目次 

序章 巫女姫の身代わり(後)




 白雪はひそかに一度だけ深呼吸すると、努めて平静を装って、無垢な巫女姫へと答えた。
「姫さまは、この十十六夜島[いざよいとう]に来られたときと同じように、船に乗ります」
「まあ。おふね?」
「はい。秘密の入り江に、父が鳥を飛ばして呼んだ、水軍の者たちが待っておりますゆえ」
「水軍の――あの、陽気なおじさまたちね。それなら安心だわ」
 ほっとしたようにうなずく朧姫は、白雪よりも頭半分ほど小柄だ。
 綺麗に切りそろえた黒髪。
 透けるような白い肌。
 無垢で愛らしく、それでいて華と気品を感じさせる、美しいおもてはどうだ。
 けなげで明るく、誰にでも愛されているこの巫女姫が、白雪は忍務抜きでも好きだった。
 敵に奪われてはならない。幸せになってほしいと、心の底から思える。
 そしてそのためなら――
「姫さま」
「なあに? 白雪」
「ご無礼をお許しください」
 え? と大きな瞳をさらにみはった朧姫が、単衣[ひとえ]の上からまとっていた千早[ちはや]――巫女姫の壮麗な装束を、白雪はまるで桃の皮でもむくみたいに、するりと脱がせた。
 戸惑いに瞳を揺らす朧姫から視線をそらし、白雪はみずからの宮司服[ぐうじふく]の上にそれを羽織る。
 ちょっとばかり丈が足りないが、夜明け前の薄闇――それもこの混乱した状況なら、すぐにばれることはないだろう。
 高い位置で束ねていた黒髪もほどいて、背に流した。
 朧姫が、いつもそうしているように。
「! 白雪、お前様、まさか――」
 白雪が何をしようとしているのか、気づいたらしい。御庭番衆・秘密の地下道への入り口を隠していた、大小さまざまな衣裳櫃やら調度品やらを撤去し終えた男のひとりが、痛ましげな声を上げた。
「父の、最後の命令です」
 白雪は不思議と静かな心境で言った。男たちは、思わず顔をそむけた。
 ――敵の狙いである巫女姫のフリをして神宮に戻り、
 ――敵の目をひきつけ、
 ――男たちが朧姫を逃がすための時間を稼ぐ。
 その後で、白雪が敵の手から逃れられる望みなど、万に一つもないと思われた。
「姫さまをお願いします」
 白雪は、血と煤で汚れた服の男たちに頭を下げた。
 この間まで親しくしてもらっていた仲間を安心させるために、最後に笑顔を見せたいとは思ったのだが、結局うまくいかなかった。もともと、笑うのが下手なのだ。
 そんな自分の不器用さはちょっと残念だったけれど、未練はなかった。そして恐怖も。
「! だ――だめ、だめよ白雪ッ」
 茫然としてなりゆきを見守っていた朧姫が、姉のように懐いていた護り手の決意の固さとその内容に気づいて蒼褪めた。
「朧の身代わりなど、なりません! あんなにたくさんの武士や御庭番のかたを犠牲にして、このうえ白雪まで見殺しにしては、朧は生きてはいけませぬ! 考え直しなさいッ。そなたも朧と一緒に行くのです――」
 血を吐くような朧姫の叫びを、白雪はあるじをいきなり抱きしめることでさえぎった。
 はかない温もりが、白雪の胸をいっぱいにする。
 これで、きっと最後の――
「ご無事で」
 突き放した朧姫の身を男たちに引き渡せば、彼らは泣き叫ぶ朧姫を引きずるようにして抜け道へと身を投じた。男たちも、目じりに涙を浮かべていた。わずか十七歳の少女をおとりにしなければならない、自分たちの不甲斐なさを恥じていた。
 朧姫の悲痛な声が、闇に響いた。
「白雪! ――しらゆき……ッ!」
 白雪は剥ぐようにして朧姫の消えた闇から目をそらし、ひとり身をひるがえした。



 白木で造られた神宮のあちこちで、あかあかと炎が踊っている。
 そう遠くない場所から、男たちの罵声や荒々しい物音が聞こえてくるのに気づき、白雪は自分の選択の正しさを実感した。
 腰帯にたばさんだ片手打の愛刀――『雪月華』の鯉口を切る。

 ――もし、黄泉の国で逢えたら。
 ――父上は、「よくやった」と褒めてくれるだろうか。
 ――おまえが娘でよかったと、言ってくれるだろうか……。

 夜明け前の、燃える神宮へと舞い戻りながら、白雪はそんなことを想った。



2009.9.25. up.

 目次 

Designed by TENKIYA
inserted by FC2 system