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第3章 聖なる石と空の十字架




 明るすぎて白っぽく見える太陽が、白雪の頭の真上を通り過ぎようとしている。

 まぶしいのをこらえて見上げると、甲板とマストの帆桁、及び要所要所に設けられた見張り台や戦闘檣楼[ファイティング・トップ]などは、互いに縄ばしごやロープで結ばれていた。船員たちはこれを伝ったりよじのぼったりして、見張りや帆を張る作業をするのだという。
 タールが塗られた縄ばしごを握ってみると、予想以上に頑丈そうで、少し緊張と不安がやわらいだ。白雪の体重の倍はありそうな男たちの重みにも日々耐えているだけある。
(……これなら、途中でぷっつり切れたりはしないだろうな)
 よし。さっさと済ませてしまおう。
 船長への「届けもの」を背負うと、白雪はさっそく黒っぽい縄をつかんだ。
 だが脚を持ち上げる前に、慌てた様子の赤髪の海賊に、首根っこをつかんで引き止められてしまう。
「待て待て、ちびすけ! 昇る前に風を見やがれ。こういうのは風上側から昇るんだ」
「風上――ですか?」
「要するに、風を背中に受けるようにして昇るんだよ。そうすりゃあ、身体が自然と梯子に押しつけられるから、落下する可能性が減るってモンだろ? 逆に腹から風を受けてっと、ちょっと油断しただけで海にドボンだ。海ならまだ救いようがあるが、甲板に落ちようもんなら打ち所が悪くて死ぬこともある」
 ――なるほど。
 豪快なだけに見えて意外に親切な男に好感を抱きつつ、うなずくと、機嫌のいい獅子のように笑った彼にわしゃわしゃと頭を撫ぜられた。
「おう、いっぺんでわかったか? 賢いなぁ、ちびすけ」
(その『ちびすけ』は、なあ……)
 微妙な顔になってしまう。そんなに小さくないと言い返したくなる。頭ふたつ分くらい大柄な相手に言っても、一笑に付されてしまうだけだろうが。
 ともかく気を取り直して、白雪は、風上側から縄梯子にとりついた。
 思い出すのは、鍛錬のときのこと。
(――こういうときのコツは)
(下を見ないことと、体重移動を意識することと、三点の確保、あとは……)
 足を置いてから、手を動かす。
 手足の4本のうち、必ず3本は何かにつかまっていれば、そうそう落下しない。
 ――もちろん状況によっては、そんな悠長なことも言っていられない場合もあるし、侵入忍務に特化した忍びの中には、腕一本、あるいは指一本で身体を支えられる剛の者さえいるが、もちろん白雪はそこまでではない。
(姫様の護衛だけなら、屋根に登れるくらいで事足りたからな)
 まぶしさで目をやられないように気をつけながら、黙々と上の縄をつかむ。
 事前に手のひらから手首までに布を巻いておいて、正解だった。タールで結構汚れる。
 はるか下の方からは、昼食の肴に新入りの挑戦を眺めている海賊たちからの、はやす声が聞こえていた。
「よーしその調子で行っちまいな、小猿!」
「そうだ小猿! おれの小遣いのために頑張れ!」
(小猿もちょっと、いやかなりうれしくないんですが……!)
 褒めてくれるのはうれしいが、17歳の娘として、猿呼ばわりはさすがに切ない。
 途中で風の吹く方向が変わって、ひやりとする瞬間もあったが、どうにか見張り台の底が見える場所までたどりついた。さて、ここからどうしよう――と思ったら、底の一部が突然ぱかりと開いて驚く。
「お、来たな? こっちだこっち」
「――アレク船長」
 すでに聞き慣れた感のある声に(不覚にも)ほっとしてしまいながら、よじ登って穴から見張り台の中にひょいと顔を出すと、金髪の船長がにやりと笑って待ち構えていた。いいというのに白雪を強引に抱えて引っ張り上げ、穴の蓋をかっちりと閉じ直す。
(これが見張り台)
 甲板から見上げたときは随分と小さい籠のように見えたが、実際に入ると、人が三人くらいは無理せず座れるくらいの広さはある。メインマストの頂点に近いだけあって眺めはよく、何にもさえぎられずに蒼海を見渡せるが、風と日差しが肌に痛みを感じるほど強いのが困るかもしれない。一応、日射病防止のためらしく、簡単な屋根はついているのだが。
 と、頭にぼふりと何かが乗せられた。
 帽子だ。
 といっても、この前かぶせられた華やかな船長帽ではなく、つばの広い麦わら帽子である。白雪にはかなりぶかぶかなので男物のようだが。
「おまえ用だ」
「わたし?」
「日差しがきつい時は、焼けねえようにかぶってろよ。せっかくの色白がもったいないだろ」
 びっくりしている白雪を置いて、アレクは見張り台の縁から身を乗り出すと、はるか下方の甲板に向かって大きく声を張った。
「見たな、野郎ども! 新入りの小僧、『登り』は文句なしで合格だぜ――――ッ!!」
 おおー! という歓声と、あ〜! という愁嘆の声が合わさって響いてきた。
 思わず甲板を見下ろして、予想を上回る高さ――男たちが豆粒に見えることに、白雪は氷の塊を背中に押しつけられたような気分を味わう。固まりながら、どうにか縁を離れて、見張り台の真ん中に後じさり、ほうっと息をついた。
(他の忍びの皆は、こんな場所でも平気で戦ってたんだろうか)
(わたしには……真似できないかもしれない)
 視線に気づいて顔を上げると、アレクと目が合う。
 細められた隻眼と口角の上げ方にからかいの気配を察し、白雪はそれを封じるべく、先に口を開いた。
「登り『は』って?」
「こういうのはな、降りる方が厄介なんだ。つい下を見ちまうからな。たぶんおまえが降りる時には『一人じゃ降りられない』方に賭ける奴のが多いと思うぜ」
「……そう言われると、意地でも降りてみせてみたくなります」
「その意気だぜ、頑張りな。俺はもう『一人で降りられる』方に賭けてっからな」
 にっかりと歯を見せて言われて、何か意外な気がしてします。
「嘘でしょう?」
「そんなつまんねえ嘘おまえについて何になる。姫様を護るのに鍛えてきたんだろ?」
「そう……ですけど」
 おまえならできる、と励まされているのだろうか?
 素直に受けとめられずに眉根を寄せてしまうと、アレクはにやりと口元をゆがめた。
「それに、俺の舌に噛みつく度胸があるんなら、この程度は大丈夫だ」
 ――またそういうことを!
 色めいた冗談にかちんと来つつ、白雪は背負ってきた布袋をアレクに押しつけた。
「おう、ご苦労」
「じゃ、用は済んだので――」
 失礼します、そう言ってさっさと先刻の穴から降りていこうとして、麦わら帽子の礼を伝えそびれていたことを思い出す。アレクが感謝を強要している態度ではない分、もらった直後のタイミングを逃してしまうと、妙にこちらから言い出しにくい。
 物言いたげな瞳で見上げてしまった白雪に、何も気づいていないのか、アレクはいつもの人の悪い笑みを浮かべて彼女の腕をつかむ。
「即座に回れ右することもないだろ。せっかく昇ってきたんだから、ゆっくりしてけ」
「――で……も、新入りがこんなところでゆっくりしてたら怒られるのでは」
「どうせおまえのいる班は、午後は休みだ。下の連中には、俺から『見張り台で新入りに指導する』って言ってあるしな」
「また用意周到な――って、ちょッ!?」
 ちょっと苦々しく思ったところで、いきなり無造作に腰を抱き寄せられて顔が引きつる。
「狭いから、こっち来い」
「だからって――ど、どうしてあなたの膝の上に座らなきゃならないんですか!?」
「細かいことは気にすんなよ。よしよしって撫でてやるから」
「ちっとも細かくないし撫でられたくもないんですが!!」
 激しい闘争の末に、アレクの隣に座ることで落ち着いた。というより、なぜ最初からこうならなかったのかがわからない。
(疲れる……)
 津波が押し寄せるように疲労感に襲われ、白雪はため息を隠せなかった。無駄に自然に首に巻きついてきたアレクの腕を押し戻すのは、とりあえずやめておく。連続して激しい闘争を繰り広げる気力がなかったし、この男がもっと変なことを仕掛けてきたときに用心して、体力を温存するほうがいい気がしたので。
(……それに)
 他の、白雪が実は女だと知らない船員たちからのスキンシップに比べれば――アレクのそれは、なんというか――気は楽なのだ。他の船員には、過剰反応したら不自然かと思うと身を硬くするしかないが、アレクは殴り倒せばいいわけで。
 白雪を確保していないほうの手で、手遊びに望遠鏡をいじりながら、アレクが言う。
「で? どうだったよ、午前中は。さっそくヴィンスといちゃいちゃしてたって?」
「いちゃいちゃ……?」
「ケーキで餌付けされてたって、話題になってたぞ。可愛い子には俺も餌付けしたかったぜよ〜とかバージルが馬鹿言ってやがったし」
「失礼かも……というか正直失礼だとは思いますけど、バージル副長は本当に変態的な何かではないんですか? それにどうしてそんなことが話題に」
「気づいてねえのか? おまえはかなり野郎どもに注目されてるぜ。シマリスの子供みたいに可愛いって」
「シマリスの子供……?」
 リスは大人でも相当小さいと思うのだが、さらにその子供って。そんなにわたしは小さいかと、白雪はそろそろ憮然としてきた。
 この船の中で飛び抜けて小柄なのはわかっている。わかっているが――「小さい」と何度も言われると、小さくて・子供で・使えない・という後ろ向きな言葉を連想してしまい、あまりご機嫌になれない。考えすぎなのは自覚しているが。
 と、いきなり鼻をつままれた。
「しかめ面してんなよ。別に船乗りん中じゃ、小さいってことは悪くねえぞ」
「そうは思えませんけど……」
「確かに力仕事にゃ向いてないかもしれないが、あんま天井が高くねえ船ん中を動き回るのにはちっこいほうが得なんだぜ? 俺はギリギリなんとかなってるが、中には年中、頭を天井にぶつけてる野郎もいるし」
 さっきの、赤髪の海賊が頭をよぎる。
 彼はアレクよりさらに頭半分以上は大柄だったなと思い、アレクに名前を聞いてみようかと思いついたが。
(いや、その前に――お風呂のことを)
 相談しなくては。それが一番問題だ。
 はたと思い出して口を開くよりも早く、アレクが言葉を継いでいる。
「ってなわけで背は気にすんな。でもおまえ、ときどき内股になってたから気をつけろよ」
「う……気をつけます。そんなに目につきましたか……?」
「他の奴らは多分気づいてねえだろうけどな。俺は横揺れでずっこけて壁に激突してるのも、洗濯のときに派手にすべって転んでるのも見てるぜ」
「な、なんでそんなところばっかり見てるんですか」
 顔が火照る。恥ずかしいさと八つ当たりじみたものが混ざった気分でうなると、不意におとがいをつかまれた。そのまま、ぐいと上を向かされれば、青い隻眼とぶつかる。まだ生々しい記憶が唇に甦って、即座に振り上げた拳は、彼の手のひらに受けとめられてしまう。
 たしなみを捨てて、舌打ちしかける。
 間近に、獲物を見つけた狼に似たアレクの笑み。
「おまえから目が離せないからだよ、小さなお姫様」
 表情の反して奇妙に甘やかに囁かれて――風が止まり、太陽が遠のき、すべての音が消えたかのような沈黙が生まれた。
 ややあって白雪は、まるでほとんど空の皮袋から葡萄酒[ワイン]を絞りだすかのように問いかけた。
「そんなにわたしが信用できませんか」
「……なんだと?」
 アレクが露骨に眉をひそめる。
 悔しさと、少し寂しい気持ちを隠して、白雪は訴えるように続けた。
「確かにわたしは、あなたから見たら未熟で頼りないでしょうし――いつボロを出すか心配なのはわかりますけど。わたしも命がけで頑張ってるんですから、もう少しくらいは信じてもらえませんか。たとえバレたとしても、あなたとクリス先生には迷惑がかからないようにしますから――……ってアレク船長?」
「…………」
 金髪の海賊は、なぜかがっくりと肩を落として、「……そうじゃねえだろ」とぼやき、盛大にため息をついている。落胆しているようだが、白雪に、ということではなさそうで不可解だ。
 何度も瞬いてしまう白雪を後目に、アレクは遠くを見る目でぼやいた。
「しばらく寄港しねえうちに、俺の舌も錆びついたか」
「……は?」
「まーその鈍感さなら、何かあっても大丈夫だな……いや、逆にマズいっつうこともあるか」
「ひとりで会話しないでください船長」
意味不明だが「鈍感」というのはわたしのことか?
とそこだけは理解して、微妙な顔になる白雪の頭をアレクがぽむぽむと叩く。
「でっかい独り言だ、独り言。忘れろ。それよか飯にしようぜ。おまえも腹減ったろ?」
(……ごまかしてる)
 最初からそういう指示がされていたらしく、白雪の背負ってきた包みの中には、ちゃんと二人分の昼食があった。ビスケットとチーズとかいう白雪には見慣れない保存食に、塩漬けの乾し肉。真水が半透明のガラス壜に詰められている。
 意外とまずくはないが、質素だ。下っ端も下っ端の白雪には十分すぎるほどでも、この船の幹部が食べるものとは思えないが。
「船長でも食事はこんなものなんですか?」
「例外はあるが、昼はだいたいこんなもんだ。朝と夜はもっと食うけどな」
「朝ごはんで食べたケーキは美味しかったです」
「気に入ったか」
「はい」
「あのケーキ、たぶんこの前襲った船から奪った小麦粉とか砂糖が使われてるぜ」
 白雪をとても微妙な気分にさせた後で、アレクはにやりと笑って付け足した。
「ま、でも美味いもんに罪はねえからな。グラティザンに着いたら、美味いケーキを出す店に連れてってやろうか」
「本当ですか!?」
 白雪は思わず声をはずませた。このときばかりは性悪船長が神に見えた。
「……色気より食い気ってことか」
「? 何か言いましたか?」
「いや別に。昨日よりだいぶ元気になったなって言ったんだよ。昨日は――」
(昨日は?)
 とそこで急に言葉を切り、アレクが立ち上がる。
 隻眼から放たれる視線で立つように促され、白雪はパンのかけらを急いで飲みこんだ。
 隣に並ぶと、見張り台の向こうに広がる、魂が吸いこまれそうに深い青が視界を支配する。
 空の青と、海の青。
 目をこらせば水平線が見つかるし、色の違いも把握できるのだが、感覚としては青一色に支配されているも同然だ。波と風は今のところ穏やかなのに、肌を蝕むような不安と孤独感を覚えてしまうのは、白雪が遠洋に慣れていないせいだろうか? 故郷では陸地を見失わない距離までしか船で移動したことがなかったなと、今さら思い出す。
 吸いこまれかけた視線を力ずくで引き戻し、まず自分の手を、それから隣に立つアレクの姿を見ると、異常なほどほっとしてしまった。
「どっちが北かわかるか?」
「昼の太陽がこっちだから――……だいたい反対側ですか?」
「お。やっぱりおまえ、意外に物を知ってるな。――昨日のおまえは、こんなふうに俺が海を見てたときに、そのへんの海の上に浮かんでた」
 そのへん、と指さしたのは、船の後ろに引かれた白い航跡から、少し横に外れたところだ。
 救助された後のことは思い出したくなかったので、話を続ける。
「見張りって、船長がするものなんですか?」
「普通はそうでもねえな。本当は、指示をするのに都合のいい場所にいるべきだ。とはいえ俺にも、一人になりたいときはあるからな」
 意外な繊細さを感じさせる心情の吐露に、白雪はアレクの横顔をじっと見つめた。
(一人に、なんて、似合わないと思うけど)
 でもよく考え直せば、開けっぴろげで誰にでもじゃれつくバージル副長に比べれば、アレクはどことなくクールだ。フィロほど仲間たちに無愛想でそっけないわけでも、冷たいわけでもないが、さりげなく線を引いている部分があるような。
(眼帯も、そういうこと?)
 長い付き合いの船員ですら見たことがないという、彼の左目。
 漆黒の眼帯を見つめているうちに、なぜか頭の中で、アレクの横顔と父の面影がだぶった。
(……あれ?)
 全然似ても似つかないはずなのに――どうして。
 内心ひそかに、だが強烈に戸惑っていると、陸はおろかか船影のひとつも見当たらない四方の海を見渡していたアレクが、おもむろにこちらを振り返った。突然のことに思わず鼓動を乱され、白雪はつい目をそらす。
「っつっても、今は一人きりじゃなくて、二人きりだったな」
「……そういう、変な言い方をしないでください」
「変だって思うほうが変じゃねえか?」
 神経を逆撫でする、憎らしい切り返し。
 それだけで済まないのがこの性悪船長らしいと言うべきか――思いっきり厭な顔をした白雪の腕を構わず引いて一緒に座らせると、強引に抱き寄せた。乾ききった柱に白雪の背を押しつけ、彼が覆いかぶさる形になる。驚くほどなめらかに行われた体勢の変化と、それに抵抗したはずなのに何も効果がなかったことへの悔しさが、白雪の胸を抉る。
「アレク、船長」
 刺すように睨みつける白雪の視線や、彼女が立てた爪が腕や肩に喰いこむ痛みなどは、毛ほどでもないとでも言いそうな笑いが業腹だ。
「ここはある意味、船長室より人目につかないからな。なんだってできるぜ?」
 ――まさか本気とは思えないが、ぞっとしない響きの言葉に、肌が本能的に震える。
 だって、よく考えればそうなのだ。
 白雪は、女だとバレて船を放り出されるわけにはいかない。アレクは彼女の最大の秘密を握っている。白雪がそれを盾に辱められたとしても、泣き寝入りするしかない。
 秘密を知るクリス先生に相談? ――できるはずがない。
 したところで、あのやさしい船医を困らせるだけで、そんなのは白雪のほうが御免だ。
 しかし生来の意地っぱりな性格のせいで、彼に泣きついて「それだけは――」などと許しを乞う気には到底なれず、白雪は精一杯低めた声で突っぱねた。
「甲板が、血で染まるかもしれませんよ」
「船長にそんなことして、おまえが無事でいられると思うのか?」
「……卑怯者」
「なんせ海賊だからな。欲しくなったら奪うだけだ」
 本気の脅しとは思えない――が、何もせずに解放してもらえる気もしない。
(来るなら……こ、来い)
 絶対にお望みどおりの反応なんか与えてやるものかと、刺し違えるかの如くアレクの隻眼を睨みつけてはみたものの、じわりじわりと唇が重なる寸前まで顔を近づけられると、何かに耐え切れなくなって、不覚にも、とっさに目を閉じてしまった。
 が、予想に反して、いつまで経ってもあの――以前無理やりに教えられた口づけの感覚が押しつけられてこない。それどころか、捕まれて鉄枷をはめられたように動かなかった腕が、ゆっくりと解放されていく。
(やる気をなくした……?)
 気をゆるめかけた瞬間、ふっ、と耳朶に息を吹きかけられた。想定外の攻撃に身がすくむ。
「ひゃう!?」
「はい俺の勝ち」
「……あ、あなたまたからかって……ッ!」
「だっておまえってなんか小突き回したくなるっていうか、苛めたくなるっていうか」
「人のせいにしてませんか、その言い方は!?」
 こめかみで何かが切れる音を聞いた気がした。
 長身の下から即刻抜け出て、解放された手で思いっきりアレクのみぞおちを殴りつけて(攻撃を読んだ彼に腹筋を固められたので、大した衝撃は与えられなかったと思うが)、白雪は今度こそ荷物をまとめて下に降りようとする。
 底の蓋を開けたところで、思いついたように呼びとめられた。
「おまえ、下着はどうしてるんだ?」
「……………………は?」
 本気で耳を疑った。
 アレクはものすごく気の進まなさそうな顔をして、そのくせ言葉を止めずに言い放った。
「何度も言わせんな、下着だ下着。ズボンの下に何をはいてるのかって訊いて――」
 ――今度こそ白雪は、遠慮なくアレクの横っ面に平手打ちをくれて見張り台を後にした。
「待て! 誤解すんな、俺はただ――」とかなんとかいう声は聞こえたが、綺麗に無視して甲板に下りる。
 結局風呂の件を相談できなかったという後悔は残ったが、怒り心頭に発していたお蔭で、下を見たら怖いだの風が怖いだのは、すっかり意識の外だったことだけは幸運だった。
「おう、帰ったなちびすけ!」
「よくやった、大穴に賭けた甲斐があったぜ!」
 待っていたのは、赤髪の彼をはじめとする船員たち(と、ついでに暇な副長)の、手荒いが愛情の感じられる歓迎と――
「――クリス先生!」
 今度こそ心の底からほっとできる、船医の姿だった。
 安心しすぎて背骨が抜けたように脱力しかけ、クリストファに驚いた顔をされたので、慌てて膝に力をこめ直した。
 おっとりして見えるほど穏やかな笑顔が、白雪に向けられる。それだけで癒される。
「今日逢うのは初めてですね。おはようございます。昨日はちゃんと眠れましたか?」
「はい!」
「ハンモックから落ちたアザは大丈夫ですか」
「! どうしてそれを――」
「アレク船長に頼まれたんですよ。痕が残らないようにしてやってくれと」
 クリストファにさらりと言われて、一瞬言葉を失う。海賊船では浮いて見えるほど、誠実や公正という言葉を連想させるこの黒髪の船医が嘘をつくとは思っていないし、ついて意味のある嘘でもないが、一瞬信じられなかったのだ。
 痕が残らないように。それは、白雪が女だからだろうけれど。
(あの人は……意地悪なんだか、やさしいのか、さっぱりわからないな)
 ため息が出る。
 するとクリストファは、かすかに眉根を寄せた。何かを察した様子だ。難しい患者を診る医者の目ともいえる。
「上で、アレク船長から何か言われましたか」
「…………変態的なことを言われたので、殴ってきました」
「……それは、もしかして下着のことですか?」
 急に内緒話のように声を低めたクリストファに、しかも白雪の国の言葉で囁かれ、白雪は息をのんだ。思わず周囲の目線を気にしてから、同じように、相手にだけ聞こえる小声の母国語で答える。内心、これは船医との密談に使えるなと思いつつ。
「どうしてわかったんですか?」
「いえ、まあ――しかしその様子だと、アレク船長は失敗したようですね」
 ――失敗?
 わけがわからず首をかしげる白雪の手を、まるで童話の騎士が姫君にでもするような仕草でとりかけ、クリストファは寸前で我に返ったようだ。一瞬動作を止め、それから、ややぎこちなく彼女の背に手を置いた。
「とりあえず、私の医務室へ。話はそれからにしましょう」



2010.01.17. up.

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