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第3章 聖なる石と空の十字架




「……ええええええええ!?」
 その朝は、白雪の悲鳴で始まった。

 めずらしく起こされる前に起きたアレクは、ふと首をかしげた。
 疑問を感じたのは、悲鳴が上がったことにではない。
 悲鳴がしてすぐに、少女がキャビンボーイの小部屋から船長室に突撃してくるかと思いきや、意外に間が空いたからだ。白雪は今、自分のことでいっぱいいっぱいだろうから、今日は久しぶりに自分で洗面台の水をくみにいった。やさしいな俺。
 そうして船長室に帰ってくるなり、アレクは悲鳴まじりの声をぶつけられた。

「何なんですかこれは!?」
「何って――ドレスだろ」
「わたしにだって、それくらいはわかります! わたしが言いたいのは、どうしていつもの服がなくなって、こんな服が置いてあったのかということです!!」
 白雪が今着ているのは、だんだん肌になじんできた船乗りの衣裳ではなく――ドレスだ。
 白い襟飾りがついた、あざやかな青のドレス。
 肩の部分だけが控えめにふくらんだ可愛らしいデザインで、襟や裾には銀糸でバラのつると葉だけが刺繍されている。ふわりと羽根のように広がるスカート部分を飾るのは、見事なバラの刺繍が入った薄布と、光の角度によって色を変える真珠。
 まるで、クリストファがくれた絵本の中のお姫様のような衣裳である。
 朝起きて床を見たら、寝る前にきちんとたたんでおいたはずのシャツやズボンがなく、代わりにこれが置いてあったのだ。白雪が目を疑ったのは言うまでもない。
 そして衣裳の上には、一枚の紙。
『君に似合うと思うんだ♪』
 ――一体なんの悪戯かと疑ったのも、言うまでもない。
 そして犯人が誰かと考えたとき、真っ先に浮かんだのは、白雪をからかうのを趣味のひとつにしたらしい性悪船長の顔だったのだが。
「アホか。俺じゃねえよ」
 しかめ面で一蹴された。
「おまえが女だってバレたら面倒なのは、俺も一緒だぞ? なんでわざわざバレるような真似をしなきゃならないんだ」
「じゃ、一体誰が……?」
 繊細な刺繍がほどこされた袖を見下ろして、白雪はぞっとしない想いを味わう。
 ――似合う、という言い方。
 ――まさか自分が女だと見抜いた船員からの、脅迫代わりの何かだったら。
 もともと性格が「楽天的」とは対極にあるせいで、考えがどんどん最悪の方向に突き進んでしまい蒼ざめる白雪を、アレクがぱたぱたと手を振ってとりなした。
「いや、そうでもない。――実は俺たちの船には、新入りの通過儀礼があってだな」
「通過儀礼?」
 訝しげに眉をひそめる白雪を見下ろして、アレクは事もなげに言う。
「一日、先輩が選んだ衣裳で過ごすんだ。そういうドレスとかひらひらした女物のチュニックとか異国の踊り子の衣裳とか」
「って、なんで軒並み女装なんですか!」
「そりゃあ一番手っとり早いし、ゴツい野郎が乙女な服っていうギャップがでかくて笑えるからだろ」
 悪趣味すぎる。卒倒しそうな白雪を後目に、おそらく何度も「通過儀礼」を受けた船員を見てきたのだろうアレクは、憎たらしいほど平静だ。
 繊細なレースで縁どられ、扇のように広がる袖口をいじりながら、白雪はぼやいた。
「でも、これじゃ仕事ができません」
「今日一日は、これを着て、みんなに可愛がられるのが仕事だ」
「ええー……」
「ものすごくイヤそうだな」
「一日中、船の修理をしていたほうがマシです」
 衣裳は首謀者の決めたタイミングで用意されるから、何も知らない新入りはもちろんのこと、先輩の船員たちの大半も、いつ新入りが通過儀礼を受けるか予測できない。そこがおもしろいと評判の通過儀礼なのだという。
 ――説明されれば、それはそれで、うなずけないことはない。
 だが、なんだか理不尽な想いは残った。
 もっとマトモな通過儀礼はないのだろうか、と思ってしまう。こんな、正体がバレないかハラハラする上に、ちっとも似合う気のしない、可愛らしい衣裳でさらし者になる恥ずかしさよりはマシなものがあるはずだ。
「でも通過儀礼なのに、アレク船長が首謀者ではないんですか?」
「俺には、男に着せるドレスを選ぶ趣味なんざねえよ」
「なら、誰がそんな趣味の持ち主なんですか」
「操舵手のハロルド・シーウェル、って言ったらわかるか?」
「一応……」
 船の仕事の中で、名前だけは何度も耳にしていたものの、まだ一度もまともに顔を合わせたことがない人物だ。日々の仕事や慣れない専門用語についていくのに精一杯で、白雪はまだ、周囲を見渡せるほどの余裕を作れていない。
(操舵手、か)
 アレクは、彼にしては気を遣っているふうな口調で言った。
「おまえの想像どおり、ちょっと変わった奴でな。下手な女よりもドレスや宝石や香水が大好きで詳しいんだ。でも、お蔭でいい鑑定眼の持ち主でもあるから、お宝の選別をするときには重宝してる。操舵手としての才能もちゃんとあるしな」
(……どんな人なんだろう)
 海賊のくせに、そんな乙女じみた趣味なんて。
 今まで接してきた船員たちも十分個性的だったが、またすごい人が来そうな予感だ。
「にしても、おまえ、着方が全然なってねえな。肩はズレてるし、帯はぐちゃぐちゃだし、髪もひでえし。十年ぶりに山奥から出てきた魔女みたいじゃねえか。馬子にも衣裳っていうことわざは、おまえには適用されないのか?」
「ッ……」
 アレクの遠慮のない言い方が、白雪の頬に、かっと朱を走らせる。
 わたしは東方人なんだから、西方人のための衣裳が似合わなくたって仕方ないでしょう。髪は寝起きのままだからだし。――むっとしながら思うのに、どうしてか開き直れない。仮にも女性のための衣裳なのに似合わないという指摘が、自分でも不思議なほどこたえた。
 白雪はそっぽを向いたまま、拗ねたように言い返す。
「……仕方ないじゃないですか。着方なんて全然知らないんですから」
「そういえばそうか。ドレスと一緒に、髪飾りやアクセサリも置かれてなかったか?」
「ありましたけど……もしかして、あれもつけないと駄目なんですか? 本気で?」
「通過儀礼だ。あきらめろ」
「…………」
 こちらの複雑な胸中をちっとも案じていなさそうな、にやにや笑いでいなされてしまい、白雪は肩でため息をつく。
 ここ数日というもの、思ったよりも居心地が悪く生活だったから油断していたけれど、海賊たちのノリはやっぱり苦手かもしれない。似合わないなら似合わないで、笑いをとりにいこうと思えばいいだけなのに、前向きになりきれなかった。
(別に、女らしくなりたいわけじゃないんだけど)
(そのはずなんだけど)
 白雪が女だと知っているアレクにまで、この評価なのが悩ましい。
 正直に言って気が重いが、逆らえないのなら割り切るしかないかと、キャビンボーイの個室に戻るべく踵を返しかけたとき、アレクが当然のような口調で言った。
「じゃ、髪飾りとかを持って、もう一度俺んとこに来い」
「――え?」
「着方も何もわかんねえんだろ? 仕方ないから教えてやるよ。俺のキャビンボーイが見るも無残な状態なのは、俺だって勘弁願いたいからな」



 ……奇妙な気分だった。
 母国では、巫女姫さまの世話を焼く立場だった白雪だが、身辺警護と遊び相手が主な仕事で、姫の身なりを整えるのは彼女の担当ではなかった。
 そして白雪自身はといえば、あまり着飾ることを好まず、母国ではほとんど男衣裳で過ごしていた。着たとしても、紅白の巫女装束くらいのものである。
(袴がはける巫女装束はいいけど、女房装束だと動きにくかったからなあ)
(やたら重ね着しないといけないし)
 だから着飾るという行為にも、誰かの手で綺麗にされるという行為にもちっとも慣れていない白雪には、こういう「されるがまま」の状態はひどく落ち着かない。ことにアレクは、不意打ちの悪戯が大好きな人だし。
「帯の下、ごわごわしてないか?」
「してません。……しませんから手を伸ばしてこないでください」
「胸のほうは、きつかったり――って聞くまでもねえか、そのささやかな盛り上がりじゃ」
「それ以前にサラシを巻いてますから!!」
 指示どおりに、絹の靴下や妙にふんわりした肌着を身につけ(もちろん衝立の陰に隠れてアレクの視線は遮断した)、ドレスをきちんと着せかけられ(背中のボタンを留めるついでに変なところをくすぐろうとする手を叩き落とすのが大変だった)――今は、椅子に座って、髪型を整えられている。
 アレクの大きな手で、思いもよらないほど丁寧に。
(……この人に世話されてる、っていうこと自体が、すごく珍妙な感じ)
 普段は白雪があれこれ母親じみて世話を焼くほうで、それが板についてもいたのに。
 すごく無防備になって彼に身をゆだねてしまっている気がするのが、身が縮む。
(イヤじゃないんだけど)
 緊張するのだ。
 丁寧にくしけずられて本来の艶とまっすぐな流れを取り戻した黒髪の一部が、大粒の青玉と真珠を組み合わせた飾りでまとめられ、残りは背中へとゆるく流される。「見るのは、全部できあがった後のお楽しみにとっとけよ」とアレクが言うので、始まってからまだ自分の姿をまともに見ていないのだが、自分が次第に美しく整えられていっているのは肌でわかるので、鼓動がどうにも落ち着かない。
 そう。――どきどきする。
 不思議なものだ。母国にいたときは、着飾りたいと思った記憶などないのに。
(どうなるか楽しみ、なんて)
 この船で、毎日男の服を着ざるを得ない状況になって初めて、女性らしい身なりへの憧れやそれを着る楽しみというものを感じたのではなかろうか。そう思うと、妙に気恥ずかしい。
 気を紛らわせたくて、白雪は口を開いた。
「それにしてもアレク船長、変に女性の身支度に慣れてませんか?」
「ま、いろいろあるんだよ俺も。個人的には着飾るよりは脱がすほうが好きだけどな」
「朝っぱらからそういう冗談はいりません」
「……夜ならいいのか?」
「ぎゃあ!?」
 髪に仕上げの香油をなじませるついでに、背後から耳朶に吐息を吹きこまれ、白雪は椅子から転げ落ちそうになった。
「耳弱いなーおまえ」
「よ、弱くなんか……!」
 誰だって、突然息を吹きかけられたらビビるだろう!
「まったく……。アレク船長もこの通過儀礼を受けたことがあるんですか?」
「ああ。俺んときは、黒と紅のドレスを着させられたな。未亡人風の」
「…………」
「なんかどぎつい想像をしてるみたいだが、十年以上も前の話だからな?」
 背が高く、眼帯をつけた凶悪な目つきの未亡人を想像したら、とても恐ろしい図になってしまったのは事実だ。さりとて、十二歳かそこらのあどけないアレクも想像を絶して、白雪がなんとも言えない顔になると。
「――ま、こんなもんだろ。ちょっと立ってみな」
 アレクが、ぽんと肩を叩いてきた。
 白雪は、自分でもなぜこんなと思うほど慎重に――臆病なくらいそっと立ち上がって、鏡の前に向かってみる。
「わ……」
 鏡の向こうに立つ、青いドレス姿の少女に、思わず白雪の喉から高めの声がもれた。
 さっきまでは、本来のデザインは可愛いのに白雪の着方がなっていないせいで、おかしな布の塊のように見えてしまったドレスだが、ちゃんと着れば、こんなにも優雅になるのか。自分の姿なのに別人のようだ。髪針を使って綺麗に結い上げた黒髪は上品な雰囲気で、男服を着ていたときよりも、ぐっと大人びて見えた。
 スカート部分をそっと手で押さえ、つい、酔いしれたような気分を味わってしまう。
「アレク船長、ありがとうございます」
 この船に乗ってから、アレクにこんなに素直に感謝できたことはない。白雪は綺麗にしてくれた功績者を振り返り、得意げに微笑んだのだが。
(……あれ?)
 目が合ったアレクは、なぜか、信じられないものを見たかのように動きを止めた。ついでにその表情も奇妙に強張っている。
 これなら「馬子にも衣裳じゃねえか」くらいは言ってもらえるだろうと、うっかり期待していた白雪は動揺し、濃紫の瞳を揺らした。
(そんな変な顔をされるほどひどくないと思ったんだけど……あれ?)
「アレク船長?」
 小首をかしげ、おずおずと問いかけると、アレクが急にはっとした表情になる。
 いきなり喉でも突かれたみたいにその肩が跳ね、忙しなく目を泳がせたかと思ったら、いきなり両手で白雪の頭をつかんで、黒髪をぐしゃぐしゃにしてしまった。
「わ!? ちょッ――せっかく素敵になってたのに、何をするんですか!」
「あ? いや、何って」
 やった後で初めて自分の行動に気づいたような顔をされても、何がなんだかだ。
 非難がましく白雪に睨まれ、アレクはむくれたように口の端を曲げた。
「いや、なに。ちょっとびっくりしただけだよ。だって初めてじゃねえか」
「何がですか」
「……おまえがこういうふうに、普通に女らしい格好をするのがだよ」
「……あ」
 そういえば。初めて出逢ったときは、宮司服という男物をまとっていたし。
 指摘されると、今初めて女性として彼と向き合っている気がして、それがどうしてか無性に照れくさくなる。ドレスを綺麗に着て、柄にもなく浮き立った気分の影響なのだろうか? ここしばらくですっかり見慣れてしまったはずの金髪白皙の船長が、まるで初めて逢った男の人のように見えて、白雪はうろたえた。
(女の子はみんな、綺麗にすると、こんな落ち着かない気分を味わうんだろうか)
(……どうしよう、わたしは、こんなこともわからないんだ)
 互いにそっぽを向いた不自然な状態、不自然な沈黙。
 ――波の音だけが、何も知らぬげに、舷窓の外から規則的に押し寄せている。
(ああもう、なんでこの人にこんな……)
 こんな性悪船長に、こんなに鼓動を乱されれるのか。最高に理不尽な気がするが、さりとてアレクに悪趣味なからかい方をされたときのように腹が立つわけではないから、余計に混乱させられてしまう。
 頬が熱い。
 両手で頬を押さえたい衝動。でもそんなことをしたら、顔が赤いのがバレてしまいそうだ。
 両者ともろくに身じろぎもしない沈黙を破ったのは、アレクのほうだった。金髪をがしがしとかきながら、早口に言う。
「……俺がやっといてなんだが、あんまり女らしすぎてもマズいだろ。髪型、もっと地味なのにするから、もう一度座れ」
「は、はい」
 アレクのぶっきらぼうな態度も、いつもと同じように見えて、どこかが違う気がするのは、白雪の考えすぎだろうか。
(……なんなんだろう、ほんとに)
 なんだか変に意識して、過敏になってしまって、黒髪をいじられる際にアレクの指が首筋をかすめるたびに、肩がびくついた。確かにくすぐったいけれど、さっきまでなら、たやすく無視できる程度のくすぐったさだったのに。
 いっそ普段のように変なからかい方をしてくれれば、条件反射で普段の自分に戻れる気がするのに、アレクはなぜか何も言わずに白雪の黒髪を結う作業に集中している。らしくもなく、へらず口も一切省いて。
「――ま、これなら『可愛い男の子が女装したら案外似合っちゃいました』くらいの雰囲気にはなっただろ」
 それでも性格のひねた船長は、改めて髪型を作り直すと、こんなふうに付け加えた。
「しかし化けるもんだな。突然変異したのかと思ったぜ」
「そこまで言いますか!?」
 馬子にも衣裳、よりあんまりな言いようだ。
 ――アレクの憎まれ口は実のところ単なる照れ隠しだったのだが、彼の雑言にすっかり慣らされてしまった白雪がそうと気づく由もない。
 ようやく普段どおりの空気が戻ってくると、アレクはにやりと笑った。
 その笑顔に、ひどくほっとする。
「つうか、すっかりドレスを着ちまってから大騒ぎするおまえは面白すぎだろ」
「衣一枚じゃ出てこられないから、仕方なく着ただけです」
「衣って――おまえが最初に着てたアレか? おまえそんな格好で寝てんのか」
「いけませんか?」
 微妙な顔をされると、警戒してしまう。――自分の常識と、西方の人のそれにだいぶ隔たりがあるのは、先日の下着の一件で痛いくらい思い知ったので。
 とはいえ袴の解放感に慣れているせいか、ズボンの、脚に布がぴたりと添う感覚を味わいながらでは眠るに眠れないのだ。なので、母国でそうしていたように、単を一枚だけまとって毛布にくるまっている。
 キャビンボーイ用の個室は、犬小屋並みの狭さの小部屋とはいえ船長室経由でなければ立ち入れないので、すっかり油断していた。まさかその船長室を通って、服を盗まれるなんて。
「いけないっていうんじゃねえけどな」
「けど?」
「その衣がはだけたところを想像すると、今後、隣の部屋で寝る俺の理性が試されそうだ」
 真顔で呟かれた言葉の意味を、とっさには理解しそこね――
 頭に意味がしみこんだ瞬間、白雪はアレクのわき腹めがけて肘撃ちを繰り出していた。

 これが一日の始まりなのだから、思いやられる。



2010.02.12. up.

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