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第1章 漂流少女と異国の海賊(06)




 慣れない嘘はつくものではないなとクリストファは思った。
 仲間たちに興味津々の目で見物されながら、平然とした表情を保つのはひと苦労だった。

「よっこらせ、っと」
「おやじくさいですよ、アレク船長」
 クリストファが先導して扉を開けると、漂流者を抱えたアレクが、大儀そうにその後に続いて医務室に入った。

 オライオン号には、クリストファの管理する医療用のキャビンが何種類かあるが、今回選んだのは船尾にある一室だ。
 ガラス窓から陽射しが入るという、船の中にしては居心地の部屋で、普段の暮らしで発生した怪我人や病人は、まずここに運びこまれる。患者がいないと――クリストファにとっては、はなはだ遺憾なことに――幹部クラスの溜まり場代わりに使われてしまう日もあったりする。

「で。クリス先生、どこに寝かせる?」
「窓際にお願いします」
「箱ベッドだな?」
 アレクはうなずき、まるでベビーベッドのように四方を柵で囲まれている寝台に、白雪の小さな身体を下ろした。ハンモック風の吊りベッドが反対側の壁際にあるのだが、慣れないと寝返りをうったはずみに落ちる可能性が大きいので、妥当な判断だ。
 それにしても――洗いたての亜麻布のシーツをあしらわれた吊り寝台を見ていると、なんだか無性に寝転がりたくなる。
「なんだか俺も二度寝がしたくなってきた」
「あなたはまず着替えてきてください、アレク船長」
 壁に固定された棚から何種類かの薬草を選び、調合しはじめていたクリストファは、アレクのどうでもいい呟きにはそっけなく切り返した。
「濡れた服を着たまま風邪をひくようなお間抜けさんは、隔離病室に放りこんで、ラム酒抜きの刑に処してしまいますよ」
「そいつは勘弁」
 まずい白湯か、泣けるほど味の薄い携帯スープしか与えられない病人生活は、船乗りたちがもっとも苦手とするものの1つだ。
 アレクは「降参」というように両手を挙げて医務室を去りかけ、扉の前でふと振り返った。
「そうだ。そのシラ――」
 ……なんだっけ?
 アレクは眉をひそめた。聞きなれない異国の名前は、一度では覚えられなかった。
 ホワイト・スノウという意味であることは、もちろん覚えているのだが。
「っと――漂流者の着替えもいるよな?」
「そうですね。主計係のフィロに、頼んでおいてくれますか」
「いや、待てよ。俺がかなり昔着てた服がまだクローゼットにぶちこんであるから、そいつを再利用するってのはどうだ?」
いいアイデアだろう、とでも言いたげなアレクの顔を、クリストファは冷たく流し見た。
「アレク船長」
「なんだ?」
「あなたはまだ、あのクローゼットを見るも無残・語るも無残な状態のままにしていたのですか? 私はもう何度も、不衛生だから片付けるよう忠告したはずですよ。そしてあなたは確か三日前に『これから片付けようと思ってる』とか仰っていたはずですが」
「…………」
 アレクが気まずそうに目をそらした。
「私はあなたの母親ではないのですから、何度も同じことを注意させないでください」
「わかった、わかった。今そいつの着替えを持ってきたら片付けるから、許してくれよ」
「信用できませんが、許しはしましょう。さあ、早く行ってください」
「……?」
 さっさと行けと言わんばかりに、濡れたシャツが貼りついた背をぐいぐい押されて、初めてアレクは、クリストファの様子に不自然なものを感じたが――面倒くさいので今は指摘せず、わずかに眉をひそめるだけにとどめた。
 まあ、着替えたあとで、ゆっくり聞けばいいか。
 そう思っていた。



 金髪・眼帯の船長が去り、できあがった薬湯を木製のカップにそそぐと、クリストファは我知らず、ごく小さなため息をついていた。
 朝のまぶしい光がカーテン越しにさしこみ、窓際のベッドを照らしている。
 眠る漂流者・白雪に、目覚める様子はない。
 そっと近づいて確かめれば、脈拍・呼吸ともに正常で、ひとまず安心はしたが――
(着替え、ですか)
 濡れた衣服のままでは、体温がかたっぱしから奪われてしまう。
 素裸にむく必要はないが、上着くらいは先に脱がせておいたほうが、アレクが戻ってきたときに着替えをよりスムーズに済ませられるだろう。海水で濡れた服は乾きにくいし。
 ――頭ではそう判断できた。
 が、行動に移すまでに、クリストファはそれはもう長いこと葛藤した。
 オライオン号の船医になってこの方、同性しか診察していないせいか……反応に困る。
(無。――無で行きましょう。心を無にすれば何事も乗り越えられると、東方の書物にも書いてあったのですから)
 決意して、異国の服に手をかける。

 白雪の、錦糸で龍を刺繍した腰帯には、ログレス王国では「東方剣」「カタナ」などと呼ばれ、好事家にもてはやされているものとおぼしき刀剣が挟まれていた。にぶく光る鞘は、白雪の瞳よりもなお深い、夜の濃紫色に塗られている。

 医療器具より重い刃物はほとんど扱えないクリストファだが、武器を海水に濡れたままにしておくのはまずいということは予想できた。
(あとで、バージルにでも手入れしてもらいますか。どうせほとんど釣りしかしていないのでしょうし)
 船のナンバー2にわりと無礼なことをナチュラルに考え、クリストファはひとりうなずく。
 そして作業続行。
 慣れない構造の異国の服をあつかうことよりも、心を無に保つことのほうが、クリストファにははるかに難関だった。「おまえさんは手先は器用だが、性格は不器用なほうだよな」とバージルに苦笑いされた恥ずかしさを思い出してしまう。
 指先で眼鏡のつるを押さえて、クリストファは目が泳ぎがちな自分を叱咤した。
 自分は船医だ。
 だから、これは破廉恥な所業ではないと断言できる。医師としての誇りをかけて。
 しかしそう断言してみても、どことなく後ろめたい感じがぬぐえないのは――
(仲間に嘘をついたせい、でしょうね)
 深いため息。
 クリストファは懸命に心を無にすると、単衣だけになった白雪の胸元を「事実確認」に必要な最低限だけ押し開いた。
 おのれの紳士の精神との長い葛藤のすえ、ほんの一瞬だけのぞきこみ、即座に目をそらす。
「――やはり、そうでしたか」
「何が『やはり』なんだ?」
「!」
 突然、背後から声をかけられて、どっと心臓が跳ねた。
 ドアを振り返ればそこには着替えを終えたアレクがいて、他の乗組員でなくてよかったと安堵しつつも、クリストファはしっかり叱責するのを忘れなかった。
「まったく――必ずノックをしなさいと何度言えば実行するのですか、あなたは!」
「悪い。忘れた」
「…………」
 が、こうも悪びれなく言われると、怒る気力が萎えてしまうものだ。
 クリストファはさらに疲れた心地で、眼鏡のブリッジ部分を押さえた。
「で、何がやはりなんだ?」
「……別に何もありません。というか、何事ですかその格好は」
「着替えてこいって言ったのは、あんただろうが」
「それは認めますが、派手すぎます。戦闘でもないのに」
「そいつが目覚めたときに、船長らしい格好をしてたほうがいいかと思ったんだよ。にしても先生――なんか俺をごまかそうとしてないか?」
 わりと意味不明な反論のあとに、低めた声で、アレクはずばりと切りこんできた。
 クリストファは、表に見える反応は片眉を跳ね上げただけにとどめたが、内心では舌を巻いていた。
 この年下の船長は、片づけが下手だったり口が悪かったりと(クリストファの物差しでいえば)問題児の部類だが、直感の鋭さには天性のものがある。別に本気でごまかしとおす気はなかったのだが、負けたような気分にはさせられた。
「……ごまかしたつもりは、少ししかありませんよ」
 クリストファはもう一度ため息をついた。
「ですがどのみち、船長のあなたに秘密にするわけにはいかない話ですから」
「秘密……?」
「あなたも、うすうす気がついてはいるのではありませんか?」
 クリストファは白雪へと目線を移すと、アレクに、いっそう声を低めて告げた。

「この人は、女性です」




2009.9.27. up.

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