目次 

第3章 聖なる石と空の十字架




 眩暈の闇に引きずりこまれる寸前に、自分を抱きとめる腕を感じた。
(……誰?)
 他人の体温にびくりと緊張し、白雪は霧散しかけた意識を懸命にかき集める。
 深呼吸。
 頭を振ったり、力をこめて瞬きを繰り返したりしているうちに、千切られた絵のように脳裡に散らばっていた記憶のかけらが、ふっとかき消え、現実感が身体に戻ってきた。海中に頭を押さえつけられていたかの如き眩暈をどうにかやり過ごし、白雪はぼんやりと瞼を開ける。
 まぶしい陽光。
 声が、耳を打つ。
「――ゆき……白雪?」
(この声は)
 甲板にへたりこんでしまった自分を支え、痛ましげに眉をひそめているのは。
「……クリス先生?」
「どうしました。船酔い、というわけではないようですが」
 常に穏やかな船医の顔を認めると、白雪はようやく、身体から緊張を抜けた。
「白雪。私が見えますか?」
 こくり、とうなずく。
 綺麗にみがかれた眼鏡の向こうでは、硬質な知性を感じさせるすみれ色の瞳が、心配そうにくもっている。
 クリストファは普段のきちりとしたビロードの上着姿ではなく、木綿のシャツの上から黒っぽい前掛けに似たものを着用していた。医師というより職人を連想させる格好だ。白雪の戸惑いの視線に気づいたのか、クリストファは理知的な彼らしく、簡潔に補足してくれる。
「これは私の仕事着です。先ほど戦闘態勢という指示が聞こえたのですが、どうやらフィロの威嚇砲撃が命中したせいで、相手の商船はすぐに降伏したとか。――そんなことよりも、問題はあなたです。顔が真っ青ですが、気分が」
「それは、その」
 激しい動揺のせいで乱れていた呼吸はそろそろ整っていたが、ここで話していいものか、というところで白雪は迷った。
 失われていた記憶が、一部とはいえ戻ったことは、すぐにでも報告したいのだが――戦闘態勢が解かれたとはいえ、露天甲板には多くの船員が行き来している。
 場違いな青いドレス姿でしゃがみこんでいる白雪と、彼女を支える船医の姿は、あからさまに視線を集めていた。
(そういえば……アレク船長は)
 もう一人の「報告したい人」を目で探しかけ、白雪はすぐに自制した。
 降伏した商船との「取引」のために、オライオン号が船長の指示を必要としていることくらいは、船乗りとして――海賊として素人同然の白雪でも、予測がつく。自分の個人的な問題でアレクをわずらわせるのは嫌だった。
(ただでさえ、わたしは役立たずなんだし)
 足手まといにだけはなりたくない。
「――場所を変えて話しましょう。立てますか? 白雪」
 彼女の心情を察してくれたようで、クリストファが気遣わしげな小声で提案してくれる。白雪は即座にうなずいて、船医の導きに従った。



 居心地のよい医務室にたどりつく頃には、白雪は冷静さを取り戻しつつあった。
 もはや彼女の指定席になった感すらある、脚にアザミが彫刻された椅子に座るよう、クリストファにうながされる。――腰を下ろした途端、ため息がこぼれた。
 まだ日は高いというのに、先刻の動揺のせいで、まるで一日中索具の修理に終われた上がりと同じくらい消耗していた。
(どうしてわたしは、こんなに弱いんだろう)
 我ながら情けない。
 クリストファは浮かない表情の白雪の前に膝をつくと、彼女の脈などを確かめる。
 彼の穏やかな雰囲気に誘われるまま、白雪は糸をたぐるようにゆっくりと、拾えた記憶のかけらについて話した。
「なくしていた記憶が――?」
「はい。全部、完全にではないんですけど……思い出しました」

 ――夜明け前の、一番深い闇。
 敵の放った火に食い荒らされ、崩れ落ちる神宮。
 巫女姫さまの身代わりを演じる白雪は、突きつけられる刃をあしらいながら逃げていた。
 そこで場面が急に切り替わると、白雪の目の前には父・冬厳がいた。
『無事であったか』――そう、言われて。
 戦人特有の冷たい火を瞳に宿した父と、御庭番衆の仲間とともに、白雪は活路を開いた。
『巫女姫さまが落ち延びるために、我らはおとりとなろうぞ』――それが、次の命令。
 海軍から借りたと思しき壮麗な船で、島を離れた。冬厳の目論見どおり、敵の船が追いかけてくるが、こちらの船のほうがはるかに足が速い。大丈夫、逃げ切れる。このまま適度な距離を保って、一度大洋に出よう。それから。仲間たちの表情には余裕さえ生まれていた。
 なのに――
 信じがたいことに、次の場面では、白雪たちは窮地に追いやられているのだ。
 甲板は廃墟と化していた。帆は一枚残らず引き裂かれ、船は帆走する力を奪われている。
 けものの咆哮のように響くのは、敵が上げる鬨の声。容赦なく砲弾が叩きこまれ、身動きのとれなった白雪たちの船をさらに蹂躙する。地獄絵図と化した甲板に、敵兵とおぼしき数多の黒装束がなだれこんできた。
 破壊に続く戦闘。やがて爆発音が、船尾からとどろく。
『火薬庫に引火しそうだ!』――と誰かが叫んだ。
 船を大きく揺るがす爆発音に耳を貫かれながら、もはやこれまでかと唇を噛みしめた白雪は――

「――お父上に、助けられたと」
「……はい。おまえだけでも助かるのだ、と仰って――爆発が近づく船から」
「海に?」
 神妙な顔のクリストファを前に、白雪はぼんやりとうなずいた。
 ドレスの膝の上で、自分の手を広げてみる。
 ――一体何が起こって、歴戦の御庭番衆たちがあそこまでの壊滅状態に追いやられたのかが思い出せないのは、ひどく気持ちが悪い。だがそれ以上に、峻厳な顔に焦燥をあらわにした父に、痛いほど強く手を引かれた感覚が強烈だった。
 あんなふうに焦る父など、初めて見た。どうして忘れていたのかが不思議なくらいだ。
 でも……。
「あなたの表情が冴えないのは、記憶が急に戻ったショックと――お父上の無事がわからないせい、ということですか?」
 治りかけの傷口を確かめるようなクリストファの問いに、白雪はゆるくかぶりを振る。
「父のことは――たとえどうなっていても……覚悟はしていました」
 というより白雪は、御庭番衆の一族という環境のせいで、父や一族の仲間たちがある日突然亡くなる可能性とは昔から背中合わせだった。物心ついたときから、覚悟とある種のあきらめで心を守っていたのだ。そうしなければ精神が砕けていただろう。
 だから、父の生死については、動揺よりもあきらめが勝っていた。
 眩暈で倒れかけるほどに動揺したのは――その理由は。
「ただ……信じられなくて」
「信じられない?」
「あの父上が、わたしを助けようとするなんて」

 離れても鮮明に思い描ける、凛々しくも険しい横顔。
 やさしい言葉ひとつかけてもらえなくても、父は白雪の憧れであり誇りでもあった。親一人子一人なのに「白雪」と親しみをこめて呼ばれた記憶もなく、寂しいとは思っていたけれど、同時にそうでなくては駄目だとも思っていた。
 ――父は、白雪の父である以前に、御庭番衆の束ね役だったから。
 だからこそ、どうしても不思議だった。
 父が、一族の者たちに指示を出す役目をかなぐり捨てて、白雪を逃がそうとしたことが。
 あの、ひどく必死な表情が――

「第三者の私にしてみれば、お父上の行動は当然に思われるのですが」
 事実を受け止めかねている表情の白雪に、隣に椅子を引いてきたクリストファは、少し不思議そうに言う。
「あなたにとっては、ひどく意外なことだった?」
「……はい」
 父・冬厳との、いわゆる普通の親子とは違う難しい距離感を、うまく表現する言葉が見つからなくて、白雪はそれきり言葉を詰まらせてしまう。
 クリストファは探るような瞳で彼女の難しげな表情を見つめはしたけれど、問い詰めることはしなかった。逆に、ことさら同情したり、ちやほやするそぶりもない。見守ってくれるような距離のとり方に、白雪はほっとして自分の気持ちをなだめることができた。
 だから冷静に、クリストファの言葉を聞けたのだ。
「何も知らない人間の、的はずれな意見かもしれませんが――あなたはもう少し、お父上を信じてもいいように思います」
 信じる、という言葉に意表を突かれ、白雪はすみれ色の瞳をまじまじと見つめた。
「お父上は今まで、あなたが必要としていた言葉や温もりを、十分にはくれなかったのかもしれませんが――命がけの状況で、あなただけでも助けようとした、それは紛れもない事実でしょう? これまで何があったにしても、その事実さえ認めてあげないのでは、お父上が少し可哀想だ。認めて、信じてあげたほうがいいはずです。あなたのためにも」
「わたし?」
「あなたも本当は信じたいのでしょう? お父上が、あなたのことをちゃんと大事に思っていたと」
 白雪は息を詰めた。
 冷静に諭す口調で、図星を突かれてしまっては、反論などできはしない。
「――大丈夫ですよ」
 何が、と具体的には言わずに、クリストファが白雪の頭の上にふわりと手を置く。守られている感覚と、なにげない言い方が、琴線にふれた。
 静かな温もりに、もし母上が生きていたらこんなふうだったのかなと想像する。
 と同時に、意外なほど長い指が父・冬厳を思い出させるから胸にきてしまって、白雪はどうにもこらえきれなかった。はらはらと涙がこぼれる。こぼれてしまう。どんなに厳しい修錬を受けても、泣いたことなんてなかったのに。
(父上)
 あの状況では、まず間違いなく亡くなっているのだろうけれど――不出来な娘と嫌われていたわけではなかったのなら、もう一度だけでいいから、ちゃんとお話がしたかった。もっと自分から、話しかけておけばよかった。冷たくされるかも、と恐れたりせずに。
 悔やまれて、切なくて、寂しくて、懐かしくて。
 みっともない泣き顔なんて早くどこかに隠したいのに、全然できない。
「白雪」
 不意に抱き寄せられて、一瞬どきりとした。
 けれどアレクの悪ふざけとは違って、純粋な気遣いから伸ばされた腕だとわかるから、
「泣いてもいいですよ。少しなら」
 少しの稚気を含んだ、深刻すぎない口調で諭される。
 ああこの人は、わたしをあやしてくれているんだと、白雪は思った。
 クリストファのシャツには、彼の扱ういろいろな薬香草の匂いが交ざって、しみついているようだ。決して不快な香りではない。
 楽器を奏でるのが似合いそうな手が、白雪の黒髪をそっと撫ぜてくれる。
 やさしい手に甘えて、しばらく涙の流れる
(ほんとうに……お医者さまなんだなぁ)
 うつむきながら、感じ入る。
 怪我を治したり身体を健やかにさせるだけではなく、精神まで安らかにしてしまうなんて。まるで魔法のようだ。こんなにすごい人なのに、どうして海賊なんだろうと、また心の片隅で思った。自分の涙で引きつれた呼吸と、クリストファの鼓動を聞きながら。


2010.04.09. up.

 目次 

Designed by TENKIYA
inserted by FC2 system