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間章 巫女姫さまと恋の予感(後)




「髭黒さん、お食事の前に、外を見てきてもよいかしら」
「結構ですとも! いやむしろ、甲板で風を感じながらの食事のほうが、気分が変わってよろしいかもしれませんな。では参りましょう!」
 そういうことで――
 朧姫は船室を出て、まる一日ぶりに外の空気を吸った。
 今日は晴れだが霧が出ているせいで、昼に近いのに、周囲はあまり明るくない。
 足元に縄やむしろに包まれた何かが無数に転がっているので、危ないと言って、疾風が手を貸してくれた。やさしい物腰は、朧姫を安心させる。
 悟していたほど風が強くないのが意外だった。
 朧姫の黒蜜のように流れる長い髪も、ほとんどなびいていない。頭上を見上げてみれば、目の細かいむしろのような帆はたたまれている。
「疾風。もしかして、この船は動いていないの?」
「はい。実は巫女姫さまを乗せて島を離れた後、一度、敵船に出くわして。今は浅瀬に停泊して船を修理しているのです」
「敵船に……?」
「おそらく、島を襲撃した一味を乗せてきた船だと思いますが――黒い帆に黒い船体で、見たこともない船形をしていました。大砲[おおづつ]の数も多く、まさに戦うための船という感じでしたが……もしかすると、異国の船かもしれません」
「どうしてそう思うの?」
「帆が、特別な布でできていました。異国にはそういう船が多いのです」
「その黒船と戦って、船が壊れたのね」
「長い時間ではありませんが、大砲を何度か撃ち合いましたから。最後は『逃げるが勝ち』で霧の中に突っ込んでしまいましたが」
「……朧が落ちこんでいる間も、みんながんばっていたのね」
「気に病まないでください。巫女姫さまが無事であることが、我々の勝利の証なのですから」
「疾風どのの仰るとおりですとも!」
 疾風も雷火も鷹揚に許してくれるが、朧姫は、自分の世界に閉じこもりきりだった昨日がひたすら申し訳なかった。
(朧はこれからも……守られるしか、ないのかしら)
 白雪。
 心の中で、身代わりとなった少女を想いながら、甲板を見渡してみる。

 今まで聖地巡礼のために乗ったことのある壮麗な御所船御所船[ごしょぶね]とは、かなり雰囲気が違った。
 疾風の説明によれば、「安宅[あたけ]造り」といわれる軍船[いくさぶね]だそうだ。
 普通の船なら装甲がうすくて弱点になってしまう船尾まで、鋼鉄の装甲板でがっちりと武装しているのがまず特徴的だ。大砲や長銃も最新鋭のものをそろえている。壮大だが、櫓で船足をつけることができるので、いざというときにはかなり早く帆走できるそうだ。
 甲板の上には、まるでまるでお屋敷のような、二層の立派な楼閣が設けられている。いくさのときは司令塔となる、上の層にある部屋が、朧姫にあてがわれていた。
 さながら『海上の城』といったおもむきだ。

(こんな鎧武者のような船を壊すなんて……黒船も、すごいのね)
 怖さと感嘆がいりまじった心地で思いながら、先を行く雷火の、広い背中についてゆく。
 紅白の巫女装束が、木箱や樽に引っかからないようにするのが、少し大変だった。
 雷火に導かれるまま、木箱で囲まれた空間に腰をおろす。
 船縁から下を見下ろしてみれば、命綱一本でぶら下がった水夫たちが、船腹をえぐる傷を修復しているのが見えた。見ている朧姫のほうがひやひやしてしまうほど、水夫たちの動きは身軽で、恐れ気がない。
「――託宣、ですと?」
 現状を確かめる話の途中で、雷火は朧姫にそう訊き返してきた。
 朧姫はうなずいた。
「はい。龍神さまは朧の気持ちをわかってくださったようです。白雪が生き延びていて『遠からず再会する日が来る』と教えてくださいました」
「なんと」
 髭黒の船大将は意外そうに目をむく。が、やがて納得した様子でうなずいた。
「なるほど。昨日とは打って変わってお元気そうなのは、それででしたか……。納得いたしました。して巫女姫さま、他にも託宣はございましたか?」
「残念だけど……。でも何か大事なことがわかったら、すぐに髭黒さんに伝えるわ」
「そう願います。情報で敵に先んずるのが、いくさでは一番重要なのです」
 雷火が、切り株のような首でうなずいた。
 やがて、朧姫と同じくらいの年頃の水夫が、あつあつの椀を運んできてくれた。
 魚の切り身や乾した野菜をごった煮にして、味噌で味をつけたものらしい。普段の「巫女姫さまの御膳」とは比べるべくもなく粗末なものだが、ここではお行儀のいい食べ方に努めなくてもよいという解放感もあって、非常においしく感じられた。
「――時に、巫女姫さま」
 水夫のひとりに呼ばれて、雷火がその場を離れると、疾風が妙に深刻そうに切り出した。
「なあに? 疾風」
「先ほどは、春嵐さまのお気持ちを案じておいででしたが――巫女姫さま自身は、此度の結婚のことはどう思っておられるのですか?」
「……あ」
 さっきの船室で、疾風はそれを言いかけたのかと、朧姫はようやく気づいた。
 妙にどきりとしてしまったのは、隣に座る彼のまなざしが、怖いほどまっすぐだからだ。
(熱心すぎないかしら……)
 この年代の異性にあまり慣れていない朧姫は、ついつい鼓動が乱れてしまうから、そんなに一途に見つめられると困るのに。それにこんなふうに隣同士で座るなんて、絵巻物の恋人同士のようで、変な妄想までしそうになる。
(……朧には、春嵐さまがいますのに)
「あのね、疾風……春嵐さまには言わないでくれる?」
「え」
「ほんの少し、ほんの少しだけど、春嵐さまには失礼かもしれないから。いい?」
 ちょっと考えて、朧姫はそう前置きした。
 疾風は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしたものの、言わないと誓ってくれた。
「実はね、疾風――こういうことになるまで、朧は、誰と結婚することになってもいいやって思っていたの。だって朧の気持ちなど関係なく、託宣で相手が決まってしまうでしょう? 教育係のおばばさまも、普通の姫君とは違うのだから、巫女姫には勝手な恋などできないし許されないと何度も言っていたし……」

 ――恋をしてはならない。
 そういう運命でも、朧姫は絶望こそしなかったが、希望もなかった。
 心の片隅では「ちょっと残念だわ」とも思ったけれど、運命に反発する前に、あきらめを覚えさせられた。歴代の巫女姫も同じことをしてきたのだから、朧姫だけがわがままを言うのも気が引けたし。
 絵巻物にあるような男女の恋は、だから、朧姫には夢また夢だった。

「それに朧のお友達の白雪も、やっぱりそういう、恋とは関係のない結婚をさせられるというから。だったら、別に悲しくもないわって」

 ――『でも万が一、[]の君がすごぉくイヤな相手だったら、白雪はどうする?』
 ――『どうしましょう……でも、逃げ出すわけにもいきませんし』
 ――『じゃ、朧の夫の君がそういう方だったら?』
 ――『……朧姫さまがお望みとあらば、暗殺してしまいましょうか?』
 ――『それはまずいわ! 白雪が罰を受けて殺されてしまうかもしれないじゃない。よし、ではこうしましょう。朧と白雪の結婚相手が、どちらもすごぉく最低な方だったら、朧と白雪は手に手をとって駆け落ちをするの!』
 ――『駆け落ち、ですか?』
 ――『絵巻物で見てハラハラドキドキしたから、一度してみたかったの。駄目?』
 ――『駄目ではないですけど、わたしと朧姫さまで駆け落ちが成り立つのかと疑問が』

 白雪の、大まじめに悩む顔がおかしくて、つい笑ってしまったっけ。
 うるさい教育係には内緒で、はなはだ常識はずれな駆け落ち計画を立てたことを、昨日のことのように覚えている。
「白雪どのというのは、確か、御庭番の」
「朧のいちばんのお友達で、初恋の人よ」
 ――さらりと朧姫が言ってのければ、疾風はなんともいえない表情をする。
「……………………白雪どのは確か、女性、ですよね?」
「そうだけど、でも、最初はそうだって知らなかったのよ。だって白雪ったら、男の子みたいな格好をしていたのだもの」

 そして実際、下手な男の子よりも腕っぷしが強かった。
 運動神経がさっぱりない朧姫と違って、どんな高い場所にでもかるがる昇ってしまって。花の咲いた木の枝や、熟した実を、よく朧姫に贈ってくれた。ときどきは、神宮を抜け出して、お忍びの散歩をさせてくれたこともある。
 まじめで少し天然で、どこか不器用だけれど、朧姫にはとびきりやさしかった。
 いちばん大事な友達だ。
 厳しい教育係や彼女の肝いりの女官たちには言えないことも、白雪には言えた。
(白雪)
 ――生きていることだけは託宣でわかったけれど、一体、どこにいるのだろう?
 心配だ。
 敵に捕らわれるのは最悪だが、変な人間に拾われていないことを祈りたい。
 白雪本人はそちら方面にはたいそう無頓着なのだが、彼女は朧姫が知る女人のなかでも白眉の美形だ。男服に身を包んでいても、その魅力が損なわれることはなく――女官たちからは、随分と嫉妬されていたことも知っている。
 十二歳の朧姫でもそれがわかったのに、白雪は「わたしは闇の人間だから、忌み嫌われても仕方ないのですよ」とだいぶズレた誤解をしていたが。
(だ……大丈夫かしら?)
 変なところで鈍感な友達が、朧姫はどんどん心配になっていった。
 ――美人だからといって、昔話の羽衣を奪われた天女のように、強引な男に迫られていたらどうしよう!
 朧姫は箱入りだが、絵巻物や御伽草子のおかげで、無駄な想像力がつちかわれている。それが暴走をしはじめて、朧姫は悶々としてしまった。
 白雪が危険な目に遭っていないように、龍神さまに慌てて祈る。
(白雪が、どこかでちゃんと護られていますように。大変な目に遭っていませんように)
 と。
「――今はどうなのですか?」
 朧姫が語る白雪の話に、穏やかにあいづちを打っていた疾風が、唐突にそう言った。
 ちょっと物思いにふけってしまっていた朧姫は、大粒の瞳をぱちくりとさせた。
「今は?」
「春嵐さまのことです。こんなことになるのなら、他の皇子がよかったとか」
「そんなことは無いわ! それだけはないわ」
 気弱ように問われて、朧姫は慌てて首を振った。長い黒髪が背をうつ。
「さっき、春嵐さまは朧と逢う日を待っていると、疾風は言ったでしょう? 朧は、それを聞いてうれしかったの。こんなことになっても、そんなやさしい言葉を下さる方なら、朧は白雪の次に好きになれそうな気がするの。弟を殺そうとするような他の皇子さまよりも、ずっとずっと春嵐さまがいいに決まっているわ」
「それはよいのですが――白雪どのの次、ですか」
 朧姫の悪気だけはない言葉に、思わず、といった雰囲気で疾風が苦笑いする。
「女人に負けたとあっては、春嵐さまが嫉妬されるかもしれませんよ?」
「まあ」
 茶化すみたいに言われて、朧姫も思わず笑みがこぼれた。
「でも……そうね。春嵐さまに好きになっていただけるように、朧はがんばるつもりよ」
「がんばる、とは」
「とりあえず。朧は、もう泣きません」
 朧姫は決然とした口調でつぶやくと、澄んだ瞳で頭上を仰いだ。
 霧が濃いせいで、中天に達しかけている太陽がかすんで見える。
 その太陽と同じくらい高い天にいるという、龍神さまに誓うように続けた。
「どこかでがんばって生き延びているはずの、白雪のためにも――朧を護るために、命を落とした人のためにも。待っていてくださる春嵐さまと協力して、こんなイヤな帝位争いはさっさと終わらせてしまうのが、今の朧の目標よ」
 ひと息に言い切って、うん、と拳を固める。
 ――遠からず白雪に再会したときに、誇れる自分でありたいと朧姫は思うのだ。
 白雪が命をかけて守ろうとした巫女姫は、白雪と離れていてもちゃんとお役目を果たせるのだと、教えてあげたい。そうすれば、白雪のあの命がけの行動にも――白雪の大事な父上や仲間を戦死させてしまった事実にも、報いることができる気がするから。
「……巫女姫さま」
 おもむろに疾風がうなずいた。どこか甘い笑顔が、気品のある面差しに浮かぶ。
「それは、とてもいいと思います。あなたは私が思っていた以上に素敵な方だ」
「……え?」
 穏やかな声は、どこまでも純粋な称賛の色と、憧れるような響きを帯びていた。言葉を向けられた朧姫のほうが却って恥らってしまうほどに。
 深い森の色をした瞳がまぶしい。無防備に見とれかけて、朧姫は、はっと目をそらした。
 ――あぶないあぶない。
 白雪の次に話しやすい気のする疾風に、心の一部を奪われそうになっていた。自分には春嵐という許婚がいるのに。
(でも……春嵐さまも、こんなふうに素敵な方だったらよいのですけど)
 心の片隅でいけないことを思ってしまいながら、朧姫は、疾風の笑顔にうなずいた。
 鼓動がどうにも乱れて、どきどきと高鳴りつづけるから、とても落ち着かなかった。


 ――その夜。
 朧姫を船室に送り届けると、疾風は、船大将の雷火を呼んだ。
 ひとつきりの、魚くさい油を使った灯火の下、低めた声で会話をする。
「それで、どうでしたかな」
「どう、とは」
「これはこれは、おとぼけになられるか。おれにしては気を利かせて、巫女姫さまとふたきりの時を長く作ってさしあげたのですが」
「! 雷火どのッ」
「あなたと巫女姫さまを守り抜くのが我らの役目であれば、お二人の関係が気になるのも当然かと。して、いかがでしたか。進展されましたか」
「……からかわないでくれ、雷火どの」
「はっはっは!」
 いつもの聡明で大人びた表情と違い、からかい文句で頬を火照らせた疾風の顔は、十七歳の歳相応だ。スレていないところが、雷火には好ましい。
 そんな前置きこそたわけた会話だったが、じょじょに話題は真剣みを帯びてゆく。
「むう。では疾風どの、あなたが実は――……であることは」
「朧姫には、まだ秘密にしている。あなたもそのように頼むぞ、雷火どの」
「しかしなにゆえに、もったいぶるのですかな」
「彼女は私を『皇子』ではなく『都から来た青年・疾風』と思って親近感を感じ、いろいろと話をしてくれているのだ。その関係を、今すぐに崩したくはない。……ただでさえ、親しくしていた者たちと引き離されて、不安定になっておられるのだ」

 今日の朧姫は、泣き濡れていた昨日とは別人のようにいきいきしていた。
 やわい風を受けながら、決意を語ったときの瞳は、凛として美しかった。
 ――けれど疾風は、一日彼女のそばにいて、彼女の違う面も感じとっていた。
 託宣が下ったからといって、あっさり心の重荷を忘れられるほど彼女は単純ではないことを。親しい人々を亡くした悲しみと、友と引き離されたどうしようもない不安がひそかに根をはりつづけて、彼女のちいさな心を、隙あらば食い破ろうとしていることを。
 その気負いが痛ましいと思い――同時に、支えたいと思った。

「それに、私が何者かを知った朧姫に、急に態度を変えられては寂しかろう」
「ふむふむ。切ない男心というものですな。いやあ、若いというのはよいですな」
「……からかわないでくれ、雷火どの」
「はっはっは!」
 海の男らしく豪快に笑い飛ばすと、雷火は一転、表情を厳しくする。
「いいでしょう、わかりました。しかし永遠に『疾風』のままではおられませんぞ」
「わかっている。『春嵐』としての務めを放棄するつもりはない。むしろ――心が定まった」
 顔も知らない許婚。
 わずか十二歳の巫女姫。
 ――こんな兄弟で泥沼の政変に巻きこまれて憐れだという、ひととおりの同情はしていたが。まだいとけないが稀に見る美姫だという噂だけは聞こえていたものの、実際に逢ったことがないので、なんとも思いようがなかった。
 だが今日、けなげに自分の足で立とうとする朧姫を見て、はっきりと感情が生まれたのだ。
 この純真な巫女姫を、権力が欲しいだけの兄皇子たちに渡して不幸な結婚をさせたくない。
 絶対に渡してはならない。
 自分が、幸せにしてみせようと。
 ……なにぶん相手がまだ十二歳なので、雷火のいう「切ない男心」や恋心とまではいかない気がするが、朧姫と結婚して次の帝となるために、自分を殺そうとした兄皇子たちを排除する覚悟だけは固まった。今までは、血を分けた家族と戦うのがどうしても怖くて、その踏ん切りがつかなかったのだが。
 これから『疾風』は――『春嵐』は、争いを嫌ってただ逃げるのではなく、反撃に出る。
 朧姫を守りながら。
「しかし『身代わり』として残った白雪どのが生きているということは――御庭番衆の頭領・冬厳どのも、もしかしたら……?」
「そうであればいいとも、そうでないほうがいいのではないかとも、おれは思っています」
「なぜだ? 冬厳どのは当代最強の忍びと聞いたぞ。生きていて合流できれば、さぞかし強い味方になるのでは」
「だからこそです」
 ひしぐように重苦しい声と暗い表情で雷火が言うので、春嵐は思わず失語する。

 ――雷火の想いは複雑だ。
 生きていてほしいかどうかと問われたなら、生きていてほしいに決まっている。
 しかし、情報源として敵に捕えられた場合、冬厳には闇に閉ざされた末路しかない。
 よくて、自決。
 最悪の場合は、忍びとしての自尊心をじわじわと踏みにじられながらの拷問死だ。
 であれば、いっそすでに海の藻屑と化していたほうが幸運ではないかと、冬厳とは友人でもある雷火は思うのだ。
(娘御の安否を思いながら死ぬなど……あまりにも、憐れすぎる)
 冬厳というのは、裏では雷火でさえ怖気をおぼえるような汚い手を尽くして戦ってきた男だが、さすがにそれはむごすぎる。冬厳という男は、御庭番衆を完璧に束ねながらもずっと、一人娘である白雪を不器用に――
「――む?」
 冷たい、どことなく不気味な風を感じて、雷火はふと顔を上げた。
 そして見る。
 夜色を帯びた濃い霧の彼方に、悪夢のように船影が浮かび上がっているのを。
 闇よりもなお黒い帆、漆黒に塗られた船体。
 地獄の底からただよってきたかのごとく、壮大で――
(……あの船はッ!)
 一昨日、この船に、修理に三日はかかる被害を負わせた黒船だ!
 疾風にもそのことを教え、戦闘態勢をとるよう部下たちに命令せねばと瞬時に思う。
 ――が、雷火が得意のとどろくような大音声で命令を発する寸前に、黒船はまるで煙のように消えてしまった。
 狐につままれた心地を味わうが、油断したところで奇襲をかけられたら恐ろしい。
 用心して、夜明けまで厳戒態勢で見張りを続けたが、その後は一度も姿を現さなかった。
 雷火は思わずうめいた。
「……まったく。なんなのでしょうな、あの黒船は」
「わからぬ。一体どの兄君の手の者なのかさえ。ただ――」
 疾風の、深い森の色をした瞳は、鋭い光をたたえていた。
「この先、強敵になるだろうな」



2009.11.07. up.

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