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第3章 聖なる石と空の十字架




 ……波の音が耳をうつ。
 やがて濡れた頬をぬぐい、クリストファに離してもらうと、白雪は細い声で言った。
「……すみません……先生に、こんなに気を遣わせて」
「かまいませんよ。趣味ですから」
「趣味?」
「ええ。人におせっかいをするのが趣味なんですよ」
 冗談めかした言葉を、さらりと言う。
 医学書でも読み上げるみたいな平然とした表情で言われるものだから、白雪にはそれがクリストファ流の冗談なのか本気なのか、つかみそこねる。
(クリス先生も、ちょっと風変わりかも)
 ひねくれ者のアレクや、船長公認の変人のバージルとは違った意味で、クリストファも独特のものを持っている。
 おおむね冷静だが、そっけないわけではない。やさしいけれど、べったりはしない。
 そんな距離のとり方は、白雪にとっても心地よいものだった。
 彼は静かに続けた。
「というより、これからは、泣きたい衝動に襲われたのなら、医師としては泣くことをお勧めします。泣けるということは心が正常に働いている証拠ですから。涙も笑顔も失った、最悪の精神状態になった後では手遅れになってしまう」
「でも……」
 泣くのは苦手だ。恥ずかしくて、情けなくて、舷窓から海に飛びこみたくなる。
「白雪」
 すると、それまでずっと穏やかだったクリストファの声が、不意に強くなった。白雪を見据える、すみれ色の瞳に宿った光も。
「あなたにもうひとつ、厳しいことを言ってもいいですか?」
「え……? は、はい」
 思わず涙を忘れ、かしこまって返事をすると、黒髪の船医は静かに続けた。
「弱さを見せたくない気持ちもわかりますが、私には――少なくとも、私にだけは一番弱いところを見せてくれないと困ります」
「困る……?」
「私の職業は知っているでしょう?」
 ――はい、船医です。
 なんて単純な答えを期待して、クリストファがそんな疑問文を口にしたわけではないことくらいは、にぶい白雪にも察せられた。
「身体と心の弱いところを宥めたり癒したりするのが、医師の第一の役目です。ですから私の前では、苦痛をこらえるたり弱い部分を隠したりしなくていいんです。むしろ隠されてしまうと、正しい対処法がとれなくて、あなただけでなく私も困る」
「…………」
「遠慮と意地は捨ててください。でないと、とてももちません。わかりましたね?」
「はい。――心得ました」
 白雪は神妙にうなずいた。
 するとクリストファは真顔でこんなことを言った。
「とはいえ、その姿で泣かれてしまうのも、実は少しだけ困るのですが」
「え」
「純真な姫君を泣かせる悪い男の気分になってしまう」
「……そんな」
 白雪は、ぷっと噴き出してしまった。悪い男だなんて、あの性悪船長ならともかく、紳士的なクリストファにはとても似合わない。
 表情を無理なくなごませた白雪を確認して、クリストファもようやく頬を上げた。
「喉が乾いたでしょう? お茶にしましょう。ど商船との取引では、私もあなたも出番はない」
 空気が明るく持ち直し、細やかな船医は、いつものように紅茶を淹れてくれる。白雪もおぼつかない手つきでお手伝いした。
 穏やかな時間。
 クリストファその人から口に出して教えられたわけではないが、船医がとある青磁の茶器が白雪専用にしてくれていることを、彼女はなんとなく察していた。やさしい翡翠色をした磁肌に、朝露に濡れたかの如き蓮の花が浮かび上がるカップで、手にしただけでほっとさせる雰囲気がある。白雪も、ひそかに気に入っていた。
 今日のお茶はいつもより薄めだったが、その代わりに――
「……甘い」
「蜂蜜を少し入れてみたのですが。苦手でしたか?」
「苦手だったんですけど、これは平気です。おいしい……」
 蜂蜜自体は、巫女姫さまへの献上品の定番で、側仕えの者もしばしばおすそわけにあずかっていたのだが――独特の風味がなんとも苦手で、白雪は病気のとき以外は口にしたことがなかった。「健康にいいのに」と朧姫さまに叱られてしまったほどだ。
 が、これは違う。
 薄めの紅茶にさらりと溶けこむ甘み。繊細な花の香りが、気持ちをやわらげてくれる。
「蜂に、ラベンダーという花の蜜だけを集めさせると、こういう蜂蜜ができるんです」
「らべんだー?」
 首をかしげれば、クリストファは素早く一冊の本を持ってきてくれた。分厚く重たそうで、あちこちがすり切れた革装丁の書物である。
「これがラベンダーです。乾燥させたものは薬草にもなる」
「青紫色の花なんですね」
「あなたの国には咲いていませんか」
「少なくとも、わたしは見たことがないです」
「薔薇の華やかさはないけれど、可憐な花でしょう? あなたに雰囲気が似ている」
 ――さらっと口にされた麗句に、白雪はあやうく紅茶を噴くところだった。
 男の人に、花に――それもこんな喩えられるなんて初めてのことだ。朧姫さまならわかるけれど、どうしてわたしが……? いや、こんな可憐なドレスなんて着ているせいなのか? と白雪は一人で目を泳がせてしまう。
 しかし、頬に血を上らせて隣をうかがってみても、クリストファは普段どおりの冷静な表情で本を棚に戻している。
(空耳じゃなければ……今のは、無意識なのかな……?)
 しかし、お世辞じゃないとすると、それはそれで狼狽を誘われるような……。
 いつも丁寧で穏やかだが、きざな振る舞いはしない人だけに、逆に恥ずかしい。二人きりでいることまで妙に意識されてしまえば、にわかに居心地が悪くなった。
 カップの水面を不自然に見つめたまま、白雪は懸命に精神統一をはかる。
(落ち着け、わたし。クリス先生は別になんとも思ってないんだから、わたしだけ敏感になりすぎてどうする)
 どきどきなんて、するべきじゃないのに。
 ええと――とりあえず話を変えよう。
 何か、と考えたら、さっき言うタイミングを逃した言葉が、自然と口をついて出た。
「すみませんでした。その……いろいろと」
「いいんですよ。あなたはまだ14歳でしょう。まだそんなにしっかりしていなくても、恥じる必要はないと思いますが」
「……え?」
「? どうかしましたか」
 一瞬ぽかんとした後で、白雪は違和感の正体に気づいた。
 アレク船長が考えた白雪の設定は「14歳の東方人の少年」である。わざわざ年齢を主張する機会もなかったので、確かクリストファには実年齢を教えていなかったのだ。
「クリス先生――わたし、本当は17歳です」
「なに?」
 今度はクリストファが目を点にした。
 予想以上に驚かれている様子に、白雪は少々たじろぐ。
「あの、14歳っていうのは、アレク船長が、わたしの顔と体格なら14歳と名乗ったほうが似合うし子供と思われて安全だろう、と言うからそう設定しただけで……。本当の本当は17歳なんです。あ、でも、もちろんこれはアレク船長と先生以外には内緒で」
「――わかっています。でも待ってください」
 頭痛をこらえるように額を抱えて、船医が短くさえぎる。
 待てと言われた白雪が、よく躾けられた犬のように口をつぐむと、
「問題はそこではなく――17歳ですか、あの人の……いや、さすがに」
「クリス先生……?」
「……でも危険ですね、少し」
 クリストファは苦いものを無理やり口の中に突っ込まれたかのような顔で、一人ぶつぶつと呟きはじめてしまった。
(あの人って――)
 誰だろう。船医の表情や文脈だけでは判断がつかないが、なんとなく金髪隻眼の船長が頭に浮かんだとき。
「――おい、俺のキャビンボーイが硝煙の匂いで気分が悪くなったって?」
 おもむろに扉が開いて、噂の(?)人の声が響いた。
「俺の」という部分にはまだ抵抗を感じるが、彼の召使として日々仕込まれている白雪は、条件反射でカップを置いて立ち上がる。
「アレク船長」
「なんだ。意外に元気そうじゃないか。ちゃんと顔見せろ」
 来い、と手招きされたので、ドレスの裾に注意しながら駆け寄る。
 真正面から少女の濃紫の瞳を見下ろすと、アレクは、つと眉をひそめた。
「おまえ……」
 不自然に途切れさせた言葉の続きを、彼は声にはしなかった。唇だけを動かす。
 なのに。
 ――泣いていたのか?
 そう問われた気がしてしまって、白雪は慌てて自分の目元に手をやった。
 濡れてはいない。そのはずだ。お茶を飲む前に、念入りにふいた。
(あ……)
(もしかして……まだ目が赤かった?)
 顔をそむけたところで、視界の隅で、アレクの手がこちらに伸びてきているのを見る。
 思わず、のけぞりながらその手を押し戻そうとして――
「――待っていただけますか? アレク船長」
 白雪がその反抗的な行為を実行に移すより早く、彼女の斜め後ろから伸びてきたもうひとつの男性の手が、アレクのそれを押しとどめた。
 クリストファだった。
 厄介な病人と向き合っているかのような厳しい目で、アレクを見ている。
「船長。白雪の本当の年齢を、あなたは最初からご存知だったんですか」
「……藪から棒だな。だったらなんなんだ?」
 当然、アレクは怪訝そうに声を低める。
「いえ、別に」
「別にって目じゃないだろ、クリス先生」
「実はその通りですが、ここでは少々言いにくいので」
 たっぷりと含みのある船医の言いように、アレクが目に見えて不快そうに眉をひそめる。
 白雪は息を呑んだ。
(……ど、どうしたんだろう?)
 びっくりするほど場の空気がとげとげしい。
 無言で視線だけを交わす船長と船医の間には、常にない何かが張りつめている。
 そこへ。
「クリス先生〜。今日の『お姫さま』が倒れたってほんとー?」
 無造作に飛びこんできたのは、間延びした声。
 三人ではっとして振り返ると、秋の妖精みたいな淡い茶色のチュニックドレスをまとう青年がいた。
「――ハロルド」
 アレクがとげとげしさを若干引きずった表情で、変わり者の操舵手を振り返った。
 女装の操舵手は、無意味にポーズを決めながら、のんびり返事した。
「ハロルドですよー船長」
「ですよー、じゃないだろ。舵はどうした?」
「だって、もう戦闘態勢は解除でしょー? おれ当直の時間は終わってるし、午後はそこのお姫さまと遊ぶ時間ですー」
「あ、遊ぶ?」
 お姫さまとはもしかして「女装」しているわたしのことかと、白雪は目を白黒させる。
 どうも今日は、アレクとクリストファ以外の人にまで慣れない女の子扱いをされてばかりで、気分が落ち着かない。母国では、御庭番の一員でしかもほとんど男衣裳を着ているという二重の理由のせいで、年頃の女子として扱われた記憶が掘り起こせないくらいだったのに。
 ハロルドはにこりと笑った。
「ま、遊ぶのはおれで、君にとってはお仕事だけどねー」
「お仕事なんですか?」
 仕事と聞いたら逆らえないのが白雪だ。
 ハロルドの背中を追って、アレクの真横をすり抜けようとしたとき、不意に二の腕をつかまれた。思わず足を止めて振り仰げば、輝きのきつい青の瞳とぶつかる。
「……アレク船長?」
 クリストファと対峙していたときとも微妙に雰囲気の違う、けれどやっぱり不機嫌そうな表情に、白雪は気圧された。
 顔立ちそのものは端整だが――ひねくれた性格を反映しているのか――目つきが非常によくない人だけに、こんなふうに仏頂面をされると迫力がありすぎる。しかも白雪の腕をつかむ手には、肌がひりつくほど強い意思がこめられている気がした。
 まるで――行くな、とでも言うような。
 彼自身もどかしい何かを、こらえているかのような雰囲気。
 船医とハロルドがいなければ、そのまま引き寄せられていたのではと白雪が想像するほど強い何かを感じて、白雪が凍りついていると。
「――いや、なんでもない」
「?」
「すっ転ぶなよ」
 こつん、と軽く額をこづいて送り出されても、何かが釈然としない。さっきから、クリストファもアレクも様子が変だ。
(もしかして、わたしのせいなのか?)
(でも、原因がはっきりとわからないんじゃ、どうにも……)
 何度も首をひねりながらも、白雪はとりあえずハロルドの後に従った。
 船医と蜂蜜のお蔭で、ひとりでは深みにはまってしまいそうな気分を立て直せたのだ。今度は白雪がオライオン号のために役に立って、お返しをしよう。
 問題が山積みなら、まずは自分の両手でできることから。それが一番、気分も晴れる。
 ――後方でクリストファが「では、話は後で」とどこか不穏な響きでアレクに告げるのが聞こえて、とても心配だったけれど。

2010.04.11. up.

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