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第3章 聖なる石と空の十字架




 昨日は気づかなかったが、医務室の扉には細やかな彫刻がほどこされていた。
 咲き誇る大輪の薔薇とリボン――そして海賊らしい髑髏[どくろ]が組み合わされた、禍々しくも美しい意匠だ。さらに室内を見れば、みがいた色ガラスをはめこんだり顔料で色をつけたりといった、手のこんだ細工もこげ茶色の壁や柱にはあった。
「医務室には不吉で不謹慎だから、やめてくださいと私は言ったのですがね」
「言ったって――職人さんにですか?」
「いえ、うちの船員ですよ。こういう彫刻が趣味の人がいて、気が向いたときに来ては勝手に彫っていくんです」
「趣味!?」
 白雪は耳を疑った。どう見てもこれは趣味の領域を超えているのに。
 だが、クリストファにはさして驚くようなことではないらしい。
「ええ。船旅は退屈を持て余しますから、自由時間にこうした彫刻や織物、刺青の技をみがく人は少なくないんです。専門家並みの腕がある人は、細工物を作り貯めして、寄港したときに売ってお小遣いにしてますね」
「みなさん、器用なんですね……」
 思わずため息がもれた。
 最低限の縫い物の腕などは仕込まれたものの、白雪の本質はどちらかといえば不器用なほうなので、感心もひとしおだ。それにいくら趣味でも、根気と感性がそれなり以上になくては、ここまでの装飾ができるはずはない。そこに尊敬の念を抱く。
「私などは、暇なら本を読むなどして勉学にはげんでみないかと提案しているのですが、なかなかやりたがる人がいないのが遺憾です。――さ、そこに座ってください」


 クリストファは今日も、どことなく異国風の香りのする美味しいお茶を淹れてくれた。クッキーという小石のような形をした、黄金色の焼き菓子もほの甘くて、身体の芯からほっとさせてもらえた気がする。
 これもどこぞの商船から奪った略奪品なのかな――と、先刻のアレクの発言のせいでイヤな想像をしてしまうのはさておき。
「では、単刀直入に言いますが」
 咳払いして切り出したクリストファの様子がやけに深刻そうなので、白雪もつられて肩を硬直させてしまう。
「――いえ、その前に、紳士の名誉にかけて、これは下衆の勘ぐりや各種変態的な嗜好などとはまったく無関係の、純粋に医師としてあなたを心配した上での質問だということを理解していただきたいのです」
 微妙に目を泳がせ、ちっとも単刀直入ではない前置きをしてから、ようやくクリストファは本題に入った。
「実はあなたの肌着のことが、今さら心配になったのです」
「心配――ですか?」
「あなたのために用意した服は、すべて男物だったでしょう? ですがよく考えてみれば、男装でも肌着まで男物にすることはないかと思いまして――それでアレク船長に訊いてみるよう頼んだのですが、さっきのあなたの様子だと、残念ながら、あの人は相当に無神経な訊き方をしたようですね」
「……お、お気遣い――ありがとうございます」
 他に言いようが思いつかなくて、白雪は頬の火照りをこらえて相槌をうつ。
 クリストファが医師なりに白雪の身体を(アレクのような意地の悪さはなしで)純粋かつ誠実に気遣ってくれているのは、とても嬉しい。嬉しいのだが、話題が話題なのでまっすぐに顔を見づらいものがあるわけで。
(……まさか男の人と、本気で大真面目にこんな話をするなんて……)
 母国にいた頃は想像もしていなかった珍事である。笑えるようで笑えない。
「それで、あなたは今はどうしているのですか?」
「い、今ですか?」
 白雪よりひと足先に腹をくくったらしく、クリストファは普段通りの冷静さと穏やかさを感じさせる口調で問いかけてくる。そうなると恥ずかしがっている自分のほうがみっともない気がしたので、白雪も平静を装う努力をした。
「実は、着替えのときにいただいた肌着は、腰回りがゆるすぎてどうにも着られそうになかったので……その……悪いとは思ったんですけど、サッシュを一枚それ用にしてしまいました」
「はい?」
 クリストファが本気で不思議そうな声を上げて、クッキーを割る手を止めた。眼鏡の奥で、すみれ色の双眸が戸惑いがちに瞬く。
「待ってください――白雪。私はあなたの国の衣服については詳しくないので、どうしてサッシュのような一枚布が下着になるのかが理論的に納得できないのですが」
「腰に巻いているんです」
「巻いて――まさか、それだけですか?」
「それだけですけど……え? もしかして、それだけじゃ駄目ですか?」
「駄目……といいますか」
 初めて見る、クリストファの引きつった表情に、白雪はうろたえた。
 四生嶋では男性は褌や下帯をつけるが、女性は「はいてない」のが基本だ。
 つけても、腰巻というおしりが隠れるくらいの長さの布を腰に巻きつけるだけで、袴や小袖をそのまま着てしまう程度である。いや、普通というより、異国の医師のなんとも言えない表情を見るまで、それは変なことかもしれないという意識を持ったことすらなかった。
(え……ど、どうしよう?)
(クリス先生の国では、こういうのはとんでもなく破廉恥なことなのかな)
 だとしたら困る。非常に困る。
 相手がアレクなら、何を言われても反撃してやるという意地を保てるが、この紳士的でやさしい船医にヒかれるのは切ない。
「――わかりました」
 長く考えこむような間の後で、クリストファは複雑な計算をやっと終えたかのようにうなずいた。何がわかりましたなんだろう……? と、さらに落ち着かない気分を味わう白雪からは目をそらしがちにして、黒髪の船医はどことなく悟った様子でぼやく。
「私もまだまだ見聞が足りないようですね。ひとつ勉強になりました。しかし――あなたの国の女性は、皆さん、それだけで生活に不自由はないのですか?」
「わたしは平気でしたし、他の方もたぶん……あ、でも馬に乗るときは、薄手の布で作った、裾を限界まで短くした――ズボンみたいなものをつけますけど」
「それです!」
 何が「それ」なんだろう……?
 突然声を大きくされて仰天する白雪を後目にして、クリストファは席を立つと、書き物机の脇に置かれた衣裳箱から、何やら小ぶりの布包みを持ってきた。
「私の国では女性は、あなたの国の乗馬用の肌着のようなものを着用しているんです。そちらのほうが今の服には適していると思って何枚か縫ってみたので、よければ使ってください。目測ですが、あなたの体格に寸法を合わせたつもりなので、着用できないということはないと思います」
「…………え」
 縫ったって――クリス先生が? 女性用の肌着を?
 どういう表情をしたらいいかわからなくなった白雪の前で、クリストファは早口で絞り出すように続けた。よく見れば耳が赤い。
「お願いですから何も考えずに受けとってください。この件に関しては、私もいろいろ限界に挑戦していますので」
「は、はい」
 クリストファもたいがい倒れそうな顔をしているが、先生の手縫いの……? と深く考えると白雪も倒れそうだったから、努めて心を無にして包みを受けとった。もはや、気まずいという次元ではない。アリガトウゴザイマス、とお礼の言葉が妙にぎこちなくなってしまう。
「医師として、他にもいくつか訊いておきたいことがあるんですが――いいですか?」
「はあ……」
「では、私のことは女だと思って、恥ずかしがらずに答えてください」
 そんな無茶な。クリストファに真顔で言われて、内心思わず突っ込んでしまった。
 ……それにしても。
 今までに何度も男のお医者さまのお世話になったことはあるけれど、こんなに若い男の人は初めてだから、あたりまえのはずの問診でも妙に気恥ずかしさをかきたてられる。それでも月水[つきのさわり]の話までするあたりになると、羞恥が臨界点を超えたのか、はたまた感覚が麻痺したのか、無の境地の表情のクリストファと同じくらい淡々として受け答えできるようになっていたが。
「――だいたい把握できました。お疲れ様です。では、具合がおかしいと思ったら、どんなに小さなことでも遠慮なく相談してください」
 クリストファは白雪に訊いたことを、非常に彼らしい優美な文字で羊皮紙に書きとめると、他の船員たちの記録とは別の箱に入れた。万が一にも、誰かに見られて、白雪の秘密がバレないようにとの気遣いだと思われる。
(すごく気を遣わせてしまってる……)
「ところで、アレク船長とはどうなっていますか?」
 ぎこちない空気を追い払うつもりだったのか、クリストファは微妙に答えにくい話題を振ってきた。
 白雪は迷った。
 正直に吐き出してしまうなら「最悪です」「変態です」「性悪です」「なんであれで船長なんですか」といくらでも回答(文句?)は思いつく。しかしキャビンボーイとしての生活はまだ始まったばかりなのに、早々に弱音をもらすのはためらわれた。
 あまり迷惑をかけすぎたくないという思いと、意地が邪魔をする。
(船長にからかわれるのは困るけど……)
(まだ、耐えられない、というほどではないし)
 自分に確かめる。
 アレクのことも、たぶん、嫌いという感情だけではないから。
 淹れ直してくれたハーブティーの器を手に、白雪はさしさわりのない言葉を選んだ。
「なんとかやれていると思います。船長のことは……正直、まだよくわかりませんけど」
「困らされてはいませんか?」
「え」
 思いがけず図星を突かれて顔を上げる。つと外した眼鏡を布で拭いているクリストファの瞳には、理解の色が浮かんでいた。転んで怪我をして帰ってきた子供を迎えるような苦笑いが、そこにはある。
 確かに保護されている心地がして、どきりとする。
 実の父にはあまり振り向いてもらえなかったせいか――こういう雰囲気に、白雪は弱い。
 うろたえて視線を外したのを、アレクを悪く言いたくないという彼女なりの遠慮だと思ったのか、クリストファはわかりますよというように浅くうなずいている。
「短くはない付き合いですからね。アレク船長は――控えめに言っても、あなたのような女性にとって接しやすいタイプの人間ではないことは、よく知ってるんです。お世辞にも素直とは言いがたいですし、へらず口で――いろいろと悪癖もありますし。なめ癖に噛み癖」
「!」
 ――あまりにあまりな言葉に、鼻からハーブティーが出るかと思った。
 対してクリストファは、眼鏡をさっと拭いてかけ直しながら、なんでもないことのように続けている。
「不衛生だからやめてくださいと言っているのに、動物のように傷をなめて治そうとしたり、せっかく巻いた包帯を、鬱陶しいといってガジガジと噛んで駄目にしてしまったり。それだけならまだマシなのですが、頭に血がのぼると、治療が終わってもいないのに戦闘に戻ろうとするし、実にわがままで困った患者なのですよ」
「…………ああ、そういう意味で……」
「? どうかしましたか」
「なんでもないです!」
 わたしの唇はまさか、その「なめ癖」と「噛み癖」とやらの犠牲になったのかと思い、暴れたくなってしまっただけだ。
 あまり上手とはいえない演技の咳払いをして、気を取り直す。
「でも、悪癖とは違いますけど……アレク船長って、女癖も悪そうですね」
「そう見えるのはわかりますが、意外と違いますよ」
「え。違うんですか!?」
 予想外にも、クリストファに至極あっさりと否定されたので、白雪は目をまるくした。
 アレクにあれこれ悪趣味なからかわれ方をした恨みを思い出して、ついつい引きつっていたこめかみから、思わず強張りが抜ける。
 性格はアレクと正反対もいいところのクリストファだが、付き合いはかなり長いらしく、彼のことを語る口調にはそれとなく気安さが感じられた。それは兄のようでもあり、父か母のようでもある。
「確かに顔立ちは整っていますし、船長なので金回りはいいですから、寄ってくる女性は少なくないようですけど、アレク船長は意外と控えめと言いますか――『夜の姫』などと呼ばれる専門家の方と、一夜限りの金で切れる関係を結ぶことはあっても、特定の一人にのめりこむことはしない主義のようです」
「……クリス先生、どうしてそんなに船長の事情に詳しいんですか?」
「船医は、船員の健康状態を把握するのが大事な仕事ですから」
「?」
「……そうした職業の方から『病気』をもらって、この閉鎖的な船内で広められたりしないように気を配る必要もある、ということです」
 若干言いにくそうに、クリストファ。
 遠まわしな表現を吟味して、遅ればせながら理解に至った白雪は、顔がかあっと火照るのを押さえられなかった。船医……大変な仕事のようだ、実に。
「でも意外です。てっきり船長は……その、とっかえひっかえ、かと」
「そういうふうに遊ぶには、顔やお金よりもマメさが重要なものですよ。アレク船長は基本的に面倒くさがりなので、まず無理ですね」
「……なるほど」
 散らかり放題だった船長室を思い出し、妙に納得させられてしまった。
「とはいえ――アレク船長が決まった相手を作らないようにしているのには、性格以前の問題がある気がします。ここからは私の憶測になりますが、おそらくあの眼帯が――」
 と、そこでクリストファは急に言葉を引っこめた。すみれ色の瞳に鋭い光がよぎる。
 これも医師としての勘か。妙に恋愛ネタに食いついてくる白雪に、何かを察したようだ。
「まさか、アレク船長に何かされたんですか?」
「! それ……は」
 キスのことは言いたくないので、白雪はまだマシなネタを大急ぎで探した。
「……シャツをめくって、肌を見られました」
「……言いにくいかとは思いますが、それはどの部位の皮膚でしょうか」
「わき腹を……ハンモックから落ちてできたアザを見られたときに」
「あの人は……」
 やんちゃな弟に頭を抱える兄、といった雰囲気で、クリストファがこめかみを押さえる。
「訂正させてください。アレク船長は、女癖は悪くありませんが、若い女性に対して無神経すぎるところはあります」
「もしかして、無神経なせいで女性にふられてるだけなんじゃ……」
「その可能性は大いにありますね。女性に特別に気を遣うより、船員たちと気の置けない付き合いをしたいと思っている人ですから。要するに、まだ子供なのでしょう」
 澄ました顔をして、意外にズバッという船医だ。
 つられて白雪も、遠慮をどこかに置き忘れた発言をしてしまった。
「口も悪いですしね」
「アレク船長はたぶん、この船で一番、罵詈雑言のボキャブラリーが豊富でしょう」
「そんな気がします。どうしたらあんなふうに次々に、可愛げのない科白が思いつくのかって感心するくらいで――」
 少しだけと思いつつ文句と恨み言もこぼしたとき、急に入り口の扉が開いた。
「ほう。誰の悪口合戦だ? ――俺も混ぜてくれよ」
「……ッ!!」
 すっかり聞き慣れてしまった感のある船長の声に、白雪はカップを取り落とした。
 平和な時間の終わりを告げる声だった。



2010.01.30. up.

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