朧姫に呼ばれた気がして目が覚めたが、悲しいかな、夢だった。
潮のにおい。――これは、まだ湿っているわたしの髪のせい。
ゆっくりと縦に揺れている気配が、足元から全身へと伝わってくる。――これは、船が波を横切っているせい。
(本当に、船の中なんだな)
窓の向こうには、宝石屑をまいたようにキラキラと輝く、紺碧の海面が見える。
(太陽は、もう昇ったのか……)
さて。
ここは海の上の、どのあたりなのだろう……?
一度は死を覚悟したというのに、幸運にも拾った命だ。なんとかして朧姫のもとに還り、白雪を犠牲にしたと思って心を痛めているはずのあるじに、無事を知らせたい。その想いが、故郷を離れ、わけもわからずひとりぼっちにされた白雪に、動く気力を与えていた。
見知らぬ人ばかりの場所は心細いけれど、とりあえず今はこの手でできることをしよう、それしかない――と、けなげに自分に言い聞かせる。
『まずは身体を綺麗にふくこと。海水が乾くと、塩で肌が痛みますから』
まずは、眼鏡のクリストファに言われたとおり、濡れた単衣を脱ぎ、たらいに張られた湯で肌を清めていった。
白雪が湯を使っているのは、「医務室」という船室の片隅だ。四方は壁と、衝立とで囲まれている。着替えを見られないようにという、クリストファの気遣いだ。何か香草でも使っているのか、お湯からは甘い花の香りがして、それが囲まれた空間を穏やかに満たしている。
『……とりあえず着替えろ。話はそれからだ』
ぶっきらぼうにそう言ったのは、金髪・眼帯のアレク。
お湯はもちろん、清潔な白い布を気前よく何枚も用意してくれたあのクリストファという船医は、母親のようにこまやかに気が回る人のようで、悪い印象はない。――が、アレクという男のことを、白雪はまだつかみかねていた。
――目覚めたとき、初めて見た青い瞳には、うっかり見とれてしまった。
しかし、見るからに戦いに向いていないクリストファと違って、アレクは身のこなしだけでも相当な遣い手だとわかるのが、巫女姫の護り手として戦いに身を置いてきた白雪に、どうしても警戒心を抱かせる。
クリストファのように、単純に「いい人」とは思わせない要素を、青い瞳の鋭さと皮肉っぽい表情に感じたのもある。
あれは、狼の目だ。
縄張りを守ろうと、絶えず周囲をにらみつけている、野生の狼の目。
(……でも、父上に少しだけ似てる気もしたな)
そんな連想をすれば、表情におのずと翳りがさす。
(父上も……わたしみたいに、ひょっこり生き延びていたりしないかな)
はかない願いが、胸を切なくしめつけた。
(父上はあのあと、どうなったのだろう)
失われた記憶に、父の安否を知る重大な「何か」があるような気はするのだが――
だめだ。
やはり、思い出せない。
(……やめよう。それは、今は考えないでおいたほうがいい)
逃げるみたいに自分に言い聞かせて、白雪は足元にある、つる編みの籠に入っていた着替えを手にした。
西方の服に袖をとおすのは初めてだ。
素肌に下着と、白木綿の「シャツ」とかいう単衣を着こんだら、その上から陣羽織みたいな型の黒革の「ベスト」をはおる。脚を通すのは、「ズボン」という帆布でできたもの。ゆったりとした袴に慣れている白雪には、これはちょっと窮屈に思えた。
そのズボンの腰を、派手な色とつる草文様の「サッシュ」というやわらかい帯で締めて――
(これで、いいのかな?)
鏡はないのだが、たぶん着方は間違っていないはずだ。
最後に、まだ湿っている黒髪は、うなじのあたりでゆるく束ねた。
クリストファはいるだろうか? ――これで間違っていないか、確認してほしい。
なにやら性格に難がありそうなアレクよりも、できれば、あの穏やかな人に。
白雪は、衝立の陰からそっと顔だけ出してみた。
天井は低いが、船の中にしては意外なほど感じよく整えられた室内に、あの貴族的な青年の姿はなかった。残念なことに。
白雪はあまり人に頼るたちではないが、四生嶋の言葉が――たぶんこの船の中で唯一通じる、いかにも穏やかそうな雰囲気のあの人が見えないのは、やはり心細い。
「終わったのか?」
突然の声に、白雪はびくりとした。
――アレクだ。
文机に合わせた素朴な意匠の椅子にだらしなく腰かけ、こちらには¥背を向けている。
白雪からは完全に死角だったとはいえ――
(……まったく気配を感じなかった)
やはり油断のならない男だと痛感しつつ、黒髪の船医の行方を聞こうとして、ふと迷う。
(なんて呼べばいいんだろう)
クリストファ。
と年上の殿方を呼び捨てにするのは、父に礼儀作法を叩きこまれてきた白雪には難しかった。さりとて、西方の言葉で「さん」や「様」にあたる表現はよく知らない。
思えば確かクリストファは、このアレクに「ドクター・クリス」と呼ばれていたが――それでいいのだろうか?
迷いを残したまま、口を開いた。
「あの……ドクター・クリスはどこに?」
「クリス先生なら、おまえの服とシーツを洗いに行ったよ。あの眼鏡の先生と来た日には、おふくろみたいにマメでな」
こちらに背を向けたまま、おもしろくもなさそうな口調で、アレクが言う。
白雪は「はあ」としかあいづちの打ちようがなく、彼の後ろ姿を眺めて、
(似合ってはいるけど……派手な格好をしてるなあ)
そんなふうに思った。
甲板で出逢ったときは、白雪が着ているのと大差ない、こざっぱりした服装だったのにと。
まず目を引くのは、あふれんばかりのボリュームの羽飾りや造花の薔薇で飾られた、おおぶりのつばをもつ三角帽。
金モールや飾り緒、凝った金糸の刺繍で彩られた緋色のコートを、袖を通さず、肩にぞんざいに引っかけている。シャツも白雪の簡素なそれとは違い、首元に向かってたっぷりと布を寄せて胸前にスカーフ状に垂らした、華のある仕立てだ。
――とまあ、アレクの国の言葉で描写すれば、そういった具合なのだが。
白雪には金モールその他の単語名も、それが海賊流の華やかな装いだということもわからなかったので「船乗りとは思えないムダに華美な服だなあ」としか思えなかったが。
(四生嶋の水軍の者は、水夫から御頭まで、みんなはだしで簡素な着物だったのに……西方人はいろいろと違うんだな)
東西の文化の違いに感心半分・戸惑い半分でいると、アレクが再び問いを発した。
「で、終わったのか、終わってないのかどっちなんだ?」
「おわる?」
「着替えだ。まさかおまえ、そこがわかってなかったのか?」
ああ、と白雪は合点がいった。それで、話しかけてもこちらを振り返らなかったのか。
「一応……。でも、これでいいんでしょうか。こういう服は初めてで」
「見せてみろ」
アレクは座ったまま、椅子ごとこちらを振り返り――衝立の前で立ち尽くしている白雪を見つけるなり、目を点にした。
次いで「こいつはよ……」とでも言いたげな苦々しい表情を浮かべ、視線をずらす。
極めつけには舌打ちだ。
明らかにかんばしくない反応に、白雪は妙に焦った。どうしたんだろう?
「何か、間違っていましたか?」
「大間違いだ」
深々とため息をつかれても、白雪には何が間違っているのか見当もつかない。
戸惑いと不安のなか、眉をひそめて自分の西装姿を見下ろしていると、アレクが大儀そうに腰を上げて近づいてきた。
四生嶋ではめったにお目にかからないほどの長身の男なので、白雪はなんとなく気おされ、半歩後ずさりする。
すると、アレクはひどく心外そうに眉をひそめた。
「ばか、何もしやしねえよ。つうか、なんでボタンを留めないんだおまえは」
「…………ボタン?」
白雪の脳裡にぱっと浮かんだのは、あの、ぽってりとした「牡丹の花」だったが。
アレクは半眼になった。
「なんか知らんが、激しく勘違いしてるツラだな。ボタンって言葉を知らないのか? ――そいつだよ、シャツの縁にずらっと並んでるだろ? それがボタンで、反対側の縁にあいてるのがボタン穴だ。それを留めとかないと、すぐにはだけて胸元が見えちまうぞ。それとも、俺に見せたいのか?」
笑えないし品のない冗談に、白雪はきりっとした弧を描く眉をひそめた。
見せたいわけがない。が。
「すぐにはだけるって……そういうものなのですか?」
そこがピンとこなくて、小首をかしげた。
ボタン――木製のまるい物体は確かに縫いつけられているが、てっきりそれは素朴な飾りで、着物みたいに前で布地を重ねて、帯で留めておけばいいのだと思っていたのに。西方文化は複雑怪奇なり、と白雪はまた頭の中でひとり呟く。
アレクはあきれたような半眼で、白雪を見下ろしている。
「そういうもんなんだよ。ま、そんなたいそうな身体でもないみたいだし、見えたところで別にって感じだけどな」
……失礼なことを言われた気がする。
アレクの言葉には、ところどころ白雪が意味を知らない異国語が混じっているが、今のは褒められてはいないだろう。にやりという感じの笑い方や、皮肉っぽい表情で、なんとなく察せられるものだ。
(恩人にこんなことを言うのもなんだけど……。性格の悪そうな人だ)
最初は素直に感謝していたのに、だんだんその気持ちが目減りしていく気がした。
(どこが父上に似てるなんて思ったんだ? わたしは)
今となっては謎だし、そんなことを考えた自分を叱ってやりたくなる。
しかし――とりあえず、細かいことを突っ込むのは、今はあきらめた。
異国語がつたない白雪が抗議したところで、この男を逆にやりこめられる可能性は限りなく低いし、なにやら不毛だ。
それに、今いちばん気になっているのは別のことである。
「それより――ボタンを『留める』というのは、どういう意味なのですか?」
「は!? 待ておまえ、そこからかよ」
「と言われても――わたしの国の着物には、このような仕組みはありませんでしたから。どうすれば『留める』という状態になるのか、教えてください」
白雪がまじめに質問すれば、アレクはどこか疲れた様子で深々とため息をつく。
「予想以上に世話が焼けるな」
「……すみません」
「いや、謝らんでいい。東方の島国にずっと引きこもってたんじゃ、それでも仕方ねえわな」
「引きこもるって」
「母国の外に出たのは初めてだろ? 違うのか」
違わないが、「引きこもる」という表現があまり気に入らなかったのだ。世間知らずと言われているようで。
憮然としていると、アレクの手が伸びてきた。
白雪が適当にあわせていたシャツの前、第一ボタンにふれる。それから少しかがんだ。いきおい、白雪の視界は、アレクの顔と手でいっぱいになる。
……身の危険を感じるとか、そういうのではないが、なんとも居心地の悪い距離感だ。
「いいか、一度しかやってみせねえから、ちゃんと見てろよ?」
「わかりました」
「そういうときは『
突然、ドアが開いた。
開けたのは、この部屋の主――新しいシーツを抱えてきたクリストファだった。
白雪のシャツに手をかけているアレクを目にすると、眼鏡の向こうのすみれ色の瞳が、露骨に視線の温度を下げる。
「………………アレク船長」
「待て、誤解だ。俺は、こいつにボタンの留め方を丁寧に教えていただけで」
「そうですか」
「って棒読みすぎるだろ。しかも明らかに信じてない目で冷たく見るなよ!」
「白雪。何かされたのなら、恥ずかしがらずに私に言ってくださいね。致命的な事態が起きてからでは遅いのですから」
「おい!?」
アレクも本気でつっこんでいるが、白雪もこめかみにイヤな汗をかいた。妙な誤解をされて困るのは白雪も同じだ。しかも初対面の男と!
白雪の懸命のとりなしでようやく誤解がとけると、クリストファは悪びれない表情で言った。
「なるほど。アレク船長にしては、紳士的な対応をしていたわけですか」
「俺はいつも紳士だろうが」
「自称紳士ほど信頼のできない男性はいませんよ」
「だからなんであんたの俺評価はそんなに辛いんだよ。俺がそんな真似するはずないだろうが――コレがいるってのに」
すねたように低くうなりながら、アレクはその首にかかっている純金の首飾りをつまんで、クリストファに示してみせた。
白雪は、ちょっと瞬いた。
それと似たような首飾りを、昔見たことがあったからだ。
確か――「ロケット」というものだ。
父・冬厳と懇意にしていた異国の商人が、アレクのそれと同じような首飾りを、肌身離さずつけていたのである。西方の御守りなのか? と訊ねたら、故郷の港で彼の帰りを待つ恋女房の、ちいさな絵姿を入れているのだと、のろけまじりに教えてくれた。
――アレクの、純金色で精緻な薔薇の文様が彫られたそれにも、そうした女性の絵が入っているのだろうか?
「そういえば、そうでしたね。疑って悪かったですよ」
「わかればいいさ」
クリストファの納得した様子を見て、白雪は自分の想像がそう間違ってはいないという認識を強める。
(奥方――いや、恋人か?)
少年の面影とやんちゃが抜けない雰囲気のアレクは、妻帯しているようにはとても思えない。
だが、いくら金髪で華のある美形とはいえ、こんな目つきと口が悪くて、性格もなんだか悪そうな男に恋人がいるのは、白雪にはじゅうぶん意外な気がした。西方には、物好きな女人もいるものだ。
――と、アレクが自分に人工呼吸をしたことを知らない白雪は、この時点ではまるで他人事みたいに考えていた。
(これも、東西の文化の違いというものなのかな。ある意味おもしろいけど)
本人はいたって大まじめなのだが、実はだいぶ失礼な感想を胸のうちで呟きながら。
その後、白雪は、クリストファから簡単に診察を受けた。
「どうやら大事はなさそうですね。さっきの薬湯は飲みましたか」
「はい。残さず」
「偉いですね。あれは、この船でも苦手で飲めない男性が多いんですよ」
正面から褒められると、おもはゆい。あまり褒められ慣れていない白雪は、ほんのりと頬を染めた。
お世辞にも美味ではなかったし、かいだことのないにおいもしたが、冷えた身体が内側からぽっぽと温まってくる薬湯だった。御庭番衆の老薬師がこしらえる、苦いばかりの忍薬に比べれば、まだ食べものらしい味もした。
クリストファは満足げにうなずいて、脈をみるためにふれていた白雪の首筋から手を離す。
「顔色もいいようですし、今日一日念のために身体を休めさえすれば、明日からは普通に動いても支障はないでしょう。でも、何か異常を感じたら、我慢せずすぐに教えてください」
「ありがとうございます」
「――じゃ、こいつはもう、俺の部屋に連れていっても大丈夫か?」
白雪の斜め後ろに立っていたアレクが、そこで急に口を挟んだ。「こいつ」のところで、ぽんと彼女の後頭部に手をおいて。
白雪はぎょっとして、頭ひとつ分以上も高い位置にある、アレクの顔を振り仰いだ。
目が合い、にやりと笑われる。
――この男の部屋、だと?
(なんでそんなことに……?)
面くらったのは、どうやら白雪だけのようだ。
頼みのクリストファは冷静な表情で「おまかせして大丈夫なのでしょうね」とだけ、アレクに確認している。アレクは「あたりまえだ」と――白雪からすれば――あまりに軽すぎるノリでうけあった。
――なぜだろう。
無性にイヤな予感がした。
手元に、愛刀をはじめとする武器が何もないせいもあって、白雪の不安の根は深い。
戸惑いに揺れる濃紫の瞳で、救いを求めるようにクリストファを振り返ってみたが、小さい子を諭すような口調で「落ち着いてください。大丈夫ですから」言われてしまった。ぽん、と肩を叩くというおまけつきで。
「アレク船長は、悪いようにはしませんよ。私もあなたの真実を知っていますから」
――真実?
白雪は眉をひそめた。わたし、隠し事なんてした記憶ないけどな。
疑問に思ったが、訊き返す前に、頭の上にぼすりと何かがかぶせられた。
びっくりして視線を上げれば、それはアレクのド派手な羽根飾りのついた三角帽だった。
白雪にそれをかぶせる意味がわからず、アレクの青い瞳を見上げると、にやりという感じの笑顔をよこされた。あの、いかにも曲者っぽい笑みだ。
「かぶってろ。あんまり顔を見られないようにな」
「見られるなって――誰にですか?」
「うちの乗組員にだ。ちょっと事情が複雑なんだよ」
要領をえない説明だけで白雪をあしらうと、アレクは彼女の腕をとって椅子から立ち上がらせ、当然のような顔で命令してきた。
「よし、行くぞ。俺の部屋に着くまで、絶対に口を聞くんじゃないぞ」
「は? それはどうして……」
「行けばわかる」
「…………」
白雪は、隠すことなく微妙な表情になった。
まったく気が進まない。
進まないが、ここでゴネても、クリストファを困らせるだけだとも思った。それは少しいやだった。
(まあ……御庭番衆の仕事でも、理由を教えてくれない忍務はしょっちゅうあったと思えば)
理不尽なことを割り切るのは、白雪はそれなりに得意だ。
「巫女姫の身代わりになれ」という、自分の身が尋常でなく危険にさらされる命令でさえ、相当あっさりと割り切れた経験がある。命令だから、そのために自分は忍びの者として鍛えられてきたのだから――そう思えば、文句はひとつも生まれないものだ。
ここの船長とはいえ、あるじでもない男に命令されるのは業腹ではあったが、白雪はアレクに逆らえる立場でもない。
「……
顔は無愛想だが、とりあえず覚えたての言葉で応じると、アレクがふと破顔した。いい子だとでも言うように。
それまでの悪い印象が帳消しになるような、屈託のない笑顔に、つい目を奪われる。
いい年をした男性がこんなふうに笑うのを、白雪は初めて見た。
(子供みたいに笑う人だな)
子供、というよりは悪ガキをまとめる親分といったほうが近いか。
だが、今までのぶっきらぼうな態度やひねくれた言葉よりは、はるかに好感が持てた。いつもこうやって笑って話せば、目つきの悪さも感じずに済むのに。もったいない。
白雪のそんな複雑な想いなど気づきもしない様子で、さっさと背を返したアレクを、彼女は慌てて追いかけた。
「あの」
「なんだ?」
「行く前に、ひとつだけ。――『紳士』とは、どういう意味ですか」
「俺の国では、上品で教養があって、特に女には礼儀正しい男のことをいう」
「……なるほど」
クリストファが「自称紳士ほど信頼のできない男性はいないものです」と言った意味が、白雪にもようやくわかった。