夜明け前――
戦火をかいくぐって隠し通路までたどりつけた
「御庭番衆の頭領は――
「精鋭数名と、正殿で敵を喰い止めてくださっている。我らには、先に落ち延びよと」
「……左様であったか。では、急ぐぞ」
近くをうろついているだろう敵に聞かれることを恐れた、低い低い声での会話を切り上げて、男たちは作業を開始した。大小さまざまな
その凛とした面差しは緊張でひどくこわばっており、頭の中は、
(父上)
死地にある父・冬厳のことでいっぱいだった。
(正殿には、とくに多くの敵がいたはず。……大丈夫なのだろうか)
煤で汚れた白装束の腹の前で、白雪は、ぎゅっと両手を握りあわせる。
不安で震える手をなんとか止めようとしてのことだったが、無駄な努力に終わった。
多勢に無勢の不利な戦いを強いられているはずの、父・冬厳の姿を想像してしまうと、もうだめだった。父が戦死するかもしれない。そう想像しただけで、恐怖で血が冷たくなる。
(父上……!)
白雪の父・冬厳は、その頭領であると同時に、当代最強の忍者だ。
あらゆる忍術を体得している父に、まともにやりあって勝てる人間などこの世にいるはずがないと、白雪は信じている。――が、状況が悪すぎた。
この神宮は、四方を敵に囲まれ、火を放たれ、今まさに落ちようとしているのだ。
四生嶋・本島にはもちろん援軍の要請を出したが、ここは絶海の離島にある聖地。どんなに早く援軍を出してもらえたとしても、船でここに到着するまで三日はかかるだろう。それでもなお、父上は無敵だ、きっと無事に帰ってくる、と信じられるほど太平楽でも楽天家でもない自分の性格が、白雪はふと恨めしくなった。
昔から、どうも悲観的なのだ。
悪いことばかり想像して、ひとりでどんどん落ちこんでしまう。今だって、そうだ。
「白雪? ――だいじょうぶ?」
幼くかぼそい声での呼びかけに、白雪ははっとした。視線を落とす。
白雪とずっと手をつないできた、ちいさな巫女姫――朧姫が、心配そうにこちらを見上げていた。
「顔が、とてもあおざめているわ、白雪。どこか痛めてしまったの? つらい?」
一心に訊かれて、白雪の表情が、ふとゆるむ。
朧姫は、まだ十二歳。
箱入りで育てられたためか、無邪気すぎるところもある巫女姫さまだが、この危機的状況がわかっていないわけではない。そこまでおつむの軽い姫ではない。
むしろ逆に、白雪が安心させたくて嘘をついてもしっかりと見抜いてしまう、時に困るほど聡明な姫君である。
短くはない時間、朧姫の護り手を務めてきた白雪には、それがわかっていた。
白雪は闇の中でわずかに腰をかがめると、ちいさな朧姫と、視線の高さを合わせた。
「ご安心ください、姫さま。白雪はどこも悪くも、つらくもありませぬ」
「そう……? でも、いつもの元気がないようだけど」
「それはおそらく……ここ数日、あまり寝られなかったせいでしょうね」
「ほんとうに?」
「本当ですよ」
ほんわりとした口調のまま見抜かれて、口下手な白雪の説明は苦しくなったが、なんとかごまかせはしたようだ。
朧姫は、桜の花がほころぶように微笑んだ。
「では、少しかがみなさい、白雪。この朧が、そなたをなでて、癒してあげましょう」
「……かたじけのうございます」
よしよし、と。
朧姫はやさしい手つきで、白雪の額を撫でてくれる。
慈愛に満ちた笑顔が目にしみる。寝不足の頭痛が、本当にやわらいだ気がした。
「ところで、白雪。ひとつ訊ねてもよいかしら?」
「なんでしょう? 姫さま」
「朧は、白雪たちとここから逃げたあとは、どうするの?」
――どきりとさせられる問いかけだった。
これから白雪がしようとしていること――冬厳の最後の命令を、朧姫は知らないのだ。
そのことを今さら思い出し、白雪の胸は、痛ましさと焦燥感がないまぜになる。
知ったとき、やさしい朧姫が傷つくことだけは確かだ。
「朧」という名にふさわしい、春の日のような笑顔は、どんなふうに崩れてしまうのだろう。
――考えまいと目をそむけていたことだったが、想像するとどうしようもなく胸が痛んで、白雪は朧姫の瞳を直視できなくなった。