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第3章 聖なる石と空の十字架




 甲板みがき[ストーン・プレイヤー]
 [ストーン]祈る人[プレイヤー]……?
 ――直訳しただけではさっぱり意味不明だったが、要するに甲板掃除なのだそうだ。
 新入りの水夫が最初に覚えさせられる仕事のひとつで、朝の日課。
 フィロ曰く「バカでもできる」。……極端に無口なくせに、口が悪いと思う。
 そんなわけで、てっきりホウキや雑巾を持って甲板に向かうのかと思いきや――
 渡されたのは、石だった。
 船医クリストファが文字を覚えるために貸してくれた物語本と、同じくらいの大きさだ。白雪の小さな手には余るが、フィロなら片手で扱える、そんな大きさと重さである。表面はつるつるとしていて、ぱっと見は、まるで包丁の砥石だ。
「ホーリーストーン」
 フィロは抑揚のない声で言う。
(聖なる石?)
 直訳するとそうなるが、とてもそんな霊験のあるものには見えなくて、白雪は首をひねる。
「単なるあだ名」
「……『聖なる石』というのは、単なるあだ名、という意味ですか?」
「ん。本当は、やすり。みたいなもの」
「やすり?」
「ん。これで、こうする」
 砂と水をまいた甲板に、ホーリーストーンを両手で押しつけて、フィロはごりごりと前後にこすってみせる。雑巾がけの動作と同じだ。同じだが――
 やってみろ、とあごをしゃくって促されたものの、白雪は大いに戸惑った。
「あの……掃除というより、板の表面を削ってるようにしか見えないんですけど」
「そう」
「え? そうでいいんですか!?」
「タールのシミは、モップじゃ落ちない。削るしかない」
 指さされたところをよく見れば、あめ色の甲板には、点々と黒っぽいシミがついている。
「たーる?」
「木をいぶして作る油」
 防水のために、帆やロープ、船体に塗っているものだという。それが時間がたつと溶け落ちてきて、甲板にこびりつくと。
「でも……タールをこんなふうに削ったりして、甲板が傷まないんですか?」
「ひび割れたら、ロープの繊維をほどいて叩きこんで、タールで固める」
 何がおかしいのという顔で平然と言われて、目が点になる。
 時間が経って、そのタールが溶けだしたら、またホーリーストーンで削りとるという。補修作業の際には、昨日渡された――今は白雪の腰のベルトに挟まれている――「七つ道具」が活躍すると、そこまでフィロは教えてくれた。
 ……納得したような、そうでないような。
 微妙な感じだが、どのみち、やらないわけにはいかない。
 すでに甲板みがきを始めているケット=シーたちを見習って、白雪は濡れた甲板に膝をついた。ホーリーストーンを両手で握り、フィロの見本を思い出しながら、猫妖精たちと一緒になって身体を動かす。
 ごりごり。
 ごり、ごりごご、ごりごり。
 ごりごり、ご、ごごりごりごりごり。
 ……最初にわかったのは、意外と力がいることと、腕と腰にかなり「くる」ことだ。
 なんだ掃除か、と気楽に考えていたが、これはキツい。朝の日課というのもわかる。もし炎天下でこれをやらされたら、疲れと日射病で意識が遠のくかもしれない。
(でも、とれてきた気がする)
 いったん手を止め、ふうと深呼吸してから、気を取り直して作業を再開する。
 ご、ごり、ごりごり、ごりごり――
「――あの……何か用ですか? フィロさん」
 やがて、背後からそそがれる視線が気になった白雪は、再び手を止めて振り返った。
 船縁に軽く腰をあずけて白雪を監督していたフィロは、冷たい目で、ぼそりと言った。
「へたくそ」
「な……ッ」
 ふう、とこれみよがしにため息までつかれて、さすがにカチンときた。
 自分がどちらかといえば不器用な人種だという自覚は白雪にもあったが、面と向かって言われれば、やっぱり反発は生まれる。新入りだし、お世話になっている身なのでぜいたくは言えないが――もうちょっと穏やかな言い方をお願いできないものだろうか。
 が。
「腰。入ってない」
「――!?」
 おもむろに近寄ってきたフィロが、四つんばいになっている白雪の腰にぐっと手を置いてきたものだから、今度は悲鳴を上げそうになった。
(わ、それはちょっと……!)
 あのいかがわしい船長と違って、フィロは白雪を「新入りの14歳の少年」だと思っているのだから、下心はないはずだ。そのはずだが、腰とおしりの境界線という微妙なところを異性の手でぐいぐい押されるのは、精神的にかなりの苦行だ。――母国にいたときは、こんなふうに気軽に身体にふれられたことがないから、余計に。
「〜〜〜〜ッ」
 恥ずかしい、でも下手に拒絶したら変と思われるかもしれない、で硬直していると、フィロがむっとしたのがわかった。
「もっと全身を使う」
「は……はい……」
「集中する」
「……ッ」
 指摘はわかりやすいが、腰に置かれたフィロの手が気になって、とても集中できない。
 もう一度、さっきよりも深いため息をついたフィロが、最高に冷ややかに言った。
「腰。踏まれたい?」
「! 絶対にイヤです!」
 そんな趣味はない! と、焦ってフィロの手を振り払おうとしたときだ。
「――かわいーぜよぉおおおおお!!」
「ふぎゃあ!?」
 後方から突撃してきた誰かに、勢いよく抱きつかれたのは。
 こんな奇行に走る人物は、一人しか――と思ったらやっぱり、副長のバージルである。
「いやー仕事をがんばってるおちびさんも、ちゃんと面倒見てるフィロも、もふもふのケット=シーもみーんな可愛いぜよ〜」
 右腕に引きつった顔の白雪、左腕にげんなりした様子のフィロを抱きかかえて、さらに強引だが器用にケット=シーたちに体当たりして、バージルは歌うように言う。
(うわあ、すごいご機嫌……!)
 幸福感を振りまきながら頬ずりされると、白雪はどういう顔をしたらいいかわからない。
 ――こうやって他人に親密なふれ方をされるのは、慣れていないが、イヤなわけではない。
 バージルがあふれんばかりの(というか実際あふれまくっている)愛情をぶつけてくれるのは、歓迎されているようで素直にうれしいし、ほっとする。お兄さんがいたらこんな感じかなと想像しそうにもなる。
 が、ここまで密着されると、女だとバレないか気が気ではないのが先に立ってしまうのだ。
 白雪は意を決して口を開いた。
「副長、あの……!」
「おう、おはよう! 今日も天気で空気がうまいなあ」
「あッはい、おはようございます――って」
 そういうことじゃない! と、相手があの性格の悪い船長だったら遠慮なくつっこめたのだが――目を糸にしたバージルの笑顔を見てしまうと、とてもじゃないが、そんな口は叩けそうになかった。
(こ……困ったな……)
 ひたすら小さくなってしまう白雪とは対照的に、フィロは、バージルの勢い余りすぎな愛情表現には慣れっこのようだ。頬ずりしてくるバージルの顔を遠慮なく手で押し戻しながら、冷たい目で言い放った。
「副長。邪魔」
「はっはっは。時にうざったいのが親の愛というものだぜよ」
「親と違う。――船長との話は?」
「さっき済んだ! だからそんなに遠慮せず、たっぷり可愛がられるがいいぜよ!」
(いや、もう十分に可愛がってもらってますから……!)
 心の中で叫ぶ。
 うなーうなーと、ケット=シーたちも白雪の気持ちに同意するように周りで鳴いているが、暴走中のバージルはそんなことは気にならないようだ。……まあそうか。白雪が初対面で抱き潰されそうになったときは、バージルは一緒にいたアレクの存在を忘れていたし。
 ――どうしたらいい?
 違う話題、離してくれそうなネタ――そうだ!
「バージル副長、今日は釣りはいいんですか!?」
「釣りなー。やれるもんならやりたいけども、今日は無理なんだぜよー」
「――え? どうして無理なんですか?」
 白雪はきょとんとして、バージルの苦笑いの向こうに広がる空を見た。
 刻一刻と明るさを増していく空は、抜けるように青く、絶好の釣り日和に見えるのだが。
「今日はこのとおり、追い風が強いだろ〜? 7ノット以上で帆走してるときは、魚が釣り上げられないんだぜよ。スピードがありすぎて、釣り針が魚の口に引っかかった途端に、首がもげてしまうのだな」
「ななのっと」
「船の速さだぜよ。7ノットは――馬でいうと小走りくらいってとこか? フィロ」
「そんなもの」
 馬で小走りしながら釣りをするのは、確かに無理そうだ。
 意外なほど論理的な答えに感心し、バージルを見直していると、フィロが再び口を開いた。
「副長。甲板みがきが終わらない」
「おお、そういえば今は朝の仕事時間だったか! ようし、今日は特別に俺も手伝うぜよ」
「え? いいんですか!?」
「いいってことよ。他の仕事はいつでもできるし」
「え……え――?」
 下っ端の水夫がする仕事を、幹部クラスの人にやらせてしまっていいんだろうか?
 示しがつかなくなるんじゃ……と、白雪は危惧するが、フィロはやっぱり、副長のこうしたノリに慣れっこのようだ。「困った人だ」とでも言いたげに肩をすくめただけで、バージルにもホーリーストーンを渡してしまう。
(いいんですか?)
 と目で問うと、フィロはぼそりと「ゴネられても困るから」。
 彼とバージルの、完全に年齢差や立場が逆転したみたいな関係は、ある意味おもしろいと思ってしまった。
 何はともあれ抱きしめ攻撃から解放されたので、ほっと息をつく。
 と、白雪は視線に気づいて振り返った。
 ――噴出しなくて済んだのは奇蹟だった。
 少し離れた後方に、甲板みがきのために船内から出てきた水夫たちが集まっていた。おしなべて人相の悪い、初めて顔を合わせる海の男たちに注視された白雪は、思わず小動物のようにびくっとしてしまう。
(……注目されてる……!)
 新入りと、声の大きすぎる副長と、美少年の組み合わせだ。目立たないわけがない。
 やっぱりどういう顔をしたらいいかわからなかったので、かなり無理はあるけれど見なかったフリを決めこみ、白雪はあたふたと甲板みがきに戻った。その後も感じつづける好奇のまなざしに気づかないフリをするのは、ある意味、男のフリをするよりも気力を消耗した。



 むやみに緊張感にあふれた甲板みがきが終わると、朝食の時間だ。
「遅い」
「……ごめんなさい、でも重くて――」
「置いてく?」
「置いてかないでください!」
 あいかわらず無愛想で発言に容赦のないフィロに連れ回されるまま、腕力の限界まで抱えた掃除用具を片付けて、下層甲板へ(バージルは違う幹部に呼ばれていった)。ケット=シーたちの助けを借りて、仕事道具を船倉の一角におさめる。
(もっと鍛えないとかな……。みなさん、たくましいし)
 船員がみな起きてきたようで、甲板みがきを始める前より、格段に人口密度もにぎわいも増している。朝食の支度もちゃくちゃくと進んでいるのか、どこからともなく美味しそうなにおいと甘い香りが流れてきて、白雪のおなかが盛大に鳴った。
(……あ)
 はっとして下腹部を押さえた白雪を、先をゆくフィロが淡々と振り返る。
「ぐう?」
「……く、繰り返すことないじゃないですか」
 すごい音だなと、紅玉石の双眸が言っている。恥ずかしくて頬が火照った。
(でも……意外と、悪い人ではない。と思うんだけど)
 軽くいじめられている――というか根性を試されている気がするし、要求する水準が高いのでついていくのもひと苦労だが、フィロに悪意はない。と思うのだ。甲板みがきでの容赦ない指導のときもチラッと思ったことだが、白雪相手に限らず、もともと人当たりがやわらかい性格ではないようだし。
(そういうところは、父上にちょっと似てるかな)
 そんなふうに思うと嫌いになれない。
 三つ編みにした黒髪が揺れる、フィロの背中を追いかけながらの物思いは、ふいに中断させられた。
『風ハ北西! 風ヲ抜ケ!』
「――やあ、二人とも。甲板みがき、お疲れさま」
 オウムのにぎやかな声に続いて聞こえたのは、穏やかな美声。
 フィロの背後からひょいと顔を出すと、行く手に、今朝出逢ったばかりの麗人がいた。
 一瞬、彼の周囲にだけキラキラとした光の粒子が舞っているような錯覚を覚えて、白雪は目をこすってしまった。薔薇がほころぶような笑顔を向けられるのは、これが最初ではないのだが、まぶしすぎてどうにも気後れする。
「ヴィンスさん――」
「よかった。名前、覚えてくれたんだね」
 その類稀な美貌を忘れられるはずがあるかと言いたい。
「それにしても君たち、二人で並んでいると、まるで兄弟みたいだね」
「……どこがですか?」
「どこが?」
 思わずフィロと同時に訊き返していた。顔を見合わせ、微妙な空気が流れる。
 無言のまま「黒髪以外に共通点が見出せない」という意見で一致している白雪とフィロを、ヴィンスは楽しそうな微笑みを浮かべて見比べながら、「そういうところが、かな」と意味深にうそぶいている。
「もうすぐ朝食だよ。おいで白雪、ついでにフィロも」
「ついでなら呼ばなくていい」
「そんな、ひねくれないでも。それとも拗ねてる?」
「誰が?」
「君がかな。まったく、そんな仏頂面では、白雪が怯えてしまうよ」
「余計なお世話」
 聞いている白雪がひやりとしてしまうほどの無愛想な発言にも、ヴィンスはまったく動じていない。鷹揚に笑って聞き流している。噛み合っていないように見えて、不思議と和やかなものを感じさせる空気に、彼らはいつもこんな具合なのだと白雪にも察せられた。
(正反対なのに。いや、だからかな?)
 たとえるなら、太陽と月。もちろん太陽がヴィンスで、月がフィロだ。
 いきおい、二人の間に挟まれるような格好で通路を進みながら、白雪はひそかに、まるで雰囲気の違う美しさを持った少年たちを観察する。
『フィロ! フィロ、カワイクナイ!』
「……うざい」
「アーサーに本気でキレないで、フィロ」
 それにしても、天使か王子様かというヴィンスにでも変わらずつっけんどんなフィロは、ある意味あっぱれだ。フィロと白雪は、この船の大半を占めるというログレス王国の人たちからすれば同じ「異国人」のくくりに入るのだが、白雪はこうはなれないだろう。――秘密を抱えているという負い目がある限り。
「ところでヴィンスさん、どこに行くのですか?」
「もちろん食事用の部屋だよ。おなかが空いただろう?」
「……それはもう」
 あのはしたない「ぐう」は彼に聞かれずに済んだらしいとわかり、内心ほっとする。
「でも……そういえば、わたしはキャビンボーイなら、船長の食事のお世話とかしないといけないんじゃないですか?」
「それはあるね。でも、船長は今クリス先生とお話しているから、食事はもう少し後にするそうだ。君が食べ終えてからでも、お手伝いは十分間に合うよ」
(アレク船長とクリス先生が……)
 そういえば、さっきそんなことを言っていたような。
 ――白雪の秘密を知っている二人だからか、自分に関係する話題じゃないか、なんて考えが頭の隅に浮かんでしまう。自意識過剰だろうか。
 翡翠色の瞳でやさしく白雪を見下ろしながら、ヴィンスが続ける。
「君は船長の召使いで所有物だけど、船長と一緒には食事ができないというのはわかる?」
「ええまあ」
 身分が違うということだろう。よく一緒に遊んだり、お忍びの外出をした朧姫さまとでも、食事の席はさすがに別だったし。
「病気のとき以外は、君はほかの水夫と一緒に食事をすることになる。食事は班ごとに分かれてするんだけど――ああそうだ、白雪、君は僕とフィロの班に入ることになったから」
「え。……は、班って?」
 思わずフィロを振り返って、それからまたヴィンスを見て、白雪はオウム返しに訊ねた。
「生活する上で、いろいろなことを一緒にするグループ、というところかな? 食事とか洗濯とか、お風呂とか」
「はあ……って、お風呂!?」
 ほう、なるほど、と聞いていた途中で、白雪は盛大にすっ転びそうになった。
 フィロにものすごく怪訝な目で見られたので、慌てて口元を手でおおうが、一瞬にして乱れた鼓動はとても鎮まりそうにない。
(お風呂って……お風呂だから……裸になるっていうこと!?)
 一人だったら絶対に絶叫していた。
 ヴィンスとフィロが脱ぐところを想像しただけでも気が遠くなりそうだが、それ以上にマズいのは自分だ。致命的だ。そこまで凹凸がはっきりした体型ではないといっても、脱いでもバレないわけがない!
「びっくりした? もちろん真水は貴重だから、雨水に海水を混ぜたものを沸かすんだけど。清潔にしないと病気になりやすくなるから、最低でも何日かおきには入れるよ。ああ、怪我をしてるとしみるから、そこだけは気をつけて」
「は……はあ……」
 ヴィンスの、何も知らない穏やかな笑顔が、胸に痛い。
 問題はそこではないんです、叫びたいけれど叫べず、白雪は死ぬほど蒼ざめていた。



2009.12.05. up.

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