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第3章 聖なる石と空の十字架




 ――まずは落ち着け。
 白雪は、必死で自分に言い聞かせていた。
 忍びの者に欠けてはいけないのは平常心、平常心をなくしたら死ぬと思え、と父がさんざん教えてくれたではないか。平常心を保つには、敵を知り、己を知ることが――つまり情報収集が大事なのだとも、あの低いがよく通る声で教えてくれた。
(そう、情報だ)
 わたしは船上での生活について、あまりに知識が乏しすぎる。だから、入浴という今そこにある危機を乗り越える手段も思いつかないのだ。
 ということは。
(クリス先生か……………………ものすごく気は進まないけど……アレク船長に相談してみるのが一番か)
 対策を決めると、ようやく落ち着いてきた。
 船の暮らしはわからないことだらけだが、さすがに今すぐ入浴時間というわけではないようだろうし、万が一ということがあっても「昨日身体が海水で冷えて、まだ体調が万全ではないですから」とかなんとか言い訳をすれば、当面は乗り切れるはずだ。
 ――よし。いけるいける。
『オンナノコ! カワイイオンナノコ、オイデ!』
「!」
 たいへん間の悪いオウム――アーサーの声に思わずびくっとしたのと、船が大きく揺らいだのが重なって、白雪は両手で運んでいた桶(タブ)ごとひっくり返りそうになる。この、いきなり足元が揺らぐのはクセモノだ。まだ身体が慣れていない。
「大丈夫?」
「――! す、すみません」
 とっさに肩を抱いて支えてくれたのはヴィンスで、礼を言おうと顔を上げたら、信じがたいほど整った美貌が、予想以上に近い場所にあった。思わず硬直してしまうと、何か誤解されてしまったのか、ヴィンスの眉宇が心配そうに寄る。
「どうしたの? 心ここにあらずという感じだけど……熱でもある?」
「ありません、大丈夫ですッ」
 黙っていたら額に額をくっつけられそうだったので、大急ぎで首を振る。
(そんなことされたら、逆に熱が出てしまうよなあ……)
 男の子同士というのは、普通、こんなに親密に接触するものなのだろうか? フィロみたいに踏んづけてこようとするのも困るが、母国ではこうした同年代の男の子がたくさんいる環境を経験していないので、ちょうどいい距離感がつかめない。

(姫さまとなら……手をつなぐくらいはしたけれど)
 小さな手を思い出す。
 手をつないでくるのは、たいてい朧姫さまのほうからだった。
 早く早く、と姫さまの手に引っ張られては、お忍びでいろいろな所に冒険に行ったものだ。

 そんなことを頭の隅に浮かべつつ、船員たちでごったがえす中をすり抜けて、並べられた大砲の間に置かれたテーブルへとたどりつく。
 変わったテーブルだ。
 天板の四隅には、しっかりしたロープがついている。ロープを視線でたどってみると、テーブルの天板は、天井から吊り下げられていることがわかった。ロープを操作すると、天板が上下に動く仕組みのようだが――
「ここは夜はハンモックを吊るして寝室にするから、そのときはテーブルは天井まで上げておくんだ。昼間は逆にテーブルを下ろして、ハンモックはまるめて片づけてしまう。船内の限られたスペースを有効活用する知恵だね」
 ――白雪の視線の動きを見てとったヴィンスが、すぐにそう教えてくれた。
 白雪はほうと感心しながら、
「大砲がこれだけ並んでるということは、ここでも戦うのですか?」
「そうだよ。そのときは、テーブルを全部天井にくっつけて、火薬を運びこむ」
 風通しのために開け放たれた砲門からは、ちらちらと、さざめく海の青が見える。
(忍びのからくり屋敷みたい)
 ただの客間のように見せかけておいて、罠をあちこちに仕掛けておく、あの仕組みが頭の中で結びつく。
 必要最低限(あるいはそれ以下)の発言しかしないフィロと違って、ヴィンスは戸惑いがちな白雪の先回りをして、あれこれと気を遣ってくれる。本当は同い年のはずなのだが、ヴィンスのほうがずっと大人びて思えるのは、異国の人には白雪が歳より幼げに見えるというのとは違うところにも理由がありそうだ。
「あの、ヴィンスさん」
「なに?」
「ぶしつけですけど……司祭さまというのは、偉くはないのですか?」
「え?」
「わたしの国では、神に仕える男性というのは、貴族と同じくらい地位が高いのですが」
 ふと気になったことを、白雪はヴィンスの親切さに甘えて質問していた。
 白雪の国では、男の神官は「宮司」といって、巫女姫ほどではないが崇敬を集める地位だ。時には政治的な問題をめぐって、貴族と互角にやりあったりもする。巫女姫に仕えるにあたって白雪を指導してくれた宮司などは、皇家の方々にさえ一目置かれるほどだったのだ。
 ――だが、この船の司祭のヴィンスは、普通の船員たちと大差ない扱いだ。
 船長をはじめとした幹部クラスは、別室で食事をとると聞いたのに。
 ヴィンスは美しい顔に苦笑いを浮かべた。
「ちゃんとした司祭さまなら、偉いんだけどね」
「ヴィンスさんは、そうではないんですか?」
「うん。他にやる人がいないから、神学を学んだことのある僕が司祭役になっているだけで、正式に叙階を受けたわけではないんだ。船では毎週日曜日に礼拝をするから、司祭がいないと困るのは困るんだけど、航海士ほど必要不可欠というわけでもなし」
『レイハイ! レイハイダ、アツマレ!』
 オウムが高らかに声を張る。
 神学。叙階。日曜日。礼拝。
 ――知らない単語が次々に出てきたが、だいたいは理解できた。と思う。
 これだけ高貴な雰囲気の人なのに、あまり地位が高くないことには釈然としないが。
 いや待て。ここは海賊船だ。
(もしかしたら、どこかでさらわれた貴族さまが、あの性悪船長の下でこき使われてる……なんてことも?)
 さすがに一日目で、そこまで突っ込んだことは聞きにくいが。
「それじゃヴィンスさんのお仕事は、その『にちようび』以外はないんですか?」
「いや、船にそんな暇人を乗せる余裕はないから、手の空いているときは他の部署の助っ人をしているよ。主計係のフィロが、戦闘のときは砲術長になるみたいなもので」
「ヴィンスさんも、戦闘には参加するんですか?」
「うん。戦闘は得意だよ」
「え」
「海賊だからね。実戦のチャンスは多いから、いやでも強くなる」
 ――虫も殺さないような笑顔でさらっと言われると、妙に怖いのはなぜだろう。
 突っ込むとさらに怖くなりそうなので、白雪は朝ごはんの用意にいそしむことにした。
『追イ風! 腹ヘッタ!』
「うなー!」
 オウムのアーサーとケット=シーは、通じているのかいないのか謎の会話をしている。

 お盆だと、船が軽く揺れただけでも載せているものが滑り落ちてしまうからと、桶に入れて運んできた食事は、簡単なものだった。「ビスケット」というパサパサしていた焼き菓子が数枚に、魚で出汁をとって豆と乾燥野菜を加えたスープ。それに「ビール」という飲み物が、各自コップ一杯ずつ。これだけだ。
(わたしはいいけど、男の人はこれだけで足りるんだろうか?)
 スープの食欲をそそる匂いに、ケット=シーたちがみゃあみゃあと騒ぐ中――

「あれ? フィロ、桶がひとつ多くないかい?」
 食器を並べていたヴィンスが、遅れて到着したフィロが2個の桶を抱えているのを見て、不思議そうに首をかしげた。
 フィロは椅子に腰を下ろしながら、白雪をちらりと一瞥すると、
「料理長いわく『今日は特別』」
 と言った。誰に対しても同じ、仏頂面と抑揚のない声で。
 よく意味がわからず、目をぱちくりさせる白雪をよそに、ヴィンスは「なるほどね」と察しよくうなずいている。
(なんだろう)
 気になりながらも、遠慮がちな性格が災いして近づくタイミングを計りかねていると、ヴィンスのほうから手招きしてくれた。
「料理長が、歓迎のしるしに、君のためにケーキを焼いてくれたよ」
「けーき?」
「ふわふわした甘いお菓子だよ。ね、フィロ」
 ヴィンスに視線を向けられたフィロが、桶から慎重にそれを取り出した。
(うわ……!)
 白目の皿にのせられた「ケーキ」に、白雪は、みゃおみゃおと騒ぐケット=シーたちと一緒になって見とれた。
 まるで芸術品のように綺麗なお菓子だった。きめ細かくふっくらと焼き上げた生地にかけられた真っ白な砂糖衣は、山の初冠雪を思わせて美しく、食べてしまうのがもったいない気分にさせられる。おずおずと顔を近づけてみれば、蜂蜜とお酒の混じった素敵な香りがした。
 めずらしいごちそうらしく、周囲のテーブルでも船員たちがケーキの登場にわいている。
「こんなに感動してもらえたら、料理長も冥利に尽きるね。可愛いね、フィロ」
「……誰が?」
「もちろん白雪が」
 白雪はぴしりと固まった。可愛い……だと?
 赤面する白雪と、にこにこと上機嫌に笑うヴィンスの間で、フィロは一人で冷ややかだ。
「これのどこが? ヴィンスは甘やかしすぎ」
「甘やかしすぎって……だってさ、僕らより年下の子が船に乗るのって初めてじゃないか。フィロは一応僕より一ヶ月年下だけど、ちっとも可愛げがないし」
「ヴィンスに可愛がられる筋合いはない」
「そういうところが可愛くないのに」
「可愛くなくていい」
 にべもなくはねつけて、フィロは白雪が並べた食器に、朝食を盛りつけていく。
「新入り。ビールは?」
「あ、はい! 今つぎます」
「こぼしたら踏むから」
「え!?」
 多少の緊張は強いられたものの、朝食の準備は無事に終わった。
 隅っこに座ろうとしたのに、ヴィンスの笑顔に押されて彼とフィロの間という微妙に精神的に大変な席に座らされてしまったこと以外は、食事は平和に進んだ。素朴だが、素材の味をいかした、意外なほどおいしい料理である。ビールという飲み物だけは、独特の苦みがどうも舌に慣れなくて、飲むのに苦労したが。
 さて、楽しみにしていたケーキを――と皿を引き寄せたところで、隣から肩をつつかれる。
 ヴィンスだ。ケーキの皿を手に微笑んでいる。
「僕の分も食べていいよ」
「いいんですか!?」
「いいよ。はい、あーん」
 ……………………は?
 状況を理解するのに数秒はかかった。
 絶世の美少年が微笑みながら、ケーキの切れ端をのせたフォークをこちらの口元に突き出しているのだと理解できても、今度は衝撃でしばらく頭が働かなかった。
(え……えええ!)
 こんなこと、いちばん親密だった朧姫さまとだってした記憶がない。
 ――がしかし、この出逢って間もない美少年は、さも自然のことみたいに構えている。
 他の船員たちからの好奇のまなざしは感じるが、ヴィンスの行動に驚いている様子は不思議となかった。
(異国では、こういうことが普通なの……?)
 救いを求めるように反対隣のフィロをうかがうが、あっさり無視された。それどころか、こっちにまで被害を広げさせるなという、無言の威圧感さえ感じた。……フィロもヴィンスに、同じようなことを迫られた経験があるのだろうか。
「どうしたの? 白雪」
「……い、いいえ、なんでも」
(異国人って……わからない……)
 拒めず、気恥ずかしさに死にそうになりながら、白雪はケーキを口に迎え入れる。
 が、そうした甲斐があったと思うほどの味わいが口中に広がると、恥ずかしさが頭から吹き飛び、頭の中に桃色のお花畑が広がるような幸福感でいっぱいになった。甘すぎない、やさしい口当たりは、白雪の好みのまさに真ん中だった。
「美味しい?」
「……!」
 頬を紅潮させて、こくこくとうなずくと、またケーキの切れ端を口元に運ばれる。
 飼い主と小動物の餌やりめいたやりとりを、倒れそうな羞恥をこらえて繰り返し、そろそろ眩暈がしそうになった頃。
「――朝から鬱陶しい」
 反対隣から、心の底からうんざりしたような声が聞こえた。
 声の主はフィロだ。怒らせたのかと思い、慌てて振り返ると、意外なものが見えた。
「え?」
 目の前に突き出されていたのは、フィロの分のケーキが載った皿だ。
「フィロさん……?」
「おれは、前に食べたことがあるから」
 今回はおまえにやる、ということ?
 ケーキの皿を押しつけられた白雪は、フィロの意外すぎる施しに、思わずまじまじと彼の横顔を凝視してしまった。ぶしつけな視線に気づいたフィロが、むっとしたようにこちらを振り向く。今度こそ怒られるかと思い、ひっと息をのむと――
「見るな」
「ぶッ」
 手のひらで、ぐいっと無造作に顔を押しのけられた。
「早く食べる。食べたら仕事」
「……はい」
 フィロと、鼻をおさえて憮然とうなずく白雪を見て、ヴィンスは「素直じゃないよね」と小声で言いながら笑いをこらえている。次いで、向かいの席にずらりと並んだケット=シーたちと目が合うと「すみませんね、この人いつもこうなんですよ」とでも言いたげに、猫特有のなで肩をすくめられた。
 あの性悪船長といい、やさしさがわかりにくい人が多いのだろうか。この船は。
 海賊船なのに全然その一員らしく見えないヴィンスも、不思議といえば不思議だが……。
と りあえず、班の居心地が意外と悪くはないことには安心しておくことにした。



 ――その頃。
 医務室では、アレクがクリストファから「二人きりで相談したいこと」を聞かされていた。
「…………なんだって?」
「何度も言わせないでください、こんなことを!」
「いきなりキレるなよ先生のくせに! ちょっと耳を疑っただけだろ! ――しかし、まあ、なんだ。困ったな……」
「……はい。私も盲点でした。というわけで、彼女に『そのこと』を、ごく自然に訊いてみてください」
「なんですぐに俺に丸投げするんだ! 自然に訊けるかそんなことが! ただでさえ俺はあいつに変態扱いされてるのに」
「でしたら失うものはないでしょう」
「カッコつけた表現しても、丸投げは丸投げだからな!?」
「というより――変態扱いされるような真似を、あなたは彼女にしでかしたのですか?」
 答えによっては、医学的にとんでもない目に遭わせるかもしれませんよ?
 ――というオーラを、潔癖すぎるほど紳士的な船医は、そこはかとなく醸している。表情が冷静なのが却って怖い。この船医は女子供にはたいへん紳士的だが、男相手となると、医学的に問題さえない範囲で乱雑に扱ってもいいと思っているフシがある。特に知り合いには、言動行動ともに、意外に容赦がない。
 強引にキスをしたなどと言ったら舌を引っこ抜かれそうな気がしたので、アレクは悩んだあげく、一番無難なエピソードを選んだ。
「……上を脱いで寝てたんだよ。したら、起こしにきたあいつが悲鳴上げて」
「それは普通にあなたが無神経すぎます。紳士ならば常に、女性の存在を気にかけてさしあげるべきです。まったく教育上よろしくない環境ですね……」
「あんたはあいつのおかんか」
「保護者ではありたいと思っています。――というわけで、今の件はお任せしましたよ」
「だからさりげなく投げるなって!」
「あなたが駄目でしたら、次は私が彼女に訊きます」
「ちくしょう……。殴られたら、手当てすんのはあんただからな」
「では、特製の傷薬を用意しておきましょう。ご武運を」



2009.12.22. up.

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