪は階から甲板へと出る。おずおずと人波を縫う。
 気分はまるで、狼の群れに迷いこんでしまった羊だ。船乗りとしては、まだ素人に毛の生えた程度の白雪は、何をすればいいのかもわからない。途中まで一緒だった副長は、他の船員に呼ばれて行ってしまったし。
「砲門を開け、野郎ども! 船首砲用意!」
 ――船長。
 仁王立ちで指示を飛ばすアレクの姿が、視界に飛びこんできた。
「フィロ! 射程に入り次第、挨拶してやんな」
「了解」
 戦闘時は砲術係となるフィロが、命令を受けて船首に向かう。
 特に振り絞っているように見えないのに、アレクの声は喧騒の中でも不思議とよく通る。真昼の強い陽射しが、ただでさえ輝きのある金髪に光を添えていた。
 整った顔立ちに獰猛な笑みを浮かべた男には、いつも性格の悪そうな笑みで白雪をからかうアレクとはかけ離れた迫力があった。――否。白雪は、彼がかつてこんな顔を見せたことがあるのを思い出す。
(あの人に……唇を奪われたとき)
 出逢った最初の日。
 白雪の度胸を試すのに、アレクが不意打ちで彼女に口づけを強いたとき。
 唇が重なる寸前に見た彼の表情が、まさにこれだった。敵と向き合った金獅子の笑み。相手を狩ろうとする、捕食者の笑み――
 と、アレクがぐるりとこちらを振り返った。鼓動を乱していた心臓が止まりそうになる。
「おまえも来たか」
「あ、……はい。船を見つけたって」
「あれだ」
 白雪が慌てて答えれば、アレクは蒼海の彼方を指さす。
 海の青と空の青の間で、ぽつんと落ちたしみのように見えるのは、白い帆らしい。
「エスパーニャ王国の商船だ。たぶん神華国あたりに行く途中だな」
「えすぱ……?」
「詳しく説明するのは面倒だからしねえが、俺の生まれた国とは最悪に仲のよくない国とだけ覚えておけ」
「敵国、ということですか」
「限りなく戦争に近い状態のな」
「でも……随分、相手が遠くないですか?」
「こっちのが船足ははるかに上だ、軽く追いつける」
 言葉の通り、ありったけの帆にいっぱいの風を受けたオライオン号は、刃で切るように波を突き抜け、ぐんぐんと商船との距離を縮めている。
「ところでおまえ」
 アレクの三日月のかたちに歪められた唇の端から、鋭い犬歯がのぞいた。
 複雑な表情を隠せない白雪を見下ろすと、性悪船長は、からかうように囁いた。
「もう武器を持参してきたとは、いい心がけだな」
「……!」
 耳元にぶつけられた低い美声に、白雪はびくりと肩を震わせた。
 戦える自信がない、などと言える雰囲気ではない。しかし、たとえ言えたとしても、白雪を戦力として数えてくれている人を裏切る真似をするのには抵抗があった。
 期待に応えられないこと、足手まといになること。
 尊敬する父にひと言「よくやった」と褒めてほしくて、どんな修錬にも耐えてきた白雪にとって、それは一番耐え難いことである。
(好機なのに)
(助けてもらった恩を、返せるときなのに)
 フィロの「撃て!」という鋭い声が甲板を貫き、船首に取りつけられた砲台が轟音とともに砲弾と煙を吐いた。その音にどうしようもなく身がすくむ自分が、情けなくて、イヤだ。
 ――『いかなる場合でも、平常心を手放さぬことだ。ことに戦では、平常心を失った者から黄泉路に落ちるぞ』
 父の言葉を、父の声で思い出して心を制御しようにも、うまく行かない。
 青いドレスの胸元で刀を握りしめたまま、動揺を抑えるのに精一杯の白雪に、アレクは何かを悟った顔色で眉をひそめる。だがこの忙しい状況で――しかも他の船員もいる前で、彼女を問い詰めることはできないと判断したのだろう。
 何か言いかけた口を結局は閉ざして、こう命令した。
「ここは間に合ってるから、おまえはまず着替えてこい。そのカッコじゃ、敵に誤解される」
「――はい」
 従順な性格のせいで、命令に慣れた重みのある声音に、反射的に返事をしてしまった。
 アレクは白雪から剥ぐように視線を外し、船員たちへの指示を再開する。
 彼は忙しい。白雪の心のことなんかで、迷惑はかけられない。
(行かないと)
 アレクの言うとおり、着替えに。このまま戦いの用意が進む甲板に、こんな場違いなドレス姿でたたずんでいるわけにはいかない。頭ではわかっていても、まるで鉛の靴でもはかされたように足が重かった。
 高い場所から飛び降りるような心地で、船倉への階に向かおうとしたとき――
 状況が変わった。
「――船長! 向こうさんの船に、新しい動きっす!」
 声が頭上から降ってきた。
 白雪ははたと足を止めて、船員たちでごったがえしている甲板を振り返った。
 戦闘準備のためにいったんメインマストから降りようとしていた船員が、広がる青の彼方を指差している。片手だけで索具をつかんで安定を保つ姿に、危うさはない。おそらく、精鋭の檣帆員[しょうはんいん]だろう。
 訝るような目で腕組みして、アレクが訊き返した。
「動き、だけじゃ意味わかんねえだろ。具体的にはなんなんだ?」
「白旗です」
 簡潔に答えたのは、舷側にたたずんでいたヴィンスだ。束ねた銀髪が、潮風と戯れている。
 ただ望遠鏡[グラス]を構えているだけなのに、そこだけ切り取って絵にしたくなるほどの麗姿の少年は、ひどく冷静な声で報告した。
「停船準備も始めてます。ああ、信号旗が揚がりました。僕が解読していいですか?」
「やってみろ」
「『止マリマス』……『ドウカ、慈悲ヲ』」
「完全降伏か」
 アレクの舌打ちが聞こえた。つまらない、とでも言いそうだ。
「威嚇砲撃だけで腰抜かすとはな」
「僕たちの海賊旗も効いたと思いますけど。泣く子も黙るログレス海賊を敵に回すよりは、多少損はしても無事に帰れるほうを選ぶ。平和を愛する商人の思考としては、ごくあたりまえのことかと」
「ほんとにエスパーニャの商船か? 根性のねえ」
「僕はよかったと思います。怪我せずに儲けられるのが一番紳士的です」
「そんなことはわかってる」
 でもつまらん、と、その曲げた口の端に書いてある。
 白雪は気になって訊ねてみた。
「あの……相手が降伏したら、どうするのですか?」
「皆殺し」
 白雪が頬を引きつらせると、逆にアレクはにやりと楽しそうに笑った。
「――に、する海賊もいるな。中には」
「アレク船長」
 こちらは海賊、それも異国の海賊には初心者なのに、からかわないでほしい。白雪ははっきりと眉をひそめた。
「オライオン号は――あなたはどうするつもりなんですか」
「特に武装もない商船だからな。手荒な真似はしねえよ。取引をしておしまいだ」
「取引……?」
「露骨に胡散くさそうな顔すんなよ。ま、普通の取引じゃないのは事実だがな。こっちは腐りかけの食材なんかを向こうに押しつけて、向こうからは金目の物をいただく。今回はその程度で許してやる」
 今回「は」ということは、相手によっては、白旗を無視してでも叩き潰す場合もあるのだろうか……? 想像すると気が滅入るばかりだが、当面は戦わずに済んだことに、白雪はひとまず胸を撫で下ろした。
(でも、次の機会がくるまでに――覚悟しないと)
 アレクからヴィンスへと戦闘配置の解除が伝えられれば、緊張感はいくらか緩和される。
 と、妙なにおいを感じて、白雪は船首を振り返った。
ああ、砲台から出た硝煙のにおいだ――と思ったとき、ずきりとこめかみが疼いた。
(ッ……?)
 震える息をのむ。いきなり膝が笑い、白雪は慌てて帆柱に手をついた。
 眩暈にまぶたを閉ざせば、記憶にない光景が次々に浮かんでは消える。
 炎に包まれた神宮。藍色の地に金の粒を散りばめたような、夜の空。
(これ……は――)
 巫女姫さまと別れてからのこと? 失くしていた記憶の断片?
 それらは冷たいガラスの破片のように、白雪の胸を次々に突き刺していく。
 必死で記憶のかけらをつかみとろうとしたとき、白雪はかつてない驚きに襲われた。
(……父上――?)
 最後に脳裡をよぎった光景は、信じがたいものだった。
 父・冬厳の、見たこともない表情――
 ――ありえない。そんな。
 どうしてか身体がひどく震えて、『雪月華』を胸に抱いたまま、くらりと倒れかけたとき、白雪は誰かに抱きとめられた。


2010.03.21. up.

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