キャビンボーイの朝は、船長のために、洗面台の水を用意することから始まる。
――と、白雪は船医クリストファに教えられた。
本来なら、白雪の(不本意ながら)直接のあるじとなった船長アレクがそういうことを指示するところだろうが、アレクときたら「あ? キャビンボーイの役目? ときどき俺の命令を聞いて、あとは適当に他の部署を手伝ってたらいいんじゃね?」と、それこそ適当なことしか言わないので、知識豊富なクリス先生を頼るしかなかった。
アレクと、クリス先生。
この二人が今現在、白雪にとってもっとも接しやすい相手だ。このオライオン号の中で、彼らだけが、白雪が男のフリをした女だと知っている。
ともかく。
そういうわけで、白雪は朝起きるとすぐに、洗面台の支度を始めたのだが。
「ええと……」
船長室を出て、しばし。
白雪は、人気もなく、まだ薄暗い通路で立ち尽くしていた。規則的な波音が、右手の壁の向こうからは聞こえてくる。
(ど……どっちだっけ?)
手には、ぬくもりを感じさせる木製の洗面器。その中は空で、要するに、まだ海水のろ過装置とやらがある部屋にたどりつけていない。ひらたく言うと迷子だ。
(出る前に、クリス先生のくれた船内図で場所を確かめてきたのに)
ふがいない。
クリスお手製の船内図は腰帯の物入れにしまってあるが、自分の現在位置さえわからないので、見てもあまり参考にはならなかった。おのれの方向感覚の予想以上のダメっぷりに、白雪はだんだんやるせなくなって、眉尻を下げる。
(別に、迷路みたいに入り組んでるわけじゃないのになあ)
慣れていないせいで、どの通路も同じように見えて、混乱してしまう。困った。
「オンナノコ――オンナノコ! キレイナオンナノコ!!」
そのとき突然、天井の低い通路じゅうに声が響いた。白雪は本気で腰を抜かした。
聞き覚えのない甲高い声。オンナノコ。
(ま、まさか、もうバレた!?)
胸にはきつくサラシを巻き、腰の線もサッシュで隠してきたのに、どこで――?
激しく動揺しながら、声のした方向を振り返った白雪は、予期していたのとはまったく違うものを見つけて目をみはった。
「――オウム……?」
床板の上にちょこんと、処女雪を思わせる純白の羽毛をもつ、異国の鳥がたたずんでいた。
頭を飾る
「オンナノコ! カワイイオンナノコ、オイデ!」
「…………なんだ。あなたの声だったのか」
白雪は、どっと疲れを感じて、肩の力を抜いた。
インコやオウムという鳥は、舌が人間のそれに似て肉厚だから、人の言葉を真似できるのだと、
(まぎらわしいな、もう)
ちょっと憮然とするが、羽毛がふわふわして可愛くて、憎めない。
試しに、おそるおそる手をさしのべてみると、ふわりと羽ばたいて白雪の腕に留まった。思いのほか人なつっこい。人間の肌に脚の爪が喰いこまないよう、やんわりと留まるすべを心得ているし、誰かにしつけされた愛玩動物に違いない。
「よしよし。飛べないから床を歩いてたわけじゃないんだね、それならよかった」
「ヨーホー! ヨーホー!」
元気よく、オウムが答える。
白雪が過去にオウムを見たのは、一度だけだ。
巫女姫――朧姫への献上品として、とある港を有する貴族が「異国渡りのめずらしい鳥でござい」とつがいで持参してきたのだ。確かそのとき、羽毛の色が白や金色のものは、非常に稀少で高価なのだと、自慢げに語るのも聞いたような。
(さすが、海賊の船……なんでもあるんだなあ)
略奪品かもしれないが。
白雪はなんとなく、オウムに語りかけてみた。
「あなたはやっぱり、誰かに飼われてるんだよね。ご主人さまはどこ?」
「追イ風!
「って、やっぱり通じないか」
さてどうしたものか。
ここに放置するのは気が引けるが、早く水をくみに行きたいし、と思案していると。
「アーサー。僕はここだよ」
澄んだ美しい声が、白雪の背後から聞こえた。
「!」
今度は間違えようもなく人間の声だった。しかも聞き覚えがない。というよりこんな美声、一度聞いたら忘れるわけがない。
(足音も気配も、まったくしなかった……!)
只者ではない。
白雪の身体を、緊張が稲妻のように駆け抜ける。
(わたしは14歳の東方人の男で、漂流したところを助けられた恩返しに、アレク船長のキャビンボーイをしている。わたしは男、わたしは男――)
念のために自分にたっぷり暗示をかけてから、振り返る。
すると。
(――って……美少女?)
思わずそう疑ってしまうほどの、中性的な美貌の少年が、通路の突き当たりにいた。
「ヴィンス! ヴィンス!」とにぎやかにわめきながら、白雪のもとを離れたオウムを、腕をさしのべて迎える仕草がひどく典雅だった。白雪と似たような麻の海賊服を着ているのに、信じがたいほど整った美貌のせいで、全然そう思えない。
うなじで飾り紐を使ってまとめた髪は、朝の光に輝く初雪を思わせる白銀。みがかれた
(宝石でできてるみたいな人だなあ……)
歳はおそらく、実年齢17の白雪と大差ないだろう。昨日紹介された――これまた独特の妖艶さをもつ美少年の――フィロと同じくらいに見えるから。といってもヴィンスは、フィロとは雰囲気がまったく違う。どことなくあやうい
他の海賊たちに比べれば線は細いが、すらりとして均整のとれた細身なので、弱々しさはまったくない。
輝くような美しさの少年に、白雪は思わず見とれ、息をのんだ。
(この人も海賊……なのか?)
ヴィンス、とオウムは呼んでいた。それが名前?
(……でも、船の景色には、ものすごく不釣合いなような……)
クリス先生から文字を覚えるのに貸してもらった絵本の「王子様」や「天使」を想起する。
海賊王子。海賊天使? いや、なんだそりゃ、と自分に自分でつっこんだ。
――『今後オライオン号のナンバーワン美少年の座は、3人で争われることになるのだな』
ふっと頭の隅にひらめいたのは、副長バージルの言葉。
フィロと白雪で2人と数えられているそうだから、この少年がきっと「3人目」だろう。
(勝負する気なんて最初からなかったけど……これは、勝負にすらならないんじゃないですか副長……)
乙女がうっとり見とれながら裸足で逃げたくなりそうな美少年を前に、白雪は女子として、やや複雑な気分を味わう。
(でも……どうしよう。行ってもいいのかな?)
少年はオウムの飼い主らしく、仲睦まじげにたわむれている。
こちらを気にしていないようだし、オウムのことは一件落着だし、まだ男の演技に自信がもてないから、知らない人間と話すのは怖いし。
ここはさりげなく立ち去ってしまおう、と、卑怯な結論に至った白雪が身をひるがえそうとしたときに、少年が急にこちらを振り返った。
「……ッ!」
おそろしく澄んだ翡翠色の瞳とかち合った刹那、金縛りにかかった心地を味わう。
ことさら威圧する雰囲気はない。むしろ端整で
冬厳>とうげんも、決して声を荒げることなく、部下たちを
少年が優雅な歩き方で、まっすぐにこちらに近づいてくる。逃げられない。
「おはよう」
やがて白雪の目の前で立ち止まると、ヴィンスはふわりと微笑んだ。
神々しさがつと消えて、やさしい空気が生まれる。と同時に、白雪の金縛りも解けた。
(こ、腰が抜けるかと思った)
澄んだ翡翠色の瞳に、白雪の、こわばりの抜け切らない表情が映りこむ。
「君が、新入りでキャビンボーイになった、『白い雪のおちびさん』?」
「……え?」
「ああごめん、バージル副長がそう言っていたから。本当の名前はなんていうの?」
「…………白雪、です」
素直に答えてしまう。というか、逆らうことなど思いつけもしなかった。
「シラユキ。しらゆき――」
ヴィンスは何度か発音してみせると、白雪に「どれが正しいかな?」と確かめてきた。
白雪が3番目の発音が理想的だと言うと、それをまた何度か繰り返してみせる。心の奥までしみとおるような綺麗な声で、音楽的な美しさは、男女問わず人間を酔わせるようだ。穏やかにほころぶ口元がまた優雅だ。どこかの貴公子じゃないのか、これは。
「白雪と呼んでもいい?」
「それは、もちろん」
白雪は緊張に身をちぢこめながら、こくんとうなずいた。ヴィンスの笑みが深くなる。
「僕はヴィンセント・ドレイファス」
「ヴィンセントさん……?」
「ヴィンスでいいよ。普段はこの船の、司祭をしている人間なんだ。こっちのオウムはアーサー。僕の国の、伝説の王様の名前をつけたんだけど、みんなでおかしな言葉を教えるから、すっかりおしゃべりになってしまって」
「シサイ! オウサマ!」とオウム。
「しさい?」
「初めて聞く?」
白雪はまた、こくんとうなずいた。遠い国の言葉には、まだ知らない単語も多い。
「神様にお祈りするときに、儀式をする役だよ。聖なる言葉を読み上げたりするんだ」
「聖なる言葉――」
――白雪の国でいう、神官や
ヴィンセント――ヴィンスの神々しいほどの美貌にはこれ以上ないくらい似つかわしい役職だが、このオライオン号が海賊船だということを考えると、妙に違和感がある。まあ、違和感というのなら、この王子様じみた美少年がここに乗船していること自体がそうなのだが。
「この船の人たちって、そんなに信仰心があるのですか?」
「海賊のくせに、と思ってる?」
「…………」
まさにそのとおりだったが、馬鹿正直にうなずくのは、さすがにためらわれた。普通に失礼である。
だがヴィンスは白雪を責めることはなく、やさしい口調で教えてくれた。
「海の男というのは、案外、信心深いものなんだよ。嵐に凪、暑さや凍え――海は陸以上に、人間の力ではままならないことが多いし、陸ではなんでもないような怪我や病気で命を落とす可能性も高いから。みんな、神様の加護を期待せずにはいられない」
「……なるほど」
納得はしたが、意外なことには変わりなかった。
(それじゃ、あの性悪船長も……?)
口も目つきも性格も悪くて、白雪の知る中ではもっとも不信心そうに見える男なのに。
内心「それはないだろう」と決めつけていると、ヴィンスが言った。
「君は東方の人だったよね。東方では、僕たちとは違う神様を信仰しているのだろうけれど、祈る気持ちは同じだから。よかったら、聖日曜日の礼拝にも来てほしいな。今は忙しいだろうけれど、いろいろとお話をしてみたたいし」
「え?」
「その洗面器。ろ過装置のある部屋を探しているんだろう?」
――ヴィンスの美貌ぶりと典雅な物腰に圧倒されて、頭から吹っ飛んでいた。
慌てて場所を教えてもらい、走りだそうとしたところでまた引き止められる。
「待って、白雪」
「はい?」
「サッシュがほどけかけているよ。じっとしてて」
「!」
サッシュというのは白雪が腰帯代わりに巻きつけている、色と模様のあざやかな布だ。
ヴィンスは親切にも、その縛り目を直してくれようとするのだが、そうなるといきおい、彼が至近距離でひざまずく姿勢になるわけで――
心臓に悪いにも程がある! 白雪は蒼褪めて、ヴィンスを押しとどめようとした。
「それならわたし、自分ででき――」
「遠慮しないで」
(いや、遠慮という問題ではないんですが!)
……あの性悪船長のちょっかいと違って、ヴィンスは本気で善意なのが厄介だ。慈愛に満ちた笑顔を見ると、とてもじゃないが断りきれない。
オウムを肩に移動させて、ヴィンスが白雪の傍らにしゃがみこむ。
「ツカマレ! ツカマレ!」
オウムが意味不明な言葉を叫んでいるのが、硬直した白雪の耳を素通りしていった。
腰の線というのは、隠しようもなく、男女の差が出てしまうところのひとつだ。そこを間近で観察されるのは危険だと思うが、徹底的に拒絶するのは却って不自然で、疑念を持たれてしまうかもしれない。
「……す、すみません」
「別にいいよ」
仕方なく、白雪は息を止めて、光栄なようでその倍は困る状況に耐えた。
シュッ、と衣擦れの音がする。
ちらりと見下ろせば、淡い金色の長いまつげに目を引かれる。むしろこちらがひざまずかなくてはいけない気になるほどの美しさだ。美形の男なら、白雪も何度か母国で見たこともあるのだが、ヴィンスは髪や瞳にキラキラとした彼女の見慣れない色彩を持つせいか、まぶしくてしょうがない。
(胃が痛い……)
白雪はひきつった表情で、緊張のあまりしくしくと泣きだしそうな、自分の腹のあたりを押さえた。
(……あ。でも、こんな顔の人でも男なら、わたしが男のフリをしてもいけるかも?)
不意に近づかれると息が止まりそうになる美貌だが、そこだけは安心材料かもしれない。
白雪とヴィンスを並べて「どっちが女でしょう?」と聞かれたら、ヴィンスを指差す人のほうが多い気がする。……それはそれでどうなの、というところだが。
「よし。これでいいだろう」
ヴィンスがうなずいて、腰を伸ばす。
緊張のせいでやけに長く感じたが、実際は、ゆっくり十数える程度の時間だったのだろう。
「それじゃ、また。同じ船の仲間として、これから一緒にがんばろうね」
「は、はい」
白雪を完全に「年下の少年」だと思ってくれているらしく、ヴィンスは彼女の髪を軽く撫でて去っていった。最後まで、見とれるしかない、美しい笑顔と仕草だった。彼の背後に花が咲いているような錯覚をおぼえる。
しかし。
(一緒にがんばろうって……)
海賊の略奪行為を、ということか? ――そう気づくと、なんとも言えない気分になったが、その時にはもうヴィンスとオウムの姿はどこかに消えている。
なんだか、朝っぱらから異様に疲れた白雪だった。
こんなことで、これから大丈夫なんだろうか……。