夜が次第に深くなり、風が強く吹きはじめたのをしおに、祝宴はお開きになった。
しこたま酔っ払った海賊たちは、そのまま甲板やマストの見張り台――中には帆桁の上でぐうぐう寝てしまったり、なにゆえにか勢いよく服を脱ぎはじめて、白雪を逃げだしたい気持ちにさせたりしていたので、正直助かった。
……別に異性の上半身裸くらいなら、御庭番衆の仲間を手当てする際や――アレクの着替えでうっかり見てしまったことはあるけれど、だからといって平然としていられるほど、白雪は物慣れていない。
(――でも)
(問題はこれから……だろうか)
アレクの背に従って船長室に戻ったとたん、普段の倍する疲労を感じた。
いろいろな意味で、濃密すぎる一日だった。――しかもそれは、まだ終わっていない。
「どうした、白雪」
月明かりだけでは暗すぎる室内。寝台のそばのランプをつけたアレクが、声をかけてくる。
こっそり自分の個室に戻ってしまえ、とばかりに忍び足だった白雪は思わず、音に驚いた猫みたいに大きく肩を揺らした。
「い、いえ、何も。おやすみなさいッ」
「逃げ方が露骨だっつうの。――さっきの話はどうする気だ?」
あわてて足を早めるけれど、数歩もいかないうちにアレクに捕まってしまう。
「! ちょ、放してください」
「放したら逃げるくせに」
背後から彼女の首へと無造作に巻きついてきた腕は、白雪ごときの力ではとても振りほどけそうになかった。シャツにしみこんだ、潮風とラム酒とスパイスと――いろいろなものが入り混じった独特の香りが、一瞬にして白雪の周囲の色を塗り替える。
強い力。高い背。
……女の白雪では持ち得ないものを、まざまざと感じさせられる。
さっきの手合わせのとき、予想以上に圧倒的な力を見せつけられた悔しさが、今さら胸を引っかいた。勝てると思うほど自惚れてはいなかったけれど、もう少し食い下がれるつもりではいたから、予想をはるかに上回る実力差に、自分が情けなくてたまらない。
(どうしてわたしは女なんだろう)
ため息が出る。
そう――手合わせの際に突きつけられた、「アレクが勝った場合」の話だ。問題は。
苦々しく唇をかむ白雪の頭の真上から、わざとらしく低めた声が落ちてくる。
「忘れたとは言わせないぞ?」
「覚えてます! 覚えては、いますけど……意味がわかりません」
吐息を意味ありげに耳朶に吹きつけられ、白雪は慌てて声を張り上げた。
――『俺が勝ったら、おまえは俺に甘えろ』
それが、先刻アレクがひどく一方的に突きつけた条件だ。
甘えさせろ、なら、まだ彼の仕掛けることが想像できなくもないけれど――
(わたしが……この人に甘える?)
この、油断すると何をしだすかわからない男に?
どうがんばっても想像がつかないし、アレクが何を企んでそんなことを提案したのかもわからないしで、白雪は途方に暮れた。
「それにわたしは、条件を呑むなんてひと言も」
「でも、呑まない、とも言ってないよな」
「それは屁理屈……ッ」
「海賊なんかに道理を求めるほうが間違いだろ」
怒った声を上げた白雪に、アレクが喉を鳴らす。あくまでも余裕の態度が憎らしい。
――手合わせの前には、実力を知れば彼を素直に敬えるようになるかも、などと考えていた部分もあったが、結果はまったく逆だった。戦士長にも引けをとらぬ技量の持ち主のくせに、どうしてこの人はこんなにひねくれているんだと理不尽な想いだ。
「さて。準備はいいか?」
くるりと身体を回されて、向き合わされる。
薄闇の中でもなお光の強い瞳とかち合い、圧倒されてとっさに後退りした白雪のかかとは、板壁にぶつかった。壁とアレクの長身に挟まれるという袋のネズミ状態だとわかれば、ただでさえ削られっぱなしの精神的余裕がほぼ消し飛んだ。
「アレク船長――よ、酔ってるでしょう?」
「は? あれだけで酔うわけないだろ」
なんとか声をしぼりだすも、アレクには眉をひそめられてしまう。
酔って絡んできているわけではないのなら、もう少し離れて――普通の状態で話したいと暗に訴えたのだが、伝わらなかったようだ。
息が詰まりそうなほど近い距離で、アレクの口の端がつり上がる。
「そうガチガチになるなよ。別に酒場の女みたいに、猫なで声出して膝に乗るような真似をしろって意味じゃないんだから」
「それじゃ――どういう……」
「父親に甘えるみたいにしてみろよ。今日は甘やかしてやるから」
さらに想像のつかないことを命じられて、白雪は完全に言葉を失った。
頭と顔に無駄にこもっていた熱がふと去り、目をぱちくりさせながら彼の言葉を反芻する。
(甘やかしてやるって……)
(……しかも、父上にするみたいに?)
記憶のかけらが甦ったときの、胸を裂く痛みと悲しみを、今は戸惑いが上回った。
いつも白雪を困らせてばかりなくせに、甘やかしてやるなんて、どういうつもりだろう。
それに――
「父上に甘えたことなんて……ありません」
「ま、おまえの性格なら、そうだろうと思ってた。でも、甘えたいと思ったことくらいはあるんじゃないか?」
さらりと切り返される。否定したいのに、できない。
――甘えたい、と。
思ったことがないと言えば、確かに嘘になるからだ。
父を「娘よりも大事な役目がある方」で「甘えてはいけない人」と認識する前――まだ幼いころの白雪は、大きな手で頭を撫でてもらいたくて、抱き上げてもらいたくて、そばでじっと父を見つめていたものだ。無垢な願いが叶えられた記憶は、残念ながらないのだけれど。
それでも、ずっと切なく胸に秘めていたのは――
「……ひと言、褒めてもらえれば、とは思っていました」
「どんなふうにだ?」
「よくやった、と」
それだけでいいのか? と、アレクの隻眼が物問いたげな光を浮かべる。
けれど白雪には、その程度しか思いつかない。それ以上の贅沢なんて想像できない。
父上、と呼びかけたときに、不機嫌な顔をせずに振り返ってくれる、それだけでも泣きたいくらいほっとしたのだ。それほどに父・冬厳は、白雪にとって近いようで遠い存在だった。
――と、ため息が聞こえる。
視線をもたげると、アレクの表情は先刻までのものとは変化していた。
白雪をつついて反応を探るような、ほのかに彼らしい意地悪さがのぞくそれから、穏やかに憐れむような表情へと。
青い右目にたたえられた深い光は、白雪を妙に動揺させた。……この人にこういう情の深い視線を向けられるのには、慣れていない。
「おまえもたいがい不器用だが、おまえの親父さんもアレすぎたのかもな」
「……アレ?」
「娘の甘やかし方を知らなかったのかもしれない、って話だ。――そんなもん、こうしてやるだけでも十分なのに」
初めて聞くような深い声音とともに、今度こそ、確かな意思をもって抱き寄せられる。
いつもの悪ふざけと違って、相手をからかい反応を楽しむ意図のない、ただ温かい抱き方。祝宴の前に強引に味わわされたそれともどこか違うそれは、包みこまれる安心感と、暴力的なほどの切なさを与えて、白雪から抵抗の力を奪ってしまう。
アレクの身体を押し戻そうと、とっさに彼の胸に置いた手は震え、力が入ってくれない。
(……どうして)
胸の奥からこみあげる何かをこらえて、白雪は、ぎゅっと目を閉じた。
わけがわからない。急にやさしいことをしはじめたアレクも、それを拒絶できない自分も。
泣いて、船医に慰めの抱擁をしてもらったときは、ただ安らいだのに、これは何かが違う。
「……ないで」
「なに?」
「そんなふうに……抱かないでください」
自分はおかしくなっていると、白雪は情けなく震えながら痛感した。
昼間、思いがけず記憶のかけらを取り戻したせいで、精神的に不安定なのだろうか?
閉じこめて守るみたいに抱きしめられると、弱くなる。身体の力が勝手に抜けて、寂しい夢を見ないで眠れるように抱いていてほしくなってしまう。
ああ、それとも――冷徹で常に忙しそうにしていた父には、抱きしめてほしいなどと言えなかったせいなのだろうか。こんな異国の、しかも意地の悪い男がする「甘やかす」抱擁を拒む力すら出せないのは。
(だとすれば……)
(わたしは、なんて弱いんだろう)
過酷な状況の中で助けてくれた父にも、白雪の無事を祈ってくれているだろう巫女姫さまにも申し訳ない想いだった。ぶざまに喉が震えて、声も出せなくなる。
「おいおい。なんで俺がまじめにやさしくしてやろうと思ってるのに泣くんだ、おまえは」
「……え?」
アレクにふてくされたように指摘されて初めて、白雪はいつのまにか自分の頬がしっとりと濡れていることに気づいた。はっとして顔を押さえるけれど、濃紫色の瞳の端からぽろぽろとあふれるものは、なぜか止まってくれない。
まるで小さな子供みたいになってしまった自分を持て余し、白雪は狼狽する。
アレクは「ほんと、変なところで世話のやける奴だな」と嘆息しながら、シャツの袖で無造作に涙をぬぐってくれた。ぶっきらぼうな言葉とは裏腹に、声も仕草も本当にやさしいから、白雪はうかうかと鼓動を跳ねさせてしまう。
(本当に……今日のアレク船長は、どうなってるの?)
「おまえが少しわかってきた。いろいろと難しく考えすぎるんだな」
「…………」
反論できず、白雪は決まり悪げに目を伏せた。天真爛漫で明るい巫女姫さまに、いつだったか「白雪はまじめすぎるわ」と言われたことが思い出される。
情けない涙をぬぐってくれた手に、頬を包まれた。次いで、額に軽く口づけられる。あまりに自然で、下心を感じさせない行為だったから、白雪もついおとなしく受け入れてしまった。
「愛情が足りないなら、欲しがればいい。おまえの世界にいる男は父親だけじゃないし、おまえを抱きしめてやれるのも父親だけじゃないんだからな」
「……わたしは――そんなふうに、欲張りにはなれません」
「そういうのは普通、欲張りって言わねえよ。幸せになる方法って言うんだ」
「幸せに……?」
思ってもみない、海賊には似合いもしない言葉に、きょとんとする。
「そうだ。今のままじゃ、おまえを国には帰してやれないぜ」
「な――」
帰してやれない、という言葉にぎょっとして視線を上げると、アレクの顔には彼らしい挑発的な笑みが浮かんでいた。こういう表情をするときの彼は、怖いほど色気がある。
「たとえおまえが逃げだしたって、俺がもう一度さらいに行く。そして逃げられないように閉じこめて、俺にしか甘えられなくなるようにしつけ直してやる。――それが嫌なら、おまえはもう少し欲張りになれ」
欲張りに――?
やはり自分には縁遠いような言葉を突きつけられて、白雪はもう惑乱するしかない。
「……どうして、そんなことを」
「そうしないと、おまえはいつまでも幸せになれないからだ」
――ぽん、と黒髪の上に頭を置く。
父親の影から抜け出せないからだ、とは、アレクは言わずにおいてやった。
記憶を取り戻したばかりの彼女には、まだ酷な言葉だと思ったし、いたずらに反発を招くだけだと思ったからだ。
「欲張りに、と言われても――わたしにはわかりません」
「なら俺が教えてやるよ。強欲な海賊だからな、そういうのは得意だ」
にやりと笑う。
「ただし、やさしいクリス先生と違って、俺は野蛮なやり方でしか教えてやれないかもな」
「野蛮って……今のような?」
「今のはまだ序の口だ。これでも俺も抑えてるんだぞ、紳士的に」
「…………どこがどのように」
「知りたいか?」
疑心暗鬼の表情になった白雪は、うなずきかけて、慌てて首を横に振った。何をされるかわかったものじゃないと気づいたのだろう。
――すぐに気がついてくれて、アレクにとってもよかった。
知りたい、なんて無邪気に言われたら、ちょっと衝動に負けて、自分の決意にも船医の心配にも申し訳が立たないことをしかねない。そんなふうに思わせる何かが、この妙に目を引く少女にはある。
(しばらく陸に上がってないせいか?)
(こんな身体は細っこいし、精神面だってまるで子供みたいなやつに……)
けれど、今までに見てきた女の誰とも違うのは事実だ。異国風の容姿だけではなく、性格も何もかもが。
剣を振るうときやアレクを叱るときの、凛として気の強い瞳と、母国のことを――特に父親を想うときに見せる、ひどく心細げな表情。そのギャップに惹かれるのだろうか。
……わからない。
ただ確かなのは、放っておけないという自分の気持ちだけ。
この少女の悲しい部分を、自分の手で変えてやりたいという、勝手な望みだけだ。
そしてアレクは彼女とは違って、自分の感情を抑えこむタイプではない。
そうしたいと思うままに、華奢な身体を改めて抱き寄せた。
「ちょ、アレク船長――」
「おまえは俺のものだろ」
「……そ、そういうことにはなってますけど、だからってこういうのは」
「俺にはおまえを守る権利がある。――他の誰でもなく、俺に守らせろ。いいな?」
――額と額がふれる距離でささやかれれば、白雪はまるで熱で溶ける蝋燭にでもなったような心地を味わわされる。
さっき少しだけ飲まされたワインのせいだ。そう思いたかった。
「だから、他の野郎とは不用意に仲よくするなよ」
「は?」
「ヴィンスと、あとハロルドとも踊ってただろ。ああいうのは駄目だ」
「駄目と言われましても、わたしにだってお付き合いが――」
「なんとかやり過ごせよ。そのくらい頭使え」
「……頭って」
急に子供のようなことを言い張られて、気が抜けると同時にほっとしてしまう。
慣れないやさしさや包容力を向けられるよりは、まだいい。そう思ったとき。
――唐突に息を詰めて、アレクがよろめいた。
床の何かに蹴つまずいたのかと思ったが、違う。白雪の肩を食いこむほど強く握ったアレクは、明らかに息が荒んでいる。直後、崩れ落ちるように床に膝をついた彼の手は、眼帯で隠されたほうの目を押さえていた。
まるで、血が流れる真新しい傷口にそうするように。
「アレク船長……!?」
むしろ白雪のほうが血の気が引いて、あわてて彼の前に膝をつき、顔をのぞきこむ。
「どうしたんですか――目、が?」
「ッ……いや、大丈夫、怪我ってわけじゃ――」
言葉の続きは、低い、獣のような唸り声にのみこまれてしまう。
握られたままの肩が痛い。
けれど白雪は、アレクの強すぎる腕から逃れることは思いつかなかった。
やがて呼吸が落ち着くと、アレクは白雪から身を離し、吐き捨てるように言った。
「……あいつが、近くにいるのか」
低く唸るような独白。
え? と小刻みに瞬く白雪をよそに、アレクは身体中の血が鉛と化したかのように重苦しい動作で立ち上がると、なぜかまっすぐに舷窓へと向かった。閉ざしていた鍵を開け、金髪に風を受けると、舌打ちを響かせる。
「風はいい具合だが――こんな闇の中じゃ、探すのは無理か」
(……?)
「……くそッ、せっかく感じたのに」
白雪には意味のわからないつぶやきが、舷窓をにらむアレクの唇から次々にこぼれる。
(探す?)
(あいつって……誰のこと?)
察するに、アレクと仲がいい人物では絶対にない。どころか、
言い知れぬ不安に胸が詰まり、白雪は、何かを考えこんでいる様子のアレクのそばに行く。
「あの――大丈夫……ですか?」
シャツの袖を引くと、彼は悪い夢から醒めたみたいな顔をしてこちらを振り返った。
鋭い気配を残した瞳が、白雪を映す。
「何か、わたしにできることは……?」
父は――助けられなかった。
けれど、まだ目の前で生きているこの人は。
欲張りになれと言ってくれた、この人になら。手を伸ばせば、支えられるのではないか。
口に出せない胸の奥で、白雪はそう切望するけれど、アレクは――
「――いや」
ゆっくりとかぶりを振る。
「俺は大丈夫だから、おまえは今日はもう寝とけ。明日はまた早いぜ」
気遣いが感じられるものの、彼女の期待には反した言葉しかくれなかった。
(わたしでは、頼りにならないから……?)
ずきりと胸が疼く。
思わず瞳を揺らしてしまった彼女を、アレクはいつもどおりの性悪な笑みではぐらかした。
「なんだ? 俺と一緒に寝たいか」
「……ッ、そ、そんなわけないでしょう!?」
瞬時に発火した怒りのまま、アレクの手を振り払うと、白雪は自分の個室へと駆けこんだ。
扉を厳重に閉めて――
向こう側から開けられたりしないように、背中で戸板を押さえる。
今の自分の表情は、アレクには見せられないと思った。泣き顔よりももっと恥ずかしい表情をしている気がする。
(……なんなんだろう、この気持ち)
震えながらため息をつき、自分の身体を抱きしめる。
強引なやり方で詰められてしまった心の距離を、ひどく勝手に突き放されたような苛立ちと虚しさと――寂しさが、どうしようもなく胸をかき乱していた。
(どうして……)
(あの人に、こんな想いをさせられなきゃいけないんだ)
勝手だ。意地悪だ。大嫌いだ。
胸の中で何度もそう繰り返すのに、本気ではアレクを憎らしく思うことのできない自分に気づくと、途端にいたたまれなくなる。他人にこんな複雑な気持ちにさせられたのは、生まれて初めてかもしれない。
……戦利品のワインの分け前を遠慮したことを後悔した。酒精はちっとも好きではないのだが、こんな心を抱えたままではとても眠れそうにない。
ほんの少しだけ、やたらと酒におぼれる海賊の気持ちがわかった夜だった。