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第3章 聖なる石と空の十字架




 オライオン号はほどなく、手に入れた船と接触するという。
 通路を行きながら、白雪の胸にはアレクの不機嫌そうな顔ばかりが浮かんでいた。
 泣いたことに気づかれてしまったのも恥ずかしい。
(……気まずいかも)
(でも、変に意識したら、余計にからかわれるだろうし)
 開き直るしかないかと、船長室の扉の前で心を決める。
 ――深呼吸。
 体当たりするような気分で扉を開くと、アレクは(こんなときに限って)すでに中にいた。思わず鼓動が跳ねる。
 しかも、普段適当につけているビーズの腕輪だの色糸を編んだ飾り紐だのを外して、白木綿のシャツを脱ぎかけた格好だ。思い切りよく露出した男性らしい肩の線をまともに直視してしまい、白雪の頬に思わず血がのぼる。
 動揺でつまずきながら扉を閉めると、アレクに大げさなため息をつかれた
「おまえな、いい加減慣れろよ。上しか脱いでないうちから、そんな反応されても困るぞ」
「……そんなこと言われても、わたしは嫁入り前なんだからしょうがないでしょう」
「俺も婿入り前だが、おまえの裸を見ても平気な自信はあるぜ」
「一緒にしないでください!」
 服の包み二つ――例の作業着とアレク用のと――を抱え直し、白雪はきっぱりと反論する。
 まったく、口だけは減らない人だ。
 どうしていつも変な方向の反論を思いつくのかと、半ばあきれ半ば感心しつつ――
(でも、いつものアレク船長だ)
 白雪はひそかに、ほっと胸を撫で下ろしていた。
 からかわれて安心するというのもおかしな話だけれど、不機嫌そうな表情をされないだけ、気は楽である。
 どうしてこの人の不機嫌そうな表情に、あんな心を乱されたのかと考え直せば、答えはすぐに胸の底から浮かんできた。――白雪が忍務でヘマをしたり傷を負ったときなどに、父・冬厳が見せた表情を思い出させるせいだ。
(父上とアレク船長、顔は全然似てないのに……)
(どうして重なるんだろう)
 黙ってさえいれば、いかにも西方人らしい華やかさと凛々しさを具えている金髪蒼瞳の容姿を見上げて、白雪はため息ひとつ。
「とにかく着替えてください。ハロルドさんから、船長の身支度をまかされてきたんです」
「また新しい衣裳か? よくもまあたくさん作るな、あいつは」
「また?」
「ハロルドに聞いてないのか? 衣裳を作るのが趣味で、女装は特技だって。衣裳部屋に保管してあるうちで、配給服以外はあいつのデザインやアレンジした物だ。航海の暇を持て余して作っちゃあ、片っ端から売り払って小遣いにしてる。――おまえが着てるその青いドレスも、あいつの自信作のひとつだ」
「自信作なのに、わたしが着てていいんでしょうか……。汚してしまうかもしれないのに」
「言い忘れたが、作った服を知り合いに着せるのもあいつの趣味だ」
「男の人の服はつまらないって言ってたのに?」
「普段着はな。金モールや凝った刺繍のある衣裳なら、男の服でも作る気になるんだとよ」
「……わかるようなわからないような」
 要するに、ハロルドの価値観に基づいて華のある衣裳を作り、人に着せるのが好きなのか。
(芸術家だな)
 白雪はそんなふうに思う。
 芸術家なら、あの奇矯とも思える性格も、さもありなんという感じだ。
 などと思っていると、
「白雪。おまえ、もうハロルドの趣味がうつったのか?」
 服の包みを受けとったアレクが、急にうろんげな声を上げた。
「はい?」
「俺にこれを着て取引に出向けってのは、相当に悪趣味だろ」
 半眼で突き返されたのは、メイド服とかいうあのフリフリの可愛らしい作業着だ。
 ――間違えた!
「そっちじゃなくて、こっちでした! それはわたしの夜の衣裳です」
「っておまえが着るのかよ?」
 似合わないとは言わねえけどな……と、アレクはなにやら難しい顔になった。
「はい。夜の祝勝パーティーのお手伝いは、その作業着でってハロルドさんが」
「作業着……?」
「女性用の作業着だって、ハロルドさんが言ってたんですけど。違うんですか?」
「…………確かに作業着といえば作業着だけどな。相変わらず、どうでもいいときだけ発想がすばらしいな、あの女装好きは」
 アレクはますます難しい顔になって、言葉を濁してしまう。
(? 変なの)
 とりあえず、アレクが脱いだものをまとめて籠に放りこんでいく。
 ――シャツの裾に、ほころび発見。
 縫い物はあまり好きではないのだが、後で縫っておかないと。などと思っている白雪の脇腹が、アレクにつつかれる。
「おい、俺のキャビンボーイ。サボッてないで手伝え」
「手伝うって――あなたの着替えをですか?」
「あたりまえだろ?」
 ……全然あたりまえではない気がするのだが。

 同性の朧姫さまならいざ知らず、立派な成人男性の着替えを手伝うのは、白雪にはどうにも抵抗があった。
 母国の後宮では、着替えを意味する「更衣」という肩書きを持つ女官は、帝の寝所にも侍る――側室のようなものである。それが頭に浮かぶのだ。
 だが、はるか遠い異国の人、しかも海賊であるアレクにそんなことを言っても、細かい機微をわかってもらえるとは思えない。
 結局、抗議はのみこんで、目をそらしがちにしながら、アレクのそばについた。

 まず彼が外した普段用のサッシュを受けとると、青リンゴを連想させる甘い香りがした。
「リンゴのジュースでもこぼしたんですか?」
「は? ――ああ、ラム酒のにおいだろ。おまえは飲んだことないんだったか」
「ビールなら少し……。でも、ほとんどはお水かお茶です」
「じゃ、今夜は飲ませてやるよ。とっておきの樽を開けるって料理長が言ってたからな」
「飲んでみたくないわけじゃないですけど、お酒はあまり飲んだことないからちょっと」
「ほう。俺の酒が飲めないってのか?」
「今から絡まないでください」
 悪ふざけをかわし、海賊らしい傷があちこちについた身体を直視しないようにしながら、着替えを手伝う。ときどき、ちらりとうかがう目の端では、アレクが根性のよくなさそうな笑いを浮かべていた。
 明らかに、白雪の緊張と動揺を楽しんでいる。
(また……!)
 この人の機嫌なんて気にして損したと心底思いながらでも、黒地に金色の飾りをあしらった衣裳を着せてやると、アレクは恐ろしく見栄えのする姿に変身した。

 ハロルド曰く「海軍の正装用軍服――を、おれのセンスでもっとかっこよくしたよ!」という上着は、ため息が出るほど凝った金モールの装飾や肩帯、太陽と月をかたどる紋章で彩られている。
 ズボンも含めて黒が大半を占める衣裳なのに、驚くほど華やかだ。
 おまけにアレクは普段がだらしない反動なのか、かっちりとした詰襟の衣裳だと抑制された色気が出るタイプらしい。袖口のカフスを見るときの、うつむいて伏し目になった横顔など、絵のように美しく思えてしまう。
 彼の金色の髪が漆黒にこんなにも映えるなんて、白雪は予想していなかった。
 いつまでも、ほれぼれと見ていたくなる。――中身は凶悪なのに。

「……王様みたい」
 うっかり見惚れて、さらにうっかり呟いてしまった言葉に頬が熱くなった。
 海賊なのに、何を見とれてるんだ、わたしは。
「海賊王ってか? ありがとよ」
 子供のように笑ったアレクの手が、ふと白雪の首筋へと伸びる。緊張で一瞬身を硬くした彼女の耳元で、しゅるりと何かがほどける音がした。
 リボンだ。
 黒髪がほどけて流れてしまう。なんだか頼りない気分になり、白雪は目を泳がせた。
「何を――」
「やっぱり下ろしたほうがおまえには似合うかと思ったんだよ。悪いか?」
 悪いか? と言われると困る。
 ともあれ彼女の黒髪を下ろしたことで、アレクは満足したようだ。以後は特にちょっかいを出さずに、仕上げに入る。
 白雪はあまり彼の顔を見ないようにしながらも、不意に跳ねた鼓動を押さえるのに苦労させられた。……ちょっと悔しい。なぜかはわからないけれど。
 椅子に座ったアレクの後ろに回り、純金を梳いたような金髪に櫛を入れる段になって、
(ペンダントだけは、外さないのか)
 などと小さいことが気になっていると、不意にアレクが言った。
「それにしても、すっかり元気みたいだな。ついさっきまで、めそめそ泣いてたくせに」
「……ッ」
 はじかれたように、アレクの顔を見る。
 さぞかし意地悪そうな笑いを浮かべているだろうと思いきや、意外にも、アレクは仏頂面で腕組みをしていた。
 不機嫌そうともとれる――というかそうとしか思えぬ表情に冷たい鋭さを感じ、白雪は不覚にも身が縮む。ただでさえ目つきが悪いのに、心臓に悪いことこの上ない。
「何があった?」
 彼女の警戒に反して、アレクは叱るでもなく、淡々として問うてくる。
 かえって怖いほどに。
「クリス先生にいじめられたか」
「いじめられてなんていません! ……先生から聞いてないんですか?」
「そのクリス先生に、知りたかったらおまえに直に聞けと言われたんだよ」
いかにも紳士的で、道理をわきまえたクリストファが言いそうなことである。
「でも、もうすぐ取引の時間じゃ――」
「もう少しなら平気だから、話せ。おまえのことが気がかりで取引に失敗したら、どう責任をとるんだ?」
「……そんな無茶苦茶な」
 振り回す理屈にはあきれたものの、どうせごまかしつづけることはできないのだと観念して、白雪は記憶が戻ったことを簡潔に話した。
 欠けている部分もありそうだが、海に落ちるまでの経緯はわかったこと。
 泣いたのは――父のことで、動揺したからで。
 クリストファはそれを、まるで守るように慰めてくれたということ。
「なるほど。それで泣いてたってわけか」
「……ッ、お願いですから、泣いたことは忘れてください」
「忘れる? とんでもないな。俺の許可なくめそめそ泣く不出来な召使には、きちんとお仕置きをしないとだろ」
「! ちょ――」
 優秀なキャビンボーイだという自信なんてないが、さりとて泣いたことがお仕置きされるほどの失態にも思えなくて、白雪は思わず抗議の声を上げようとした。が、その前に、急に立ち上がったアレクに抱き寄せられてしまう。
 身体が勝手にびくりと震えた。――出逢った最初の日に強いられた行為を思い出して。
 お仕置き、という単語がいやな想像を呼ぶ。唇の上にあの感覚が甦る。
 が。
「――本当に大丈夫なのか?」
 予想と覚悟に反して、アレクから与えられたのは、お仕置きという単語とはかけ離れたやさしい響きだった。
 いつになく大事そうに抱かれた腕の中で、白雪は何度も瞬きをしてしまう。
「大丈夫って……何が、ですか?」
「親父さんのことに決まってるだろ」
「……で、ですから父上のことは、わたしのことを少しは大事に思ってくれていたんだと信じることに決めて――」
「そっちじゃねえよ。……覚悟してたって言っても、悲しくないわけじゃないだろうが」
 白雪は息を呑んだ。
 父が、戦いのさなかに亡くなった可能性が高いことを、アレクは言っているのだ。
 どうしても直視したくはない――そしてクリストファも彼女の気持ちを慮って、あえてふれずに終えてくれた部分に、アレクは踏みこんできている。心がいやおうにも震えて、押さえることもできずに目の奥が熱くなる。
「慕ってたんだろ? あんまり構ってもらえなくても」
 けれど、思い出した悲しみに飲まれる前に、その言葉が白雪を覚醒させた。
 はっとして、アレクの隻眼を見上げる。
「あなたは……わたしの父上について、何かご存知なんですか?」
「そんなわけあるか。名前さえ知らねえよ」
「でも」
 あなたの口ぶりは、まるで、わたしにとっての父上の重みを知っているようではないか。
 当惑する白雪をよそに、アレクは少し遠い目をして言う。
「俺が知ってるのは大したことじゃねえよ。おまえを海から拾い上げたときに、目覚めたおまえが最初に言った言葉と――」
 が、ひどく中途半端に口をつぐんでしまった。
 ――目覚めたわたしが、最初に言った言葉?
 それ「と」何?
 自分でも知らない秘密を握られているのかと思うと猛烈に気になるのに、アレクは勝手にごまかしてしまう。白雪の髪をくしゃくしゃとかき混ぜることで。
「まあよく考えてみりゃ、おまえがっていうより、俺が残念なのかもしれないな」
「な、何がです?」
「そのドレス、思ったより似合ってるからな。――おまえの国のやつらにも、見せてやりたかった」
 ――おまえの親父にも、と。
 穏やかに笑って言われると、胸が痛い。
「それととりあえず言っておきたいのは、俺以外のやつの前で泣いたりするなってことだ」
「ッ……」
 ついでに茶化すように鼻をつまんできた不届きな手を、即座に振り払う。
「どうしてそんなことを――」
「イライラするからに決まってるだろ」
「なんでイライラするんですか、と聞いてるんです」
「なんでって、おまえは俺の所有物だからだよ」
 隻眼が急に強い光を放った気がして、白雪はぎくりとした。
 反射的に一歩下がろうとするけれど、それを見越したアレクの手に腰を押さえられているせいで、かなわない。むしろ逆に、より密着するように身体を引き寄せられてしまった。かかとが軽く浮く。
 耳元に吐息。
「――涙の一滴に至るまで、全部な」
 甘ったるい囁きに、何を思うよりも先に、腰が抜けてしまいそうになる。それはそういう力を持った声音だった。
 全部――って。
 いつもの悪ふざけに決まっていて、彼に所有されたくなんてないはずなのに、どうしてか声が喉に絡みそうになる。それを、無理して押し出した。
「……ロケットの方が、いるくせに。どうしてわたしにそんなことを言うんですか」
「なに?」
「それ――大事な方なんでしょう?」
 これ以上、アレクの腕の中にいるのはたまらず、白雪は硬い声で突き放す。
 クリストファに穏やかに慰められたときとは違って、アレクの意外なほど繊細なふれ方にはどうしても安心ができなかった。
 安らぎも確かにあるのだけれど、動揺が上回っている。
 そっと包まれるのではなく、身体ごと心を奪われていくような錯覚に襲われて――
 ――怖い。
 不思議とイヤではないけれど、どうしても怖さがあるのだ。
 怖いものは早く離れてほしかったから、ロケットのことを訴えたのに、アレクはなぜかおかしそうに喉を鳴らしている。
「へえ? これの中身が気になって、俺に集中できないか」
「き、気になってるわけじゃ……!」
「開けてみろよ」
 ほら、と彼が襟元をゆるめれば、抱かれている白雪の目の前にロケットが現れる。
 てっきりその中身はアレクの重大な秘密かと思っていたので、あまりにもあっさり提示されたことに白雪はうろたえた。
「……開けていいんですか?」
「開けるのが怖いか? 別に化け物の絵なんざ入ってないんだけどな」
 そんなふうににやにや笑いで挑発されると、意地でも対抗したくなってしまう。
 アレクの青い隻眼を睨みつけるようにしながら、ロケットに手をかけ――薔薇が刻印された蓋を思い切って開いた。

 中に入っていたのは、想像していた通り、女性の絵だった。
 ――想像と違うのは、それが十歳くらいにしか見えない少女だということだ。
 茶系の絵の具のみで描かれているので、髪や目の色はわからないが、やわらかな髪をワンピースの背に流した、楚々としたお嬢様である。まだ幼いが、目線はどことなく勝気そうで、おとなしいポーズの下に活発さを隠しているようだ。
 数年もすれば、気品ある貴婦人になるだろうと思われた。
 どことなく、朧姫さまと雰囲気が似ているかもしれない。

 白雪は小さな絵をしばらく凝視したあとで、ようやく声を絞りだした。
「…………ものすごく訊きづらいんですけど……アレク船長ってそういう趣味なんですか?」
「趣味?」
「とっても小さい女の子しか好きになれないっていう」
「本気で馬鹿か。それは俺の娘だ」
 …………。
 ……………………。
 ………………………………娘?
「ええええええええええええええ!? 何歳のときにできた子供なんですか!」
「落ち着け叫ぶな、うるせえぞ。さすがに実の娘じゃねえよ。養女だ」
「養女?」
 白雪はますます混乱した。
「どうしてガラの悪い海賊なのに、こんないたいけな女の子を養女に」
「ガラの悪い海賊で悪かったな。そのポネット――小さな女の子は、俺の姉貴の娘だ。姉貴が旦那と一緒に事故で死んじまったから、仕方なく俺が引き取ってるんだ。ああ、安心しろ。航海の間は、俺の恩人のところに預けてある」
 ――白雪はもう、言葉もなかった。
 意外だという次元を通り越して、衝撃にも程がある。こんな男に養女がいたなんて。
 しかも。
「姉貴に似て、まだ小さいうちから利発っていうか口達者なガキでさ。俺が髪を可愛くしてやっても、駄目だしが厳しいんだ。やれ三つ編みが雑だの、お団子がいびつだの……。お蔭で、女の髪をいじるのが無駄にうまくなった」
 ペンダントを再びつけ直したアレクの顔に浮かぶのは、穏やかな愛情に満ちた――父親のような、兄のような表情だ。
 その表情で気づく。彼は本当に、ポネットという名の姪を愛しているのだ。

(海賊なのに……)
 やさしいものとは無縁そうな、兇悪な目つきや意地悪な言葉の持ち主のくせに。
 さっき白雪を抱きしめたときの、ずるいようなやさしさは、決して悪ふざけではなかったのだと――彼女はようやく理解した。
(あれは……本当に、わたしを心配してたのか)
(父上を喪ったわたしを)
(きっと、ポネットさんがそうなったら、って想像して……?)
 急に鼓動がうるさくなる。また泣きそうになる。顔が上げられない。
 そんな動揺をさえぎったのは、白雪の頭のてっぺんにあごを乗せるようにしているアレクの言葉だった。
「東洋の黒真珠を持って帰るって約束したら、喜んでたけどな」
「黒真珠?」
「おまえのことだよ」
「! 勝手に約束しないでください。わたしはあなたに持ち帰られるつもりなんて――」
「ムキになんなよ。冗談に決まってるだろ。海の上から陸にどうやって連絡するんだ?」
 ――だまされた。
 まんまと煽られて声を上げてしまったのが悔しく、白雪は唇を噛む。
「というわけで、安心したな?」
「は?」
「俺に決まった相手がいないか、やきもきしてたんじゃないのか」
「ち、違います! そうじゃなくて――あなたみたいな人がどうして、わたしにそんなふうに構うのかがわからないだけです!」
 悲鳴のように叫べば、アレクは急にふてくされたみたいな表情になった。
「俺だってわかんねえよ」
「……え?」
「なんでおまえみたいな子供だか女だかわかんないのに、こんな――……ったく」
 失礼な、と怒るよりも、拗ねたような言葉の続きが悔しいくらい気になってしまう。
 背に回されていたアレクの腕に、ぐっと力がこもった。
 押し返さないといけない。いつものように。
 ――なのに、手が麻痺していて、できない。
 いつでも耳について仕方ない波の音さえも遠のく、止まった時間を動かしたのは、礼儀正しいノックの音だった。
「アレク船長。時間です」
「――追イ風! 仕事ノ時間ダ!」
 ヴィンスのよく通る声。続いて、オウムのアーサー。
 長い夢から覚めたように瞬いたものの、まだ動けないでいる白雪を、アレクはあっさりと解放した。
「今行く。――白雪。俺の銃」
「え……あ、はい」
 あわてて動くが、半分意識がもうろうとしたままだった。
 アレクに強引にふれられていた部分に残る、しびれのようなものが邪魔で仕方がない。
 銃を渡すその一瞬、指先と指先がふれただけでも、びくりとしてしまうのだ。こんなことは生まれて初めてだ。アレクの様子は気になるけれど、不用意に目を合わせるのも怖くて、顔をそむけてしまう。
「ご苦労。――続きは今夜な」
 去りかけて不意にかがんだアレクが、不自然にそっぽを向いていた白雪の頬に、一瞬だけの口づけを落とす。
 いきなり何を!? しかも今夜って!?
 と突っ込む暇もあらばこそ、白雪が頬を押さえて振り返ったときには、アレクの姿はもう見えなくなっている。
 ――どっと疲れた。
(わ……わけがわからない……)
 悶々としながら、とりあえず片付けだけはと思ってしゃがんだところに、影が落ちる。
 え? と思って顔を上げると、ヴィンスがすぐそこに立っていた。
 天使の笑顔。
「やあ。朝に会ったきりだったね。『通過儀礼』、楽しんでる?」
「いえ……楽しめそうにはないかな、と」
「そうなの? よく似合うのに、もったいない」
「似合ってもうれしくないです」
「そうかい? まあ男ならそうか。僕もやったときは、似合う似合うって言われたけど、そのたびにちょっとナイフで刺してみたくなったな。でも自分以外の人の仮装を見るのは楽しかったから、今思うと、おあいこなのかな」
(……今、さらっと黒いことを言ったような……)
 表情をまったく変えずに言うので、つっこむのをためらう。
 アレクが放り捨てていったアクセサリなどを拾うのを手伝ってくれながら、ヴィンスはささやくように言った。
「アレク船長にいじめられてたの?」
「え。いえ、別にいじめられてたわけじゃ――」
 とっさに否定するが、ヴィンスがなぜそんなふうに思ったのかが気になった。まだ泣きそうな顔でもしていただろうか?
「オンナノコ! カワイイネ!」
 空気を読まないオウムのアーサーは、うるわしい少年の肩でひやひやする内容を鳴いている。
 そちらに気をとられた白雪の、船長の手によってほどかれていた黒髪に、ふとヴィンスの形よい指がふれた。
「髪、綺麗だね。東方の人は、みんなこんなふうな髪質なのかな」
「え? あ、たぶん……そうじゃないかと」
「下ろしていくの?」
 近い距離に妙にどぎまぎして、要領を得ない返答になってしまう白雪をよそに、ヴィンスはマイペースに言葉を続けている。
 白雪はどうにも落ち着かない。
 というか緊張する。
 そつのない優等生に見えるけれど、海賊船の司祭だけあって、油断がならない――そう思わせる何かがヴィンスにはある。アレクも確か、ヴィンスがただ芸術品のように綺麗なだけの少年ではないと示唆していたし。
「……さっき、リボンがほどけたからこうなっただけで、束ね直すつもりです」
 アレクにほどかれた、と言うのは変な誤解を招く気がしたので、無難に逃げてみる。
 ヴィンスは特に何に気づいた様子もなく、ゆっくりとうなずいた。
「うん。そのほうがいいね」
「はい。邪魔になりますし」
「そういう意味もあるけど――白雪」
 内緒話の声で名を呼ばれ、どきりとする。
 不意にヴィンスが顔を近づけてきた。
 白雪が思わず半歩引くよりも、天使のように美しい少年が、彼女の耳元すれすれまで唇を寄せるほうが早い。
「――――、――?」
 そうして落とされた囁きは、白雪をぴしりと凍らせた。
 誰かに呼ばれてヴィンスが甲板に戻る、そのときまで、白雪は自分がどういうふうに返事をしていたのかすら曖昧だった。
 笑顔で手を上げて去っていくヴィンスに、ぎこちなく手を振り返す自分が、まるで遠い世界の出来事のよう。
 銀の髪がすっかり見えなくなって、ようやくまともな呼吸が再開できた。
 ――『本当に女の子みたいに見えてしまって、危ないよ?』
 ヴィンスの、やけに本気じみた囁き。
 本当に、女の子みたいに?
 どこか含みありげな言い方が、白雪の本能にどうしようもなく引っかかった。
「男としては」似合いすぎるドレス姿をからかわれただけかもしれないが、なにやら妙にイヤな予感がした。
(ヴィンスさん……まさか――?)


2010.06.29. up.

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