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第3章 聖なる石と空の十字架




 ――夜中に、どさりという音を聞くことがある。
 もしかして、と思ってアレクはベッドを抜け出し、小さな扉を開けてみる。
 すると予想どおり、ミノムシのように毛布にくるまった少女が床で寝息を立てていた。慣れないハンモックから転げ落ちて、痛いとは思いつつも、濃い疲労に負けてそのまま寝てしまったのだろう。新米船乗りにはよくあることだ。
 見てしまった以上、そのまま放置するわけにもいかず、アレクは熟睡する少女を起こさないようにそっと抱き上げる。昼間、不埒ないたずらを仕掛ける船長を警戒する姿が嘘のように、無防備に眠りこける少女は気づく様子もない。
 冗談半分でキスしてみたくなったが、やめた。彼女が知らない場所では、やさしいだけの船長でいてやってもいい。しらふじゃ、そんな真似はこっ恥ずかしくて絶対に無理だが。
 少女をハンモックに戻してやるついでに、寝顔にかかる黒髪をよけてやったとき、初めて彼女が反応を見せた。
 ぴくりと身じろぎ、珊瑚色の唇が震える。
「……ちちうえ」
 こぼれたのは彼女の母国語らしいが、そのときは意味がわからなかった。だが、溺れた彼女が息を吹き返したときも、似たような単語を聞いた気がした。
 細い指先がゆらぎ、誰かを探している様が、妙に痛々しい。
 思わずその指先に手を伸ばしてやると、少女はそれをこわごわと握り、そして再び深い眠りに落ちていった。閉じた目の端に涙の気配のようなものが見えたのは、アレクの錯覚ではないと思う。心細そうな寝顔が、妙に心に残った。


「ちちうえ」というのが「父親」という意味で――少女の心の大半を支配する人間のことだとわかったのは、その後だ。


 獲物となったアスル=セレステ号はひどい有様だった。
 威嚇射撃のつもりで撃たせたオライオン号の大砲は、なんと船尾楼甲板のど真ん中に命中しており、舵までふっ飛ばしていた。数万分の一の確率だろう。
 フィロは無口なくせに火薬の申し子のような少年だが、砲撃の腕がよすぎるのも考えものかもしれない。まさか相手が、まともな砲撃戦もしないうちから全面降伏してしまうほどのヘタレ船長だったとは、アレクの予想外だった。
(俺たちをおびき寄せて罠にかけるくらいの手ごたえでもありゃいいのに……これだからな)
「どうか! どうか命だけはぁあああああああああ!!」
 乾いた甲板を額でぶち抜きそうな勢いで這いつくばり、命乞いをしているのは、折れそうな長身痩躯の船長。両手で黄金の十字架を握りしめている。
(それでも無敵艦隊の国の男かよ……)
 いくら商船とはいえ、これが「太陽が沈まない国」エスパーニャ――アレクたちの属する女王国ログレスとは長年の敵対関係にある国の男かと思うと、泣いていいのか笑うべきかわからなくなる。というかひたすら情けない。
 アレスはため息をこらえて、せいぜい威厳を保ちながら言った。
「さっき信号でも告げた通り、無駄な抵抗をしなければ、俺たちはこれ以上の砲撃はしない」
「はい! わかりました! すべての条件をのませていただきますとも!!」
「……まだ何も言ってねえよ」
 あまりのうるささに海に蹴り捨ててやりたい衝動をこらえて、「取引」の条件を並べ立てれば、命大事なアスル=セレステ号船長はすぐに受け入れた。
 拍子抜けにも程があるが――
(――ま、ある意味賢いか)
(敗けを認めた以上、抵抗は無意味だからな)
(だったら、はいつくばって俺たちをせいぜいイイ気分にさせて、自分と船員の無事を確保したほうが今後のためにはなる……)
 男の誇りや気概とはほど遠いが、たとえ生き汚くても、命あっての物種とはいう。
 甲板から次々にオライオン号へと運びこまれていく積荷を見るに、この船長、航海士としての腕はさておき、商人としては目利きのようだ。どの品も質がいい。今回大損をしても、挽回できるだけの蓄えがあるのかもしれない。
 ――アレクにしてみれば、一番手ごたえのない種類の、残念な獲物だったわけだが。
「欲求不満かい?」
 飄々とした声が耳元でささやかれた。バージル。
「ほれ、アレク。おまえの目つきが悪いから、可哀想にあんなに怯えちまって」
 黒衣裳のアレクと対をなすように、あざやかな深紅の上着をまとう副長は、表情だけはいつもの間の抜けたような笑顔だ。その笑みと、釣竿の代わりに肩にかついでるものの恐ろしさが不似合いである。
 真紅の柄を持つ斧槍[ハルバード]――
「アホかバージル。おまえのその血の色の柄をした武器が怖ぇんだよ」
「今日はまだこいつは血を浴びてないぜよ?」
うっすらと恐ろしいことを言うときも、バージルの糸目の笑顔は揺らがない。
「ま、物足りない気持ちは俺もわかるぜよ。最近はちぃっと退屈だしな。――だがそれにしたって、アレク、おまえちょっこし気が立ってやしないか?」
「……俺もおまえと同じで、すっきりしないってだけだ」
 なんだかんだでバージルのほうが年上だし船乗りとしても先輩なので、アレクもつい、口が軽くなる。すっきりしない本当の理由は明かせなかったが。
 ちらりと目線を流し、アスル=セレステ号に接舷しているオライオン号の甲板を見やる。
 青いドレス姿も、黒髪の少女も見当たらない。
 彼の「すっきりしない」本当の原因である彼女は。


 オライオン号に戻ると、戦利品の運搬や配分に関係する人間以外は、すでに夕食――もとい、今宵の宴の準備で気もそぞろだった。まだ日も沈む前だというに。何人かで集まって、隠し芸の準備を始めている頭がタコなやつまでいる。
「あ、船長、副長――」
「うわッ、隠せ隠せ!」
 さすがにアレクとバージルが戻ってくると、タコも「やべッ」という表情をする。
 気はいいし船乗りの能力も高いが根本的にアホな配下だということは承知の上だったが、示しをつけるために、アレクはとりあえず睨んでおいた。
「浮かれすぎだぞ野郎ども。敵が水平線の向こうに見えなくなるまで油断するなって、いつも言ってるだろうが」
「――大丈夫ですよ、アレク船長」
 とりなすような声の主は、銀髪白皙の美しい少年・ヴィンスだ。
 優雅な見た目とやわらかい物腰に反して、意外とシビアで人を動かすことにためらいのないヴィンスを、アレクはしばしば指揮官代理に採用している。どうせ司祭としての仕事など、週に一度かそこらしかない。
 ヴィンスはにこやかに言った。
「フィロがそれはもう手際よく火縄をだめにしたりして、敵船の砲台を使えない状態にしてきましたから。どこかに寄港するまで、アスル=セレステ号はまともな戦闘能力を取り戻せませんよ」
「そいつは俺も知ってるが、心構えの問題だ。――留守番ご苦労。何も問題はなかったな?」
「船内の事務的な面では、特に」
「それ以外ではあったのか」
「個人的なことです」
 だから秘密です、とでも言いたげに、ヴィンスは唇の前に人さし指を立てる。
 他の船員が同じことをしたら、なめるなと殴っておくところだが、これは殴って改める根性の持ち主ではないので、アレスは冷めた表情で受け流した。なんなんだと気にならないといえば嘘になるが、どうせ大した内容でもあるまい。
「俺のキャビンボーイはどうしてる?」
「白雪だったら確か、さっきまでは戦利品の運び入れを手伝おうとしていて――でもあまり力がなくて出番が少ないから、今は料理長の手伝いをしてるはずですよ。もう下準備だけで厨房は戦場ですから」

 ――あのドレスでか?
 それとも「作業着」に着替えたのだろうか?
 どちらにせよ、また船医クリストファのところに逃げこんでいるのでなければいい。さっき医務室で、いつになく弱々しい表情とうるんだ瞳をさらしていた少女には、なにやら妙に苛立ったものだ。
 とそこまで考えて、改めて自分に疑問を持つ。
(だから、俺は何に苛立ってるんだっつう……)
 金髪をかきむしりかけて、それに丁寧に櫛を通していた少女の手を思い出した。
 普段は凛として気が強そうなまなざしで、つついて泣かせたくなるほど意地っ張りで。
 なのに父親のことになると、途端にもろくなる。
 そんな一面を知っていたのは自分だけだと思っていたのに、船医に横取りされたような気がして、すっきりしないわけだが。
(……でも、これじゃまるでアレだろうが)

「そういえば船長。――ひとつお聞きしたいのですが」
 指示に戻ろうとしていたヴィンスがふと立ち止まり、厄介な物思いに囚われていたアレクを振り返る。やわらかな表情のくせに、目だけはそれとない鋭さを宿している。こんな表情ができるのは、アレクの知る限り、副長とこの少年司祭だけだ。
 いやな予感を覚えるアレクへと、ヴィンスはさらりと言った。
「白雪をいじめるのは楽しいですか?」
「……なんだと?」
「あ、別に船長を批判したいわけではないので、そんな尖った声を出さないでください」
「人聞きの悪いことを言ったのはおまえだろう。――あれをからかうのが嫌いとは言わないけどな。おまえはいじめたいのか?」
「よるべない異国の少年をいじめる趣味はないですよ。ただ僕も、白雪には何かと楽しませてもらっていますから――ああ、これってもしかして船長と同じ趣味なのかな、とふと思って。それだけです」
 では、持ち場に戻ります。
 如才ない少年司祭は、まるでダンスのターンのように優雅に身をひるがえすと、雑然とした甲板のにぎわいの中にまぎれていった。
 アレクは動揺を顔に出すような愚かな真似はしなかったが、内心警戒を強めていた。
(……まさかとは思うが)
(あれが男じゃないって気づいたんじゃないだろうな?)
 聡明だし、ああ見えてお綺麗なだけではない少年司祭は油断がならない。
 少し前の船医の言葉が甦る。
 ――『本当に、彼女とは何もないのですか?』
 ――『この先、何ヶ月も、何もしないと誓えるのですか?』
 叱責のような声だ。
 普段穏やかなだけに、相手を断罪するような響きを帯びるとき、クリストファの声は氷柱を胸に突き立てるような威力を生む。
『彼女が17歳だと知っていれば、あなたのキャビンボーイになどさせなかったのに』
『なんでそこまで深刻になられなきゃならないんだ。俺にはポネットがいるんだから、娼婦でもない女に滅多なことはしないってクリス先生だってわかってるだろう』
『あなたの養女の件は承知しています。ただ同時に、私は不安になる情報も持っているので』
『なに?』
『私の記憶が確かなら、あなたの好みは「簡単には落ちない」「凛としているけれどどこか弱い部分のある女性」だったと思いますが』
『……クリス先生』
『そして年の差が7歳未満なら許容範囲。違いますか?』
『だから白雪は危ない、か? 俺がいつ手を出すかわからないから』
『一応、あなたの理性と紳士の心を信じてはいます。ですが、彼女はいずれ故郷に帰る身なのに、万が一のことがあってはその後の人生がめちゃくちゃになってしまうかと思うと、どうしても過保護になるんです。――聞いたところによると、彼女の国は、異国の人間との血の交わりを歓迎しないそうですし』
 ――いくら病気の管理のためで、以前一時期だけ家庭教師をしてもらっていた相手とはいえ、船医に女の好みまで把握されているのは非常におもしろくない。
(しかもクリス先生の言いようだと……)
(まるで、『あれ』が俺の好みど真ん中みたいじゃねえか)
 なんでこの俺があんな子供みたいなのを、と言ってやりたかったのに、彼女の唇を奪ったことがあるせいで、そう言い切れなかったのがまた厄介すぎる。
 その直前に、クリストファの医務室で泣いていた白雪を見たときの苛立ちも手伝って、未だに胸の奥がもやもやしたままなのだ。
(……ったく、どうしてこうなった)
 嘆息する。
 悩みを溜めこむのは趣味じゃない。
 甲板長のジェフリーをはじめ、数人の幹部に指示を出し終えると、アレクは厨房へと降りていった。


2010.07.09. up.

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