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第3章 聖なる石と空の十字架




「アレク船長。お水をくんできましたから、起きてください」
「……あと5分」
「『ごふん』ってどういう意味です」
「うわおまえの国、もしかして時間の単位からして違ったりすんのか? めんどくせえ」
「面倒くさいのは、あなたのほうでしょう。さっきもウダウダ言って起きなかったじゃないですか、いい加減にしてください」
「……知ってるか? 船長におはようのキスをするのも、キャビンボーイの仕事で」
「朝からバレバレの嘘で人をからかわないでください!!」
「うお!?」
 ぷっつん、とこめかみで何かが音を立てると同時に、吊り寝台へと拳を振り下ろすが、憎らしいことにアレクにはかわされてしまう。……この船長が目つきも性格も悪いのはもうどうしようもないことで、キレたら負けだと頭ではわかっているのだが、つい声を荒げてしまう自分の未熟さがうらめしい。
「っあー……ねっみー」
 寝起きのアレクは、普段の倍は目つきが凶悪だ。金髪を無造作にかき回しながら、ようやく毛布の下から抜け出し――
 朝の陽光に照らしだされた彼の姿に、白雪は再び絶叫するはめになった。
「なッ、なんで裸で寝てるんですかあなたは!?」
「あ? ……下ははいてるだろ?」
「上も着てください!」
 昨日たたんでおいた白木綿のシャツを、アレクの顔めがけて、ばしっと投げつける。
 今うっかりばっちり見てしまったものを忘れようと、白雪は真っ赤な頬を押さえて心頭滅却[しんとうめっきゃく]した。本当に、初めて逢ったときから信じられないことばかりする男だ!
 アレクは素直にシャツに袖を通しながら、そんな白雪を珍獣でも見るような目で眺めている。
「男なら裸で寝るくらい普通だぞ。おまえの国の男はしないのか?」
「そんなことしません絶対に」
 白雪は、こめかみを引きつらせて切り返した。
 異性の寝姿を見る機会などあまりなかったが、少なくとも父は絶対にしなかった。そんな隙だらけで破廉恥[はれんち]なかっこうで寝るなんて。
「東方人って、ほんとに真面目なんだな……。俺の国じゃ、全裸で寝る奴だっているんだぜ」
「それこそ信じられません」
「だったら今度バージルの寝こみでも襲ってみろよ。あいつはよくぶらぶらさせてっから」
「ぶ……!」
 あまりにお下品すぎる発言に、一瞬、本気で思考回路が止まった。
 アレクはにやにやと意地悪げに笑いながら、白雪の動揺ぶりを吟味している。最低だ。さっきの王子様みたいなヴィンス――ヴィンセントの典雅さと、あまりに落差がひどくて、白雪はやるせなかった。
 今日がキャビンボーイの仕事の初日なのだが、これに慣れることができるのか。
 根がまじめなせいで深刻に考えこんでいるうちに、つい口の端から愚痴がこぼれた。
「……どうしてあなたみたいな適当な人に、クリス先生やヴィンスさんみたいな人が従っているのかわかりません」
「ん? なんだおまえ、もうヴィンスにも会ってたのか」
「ついさっき、廊下で、道を教えてもらいました」
「ってことは、また迷子になりかけたのか」
「う……」
 語るに落ちるとはこのことだ。すかさず「やーい迷子」と悪ガキみたいにからかってくるのが腹立たしくて、白雪は口をへの字に曲げる。
「ま、そいつはいいとして。確かにヴィンスの野郎は女心をくすぐるツラをしてっけど、だまされないほうがいいぜ? あいつだって海賊だからな。普段は優雅で王子様みたいにカッコつけてても、実は結構――いや、俺の口から言うのはやめとこう」
「気になるんですけど」
 アレクの意味深な言いように、白雪は眉間を狭めた。――この金髪・隻眼の海賊よりも中身がひどい人がいるとは思えないのだが。
 彼女の内心のたいへん厳しいツッコミには気づいていない様子で、アレクは肩をすくめる。
「どうせ俺が今説明してやったところで、おまえは信じやしねえよ。どうせ同じ船で暮らしてけば、すぐにいろんな面を見るはめになって、イヤでも理解するさ。それより白雪――俺のサッシュはどこにしまったんだ?」
「……そこの引き出しの、上から三番目です」
「ここか――うお!? 凄まじくきっちりたたんだな、おい。俺の部屋とは思えねえぞ」
 昨日までは洗濯から上がったまま籠に放りこまれてあった衣服が、まるで店で陳列されている売り物のようにきっちり分類して仕舞われているのを見て、アレクは驚きと感心の声を上げている。それだけ驚いてくれれば、片づけた甲斐はあるなと白雪は思う。ひどく散らかっていた船長室が我慢ならず、白雪は昨日、午後の大半を使って徹底的に掃除したのだ。
 ……さすがに下着らしきものはさわれなくて、籠の中に放置したままなのだけれど。
(こんな男の…………男の、なんて、さわれるわけが……!)
 男のフリをすると覚悟を決めても、そこはちょっと割り切れない部分であった。
 アレクはあざやかな緑色のサッシュを選びだすと、ひゅうと口笛を吹いた。
「しっかしよくやるなあ、おまえ。片付け魔か?」
「あなたがだらしなさすぎるだけでしょう」
「なかなか言うな、おまえ」
「言いたくもなります」
 アレクが抜け出た後の寝台を、やはりきっちりと整えながら、白雪はすげなく答えた。
 身の回りをいつも整理整頓して、必要なときに必要なものをすぐに取り出せるようにするのは、忍びの者の基本中の基本だ。そうしなければ、不測の事態に対応できないではないか。
 それに白雪個人としても、けばけばしい化粧や装飾品で飾ることには気後れしてしまうが、きちんと清潔にしておくことは好きだった。……頭領の一人娘として、他人に見苦しいところは見せたくなかったし、見せられなかったという事情もあるが。
「俺の短剣はどこだ?」
「寝台の脇ですよ」
 アレクに訊かれるまま、着替えや小道具の場所を教えていく。
 穏やかな時間だと思った。
 若葉色の窓掛けでおおわれた窓の向こうからは、波と風の音が絶えず聞こえてくる。今日は昨日よりも、風が強いようだ。
 強い風にあおられて、このオライオン号はどんどんと白雪の母国からは遠ざかっているのだと――つい、考えがそこに行きそうになる。どうしても生まれる寂しさ・心細さは、朝の軽い掃除に専念することで追い払うことにした。
「おい白雪、タオルはどこだ?」
「たおる」
「こう、ふわっとした肌ざわりの、顔とか身体を拭く布だよ」
 やっと顔を洗う気になったのか。
 まだ寝ぼけ顔のアレクを部屋の隅の洗面台に向かわせて、白雪はタオルを取りにいった。
(……そういえば姫さまは、朝の[みそぎ]が苦手だったな)
 巫女姫の朝は、禊で始まる。
 女官たちに総がかりで、特別な香草湯と香油を使って身体を清められるのが、朧姫にはどうしても居心地が悪かったようだ。女官たちの隙をついて、よく逃げ回っていた。かくれんぼの得意な巫女姫さまを探すのは、白雪の役目だった。身を隠すことにおいて、忍びの者に勝てる人間はそういない。
 思い返せば、知らず、表情がやわらかくなった。がんばろう。そう思い直す。
 相手がこの性悪海賊というのは業腹だが――こうして人の世話をすること自体は悪くないとも白雪は感じていた。朧姫のことを思い出すよすがになる。
(タオルというのは……これかな)
 窓辺に並べられた物入れの中から、母国では見たこともない風合いと感触の布を引っ張り出して、洗面台へと向かう。
 洗面台といっても、濃い色の頑丈な木でできた物入れの上部に、洗面器をはめこむくぼみを作っただけの簡単な代物だ。そこでざぶざぶと顔を洗っているアレクの背中に「あの、タオルってこれでいいんですか?」と問いかけると、彼ははっとしたように手を止めた。
 そして、なぜだか、気まずそうな沈黙が生まれる。
「…………」
「……アレク船長?」
 ぱちくりと瞬いて、白雪が再度、金髪の海賊に呼びかけてみると。
「……くれ」
 アレクはこちらを不自然に振り返らないまま、片手だけを後方に突き出してきた。
 引っかかりを覚えたが、白雪は迷ったあげく、何も言わずにその手にタオルをのせた。
「ん。ありがとな」
「タオルというのは、それでいいんですか?」
「正解だ。おまえも顔洗うか?」
「わたしはもう洗ってきました」
「ああ、ろ過装置のある部屋に行ったんだったな。どうだ? おもしろかっただろ」
 そんなふうに話しかけてくるアレクは、すでに、いつもどおりの口調だ。
 結局アレクがすべての動作を不自然に止めたのは、三つ数えるよりも短い間のことだったのだが、白雪には妙に印象に残った。ものすごく迷っているか、困っているかのような雰囲気は――少しは気を遣ってくれてもいいだろうと言いたくなるほど言葉に遠慮のない彼には、ひどく不似合いだった。
(どうしたんだろう……わたし、別に変なことは言わなかったよな?)
 現時点では特にキャビンボーイの仕事もないので、そのまま、顔のついでに髪までぬぐっているアレクを見つめて考える。
(……もしかして……顔を見られたくないのか?)
 そういう風に見える。
 だが一体どうして、と再び首をかしげたときに、それが白雪の目に入った。
 ――漆黒の眼帯だ。
 寝ているときも装着していたそれを、アレクは今は外して洗面台の端に引っかけている。
(ということは、今は、まったくの素顔?)
 もしかして。と、白雪はひとりで静かにうなずいた。
 素顔を見せたがらないということは、外傷のせいで潰れているのかもしれないない。
 納得のいく推理はできたが、同時に、なぜだか複雑な気分になる。
(左目がないのか……。右目は、とても綺麗な青色なのに)
 性格も目つきも寝起きも悪い男だが、瞳だけは文句のつけようもなく綺麗な色合いを持っていると、白雪は思うのだ。
 空の青と海の青、両方の美しさを混ぜたみたいで、宿る光も強く深く――口が裂けてもアレク本人には言えないが、抗いがたい魅力があると思う。
 だからか、もったいない気がしてしまった。海の男に怪我は付き物なのだろうけれど。
「――おい、白雪」
「はい?」
 物思いにふけっていると、眼帯をきっちり付け直してから振り返ったアレクに、ちょいちょいと手招きされた。
 白雪が「キャビンボーイの仕事かな」と思って近づけば、アレクは「ちょっとこっちに背中を向けろ」と、よくわからないことを言い出す。
「なんですか一体――……うわぁあああああ!?」
 怪訝に思いながらも従ったら、いきなり、シャツを後ろから「ぴろっ」とめくられた。
 素肌が朝の空気にさらされる感触に飛び上がり、白雪は振り向きざま、アレクに向かって鋭い肘撃ちを繰り出す。
 本気であごを撃ち抜いてやるつもりだったのに、またしてもあっさりかわされてしまい、くっと唇をかんだ。――さっきもそうだが、憎らしいほど反射神経のいい男だ。おまけに、悪びれもせずに、こんなことまでのたまう。
「色気のねえ悲鳴だな」
「色気があったら逆に問題でしょう!? わたしは『男』なんですから!」
「まあな。でも俺と二人のときなら、いくらでも女っぽく可愛くしてくれていいんだが」
「全力で遠慮します!」
「照れるなよ。――ところで腰のアザ。おまえ、やっぱりハンモックから落ちたか?」
「……う……」
 にやりと笑って指摘され、白雪は顔を引きつらせる。そのとおりだった。
 ハンモック――不安定で、波のリズムに合わせて絶えず揺れる布製の寝台は、白雪には初めての経験だった。なかなか身体がなじまなくて、何度も床板の上に落っこちたのである。忍務[にんむ]の際に木の上で仮眠をとるはめになった経験はあるが、それよりも難儀[なんぎ]だった。
「ま、俺も昔、船に乗りたてほやほやの頃は何度も落ちたもんだ。ハンモックの上に乗っかるのも大変だったろ?」
「……何度も失敗しました」
 正直に白状する。ぴょんと跳んで昇ろうとしては、勢い余って反対側に落下した。
「今夜コツを教えてやるよ。いや――なんなら、俺のベッドで寝るか?」
「絶対にイヤです」
「なんでだ。ハンモックよかだいぶ上等だぞ」
「そんな危ない真似をするくらいなら、床の上で寝たほうがマシです」
「おいおい、誰が一緒に寝ろっつったよ。俺は適当にそのへんで寝るから、おまえがあの吊り寝台を使うかって言ってんだ」
 恩着せがましくするでもない、ごく自然な口調で提案されて、白雪は面喰らった。
 ――この、金髪の海賊。
 腹立たしい科白ばかり連発するくせに、ふとした瞬間に、こんなふうに無造作な気遣いを見せるアレクが、ときどきわからない。戸惑うし……素直にありがとうと言えなくて困るではないか。白雪は、目を泳がせた。
「……どうして急に、そんな親切なことを」
「別に、おまえにだけ親切なわけじゃねえよ。レディ・ファーストみたいなもんっていうか」
「れでぃ?」
「俺の国の作法だよ。男は女を大事にして優先するっていう」
「……えー」
「なんだ、その凄まじくうろんなツラは?」
 なんだと言われても、横暴に唇を奪われた記憶が鮮烈なせいで、信じきれないだけだ。
 それでも心遣いはありがたい。
 ありがたいが――
「気持ちはうれしいんです、けど」
「けど、なんだよ?」
「……そんなに、甘やかさないでください」
 まずは、気が引ける。
 それに、甘やかされたり、普通の女の子みたいに扱われるのは、自分がどんどん弱くなってしまう気がして、白雪は昔から苦手だった。女子には厳しすぎるほどの修練で鍛えられているほうが、よほど安心した。なのに。
「やなこった」
 ――あまりにあっさり一蹴されて、白雪は耳を疑った。
 びっくりして顔を上げれば、アレクの、性格の悪さを前面に出した笑みがある。
「おまえは俺の所有物なんだから、甘やかそうがイジろうが俺の勝手だろ?」
「な」
「普段は男になりすますんだから、これくらい息抜きでいいじゃねえか。おとなしく可愛がられてろよ、お姫様」
 完全にからかう口調で言いながら、アレクは絶句した白雪の鼻をつまむ。
 すぐさま不愉快な手を振り払った白雪の、今度は黒髪を猫にでもするように撫でながら、意地の悪い船長はこんなことを言いだした。
「そういえば、昨夜思い出したんだけどな。この船には、実はおまえ以外にも女がいたんだ」
「――え。本当ですか?」
「会ってみたいか?」
 もちろんだ。
 白雪はたった今の怒りも忘れ、期待にほんのり頬を染めてうなずいた。



2009.11.21. up.

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