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間章 巫女姫さまと恋の予感(前)




 海の上で迎えた最初の日を、朧姫[おぼろひめ]はほとんど泣いて過ごした。
 十六夜島[いざよいとう]を離れた夜明けは、まだ十二歳の朧姫には重すぎる悲劇だった。
 魔物のように乱舞する火炎。暗く重苦しい空気。
 泣き叫び、声がかれ果てるほど繰り返し呼んでも振り返ってくれなかった背中。
 そして、もう二度と応えてくれない――
 ――白雪。
 いちばん大切な友達が、自分の身代わりになって、命を落とした。
 それもたぶん、千の刃に切り刻まれたあげくに業火であぶられるような、惨い死に方で。
 想像は衝撃となって朧姫の身体を貫き、彼女は意識を失った。だから、火を放たれた神宮を脱出したあとの記憶はない。ただ、夢うつつに、朧姫を抱え上げた男たちが「耐えてください」「巫女姫さまのためです」とつらそうな声で繰り返していた気はする。
(朧のために)
(朧のために、白雪は――それに、白雪のお父様も……御庭番の方たちは、みな)
(――朧の、せいで)
 意識を取り戻したのは、夜が明けてから。
 見慣れない天井がまず見えて、寝具の下から伝わる揺れで、朧姫は自分が船の上にいることを察した。夢から覚めきらないような茫然とした心地で、
「白雪――」
 いつもの癖で御庭番の少女を呼んでしまい――応える声がないと気づいた途端、現実が一気にのしかかってきた。虚無的だった表情がひび割れ、どっと涙があふれた。


 さんざん泣いて疲れ果て、彼女を慰めるためにかわるがわるやってきた人々の顔はおろか、再び寝具に倒れこんだのが昼なのか夜なのかを意識する余裕さえなく眠りの闇に引きずりこまれると、今度は夢を見た。
 朧姫は、無音の空間に立っていた。
 あたりには濃密に[もや]が満ちており、まるで雲の中に立っているかのような錯覚をおぼえる。
(これは……)
 靄のほんのりと朱色を含んだ優美な白さは、桜の花びらと同じ――そして朧姫の瞳の色とも同じ色彩だ。靄のそこかしこでは、さまざまな花をつけた樹木が、自らを誇るように枝を勢いよく伸ばしている。
 清楚な花の木蓮、かぐわしき紅梅、何種類もの桜、甘く香る金木犀[きんもくせい]。あらゆる季節の花が満開になったそこは、現実離れした幽玄な美しさで人を圧倒するのだろう。何度も同じ夢を見たことのある朧姫は、いつもの夢だわ、と思うだけだったが。
(お告げの夢だわ)
 幻想的な風景と、自分がしみひとつない千早――別れぎわに白雪に渡してしまったはずの巫女姫の第一礼装をまとっていることで、朧姫は気づく。――これは、巫女姫にのみ見ることのできる、龍神さまの託宣を聞く夢だと。
(でも……このようなときに、一体どんな託宣かしら)
 現実のあれこれを思えば、普段のようにいそいそとお告げを聞く気にはとてもなれないが、至高の神に逆らうこともまたできない。
 朧姫は義務的な、しみついた動作で膝を折り、靄の上に正座した。長いまつげを伏せ、深くこうべを垂れて恭順の意を示す。
 ――夢の中で聞く託宣は、朧姫が巫女姫であることを確認させられるようで、つらい。
 だって白雪たちは、その「巫女姫」を護るために――
(……え?)
 突然。
 天から降る雨雫のごとくに、ぽつり、胸の奥に直接響いた玉音[ぎょくおん]――龍神さまの声で、朧姫ははたと顔を上げる。
 新たな涙で潤みかけていた桜色の瞳には、輝きが灯っていた。期待という名の輝きが。
(今の託宣)
 託宣とは、四生嶋を守護する龍神さまの未来視。人の子に過ぎぬ巫女姫は、ただ粛々と受けとめるのみ。聞き返したり、内容の意味を問いただすなどもってのほか。――幼少の頃より、朧姫はそう教えられてきた。
 しかしこのとき、朧姫は思わずその教えを破って顔を上げ、迫るように聞き返していた。
(それはまことですの? 龍神さま、白雪はほんとうに――)

「――巫女姫さま」

 呼びかけと、肩にふれる誰かの指の感触で、朧姫は夢から覚めた。
 はっとして目を開けた途端、こめかみに頭痛が走り、びくりと身体がこわばる。
 息を詰めて、ずきずきと響く鈍痛をこらえていると、再び呼びかけられた。
「巫女姫さま。頭痛を鎮める薬湯を用意してありますが、お呑みになられますか?」
(男の方……かしら?)
 白雪ではないのは覚悟していたが、声に聞き覚えがない。御庭番の者ではなさそうだ。
 顔を確かめたくても、寝起きの目がまだぼやけているのと逆光のせいで、よく見えない。
 誰かしらと思いつつ、訊ねてみた。
「……どうしてあなたは、朧が頭が痛くなるとわかったの?」
「昨夜の姫は、泣いておいででしたから。泣きながら寝ると、翌日、頭が痛むものです」
 耳に心地のよい声だった。
 面倒をかけてしまった巫女姫を鬱陶しく思うでも、あきれるでもなく、誠実に案じてくれているのが、穏やかな口調からうかがえる。
(悪い人ではないようだわ)
 朧姫はとりあえず相手を信用して、薬湯の[わん]を受けとった。濃すぎる茶のような味のするそれを、ゆっくり、こぼさぬように呑みこむ。
 そうこうするうちに瞳の焦点が合い、相手の顔が見えるようになったが――寝床の脇にいたのは、やはりというか知らない顔だった。朧姫は、つぶらな目をぱちくりさせる。
「あなたは、どなた?」
「私ですか」
 と、青年は妙にもったいをつけた。そして「誰だと思いますか?」と逆に返してくる。
 試すというより、遊びに誘うような気さくな人柄を感じるので、不快感はないけれど。
(むう……)
 朧姫は首をひねり、かなり真剣に悩んだ。
(これはちょっと、むつかしいなぞなぞだわ)
 若い男だ。
 男というよりは、少年、あるいは青年といったほうが正しい気がする。歳は、朧姫よりは確実に上で――十七歳の白雪と同じくらいかしらと思われた。
 黒髪はうなじを隠す程度の長さで清潔に切りそろえられており、切れ長の瞳には深い森の色を宿している。
 服装は、裾をくくった狩袴に、肩から先の袖をばっさりと落とした上衣。
 典型的な水軍の者のいでたちに見えるが――
「うーん……。よくわからないけれど、少なくとも、水軍の方ではなさそうだわ」
「ふむ。それはどうして?」
「だって、あなた、あまりムキムキではないもの」
 船乗り、特に[]をもつことの多い水夫[かこ]は、上半身の筋肉が発達しやすい。――という理屈こそ朧姫は知らなかったが、彼女の知る水軍のおじさま・おにいさまは、みんな厚みのある肉体派だった。
 この青年は違う。
 華奢とはいわないが、水軍の者に比べるとかなり線が細い。それに、船乗りにしては日焼けをほとんどしていないのも気になった。
 鈴の音のような声でそう指摘すると、青年は、一本とられたとでも言うように破顔した。
 さわやかで、なんとも気持ちのいい笑顔だ。女の子を思わず安心させてしまうような。
「正解です。鋭いですね、さすがは巫女姫さまだ」
「朧の勝ちね?」
 朧姫は、にっこりと笑った。
 昨日の涙が嘘のように一点のくもりのない笑顔に、青年がふと顔つきをまじめにする。
 遠慮がちに訊ねられた。
「昨日とはだいぶご様子が違っておいでですが――」
「ええ。朧はもう、だいじょうぶよ」
 青年が何を心配しているかを聡く察して、朧ははっきりとうなずいた。
 その表情には、十二歳の娘とは思えぬ気丈さもあったが、周囲のみなに暖かく気遣われながら育った者特有の――無意識のうちに相手を安心させようとがんばってしまう、ある種のあやうさもあった。
 けれど決して、虚勢ではない。
 ――龍神さまが、あの託宣をくださったから。
「それより、あなたはどこのどなたなの? 早く教えて」
「私は疾風[はやて]。四生嶋・本島より、巫女姫さまをお護りするべく遣わされた者です」
「本島の……どちらの国司さまかしら?」
「今上帝のおわす、光輝あまねく都より――春嵐[しゅんらん]皇子の命で参りました」
 朧姫は、その名に目をみはった。
 春嵐皇子。
 それは四生嶋を統べる今上帝の、十七歳になる第七皇子であり――朧姫の許婚でもある。
「あなたは……春嵐さまとは親しくされているの?」
 その春嵐皇子と同じくらいの年頃に見える疾風は、静かにうなずいた。
「はい。春嵐さまの乳兄弟ですので」
「……春嵐さまは、ご無事なの?」
「包み隠さずに申し上げますと――巫女姫さまが神宮で襲撃されたのと、ほぼ同時刻に、お命を狙われました。ですが、ご無事です。ただ、そのまま都にいては兄君たちからの刺客が怖いので、都を離れて秘密の場所に身を隠しておいでです」
「やはり、そうだったのね……」
 朧姫はまつげを伏せた。可憐な花のかんばせに、沈鬱な翳りが落ちる。

 帝と巫女姫は、四生嶋を護る二柱の現人神[あらひとがみ]
 護国の男神――代々の帝は、女神である巫女姫を后とすることでのみ、至高[いとたか]き龍神の慈愛と加護を保てる。四生嶋全土に、安寧をもたらせる。
 そして代々の巫女姫は、ある時期がくると、夫となる者を――次に帝になるべき者が誰なのかを、龍神に託宣で教えられるようになっていた。
 第一皇子が選ばれるとは限らない。父である今上帝に疎んじられている皇子が選ばれたこともあれば、都を嫌って諸国漫遊をしていたような皇子が選ばれたこともある。皇祖の血をひく者なら、誰にでも等しく機会があるのだ。
 ――朧姫は、つい先日、その託宣を受けた。
「兄たちに末の皇子」という時点で、波乱は予感されていた。託宣にどうしても納得できない他の皇子たちが、最後の悪あがきをするのではないかと。
 巫女姫か、その許婚に選ばれた第七皇子か。
 どちらか一方の存在を抹消できれば、託宣はやり直されるしかない。たとえ自分が帝に選ばれなくとも、末の皇子に一生頭を下げつづける屈辱からは、少なくとも逃れられる。歴史を紐解けば、そういった神をも畏れぬ事件は何度かあった。朧姫の今回のことも、それに加えられるのだろう。

「疾風は、春嵐さまのおそばに仕えているのよね?」
「左様です」
「それなら、訊かせて。春嵐さまは――……朧のことを、恨んではいなかった?」
「恨む……?」
 疾風は意外そうに目をしばたたかせた。朧姫はうつむく。
「その……朧の託宣のせいで、春嵐さまはお兄さまたちに命を狙われたり、都から逃げ出さなくてはいけなくなったのでしょう? 春嵐さまが、次の帝になどなりたくなかったのなら、朧は恨まれても仕方ない」
 かつて同じような弱音を白雪にこぼしたら、
『そんなことで身勝手に怒るような狭量な男が、朧姫の[]の君に、ひいては次の帝になれるとは思えません。いいえ――たとえ龍神さまが許しても、わたしが容赦いたしません』
 と、きっぱり断言してくれたが。
 顔も知らない方のことだから、やはり、どうしても不安で――
「――巫女姫さま」
 疾風が、朧姫の暗い考えを断ち切るかのように語気を強めた。
 穏やかそうな青年が見せた強い意志に驚いて、顔を上げると、深い森の色をした瞳とぶつかった。
「春嵐さまは確かに、帝となることを特に希望も期待もしておりませんでした。しかしだからといって、あなたを恨むことなどありえませんよ。自分の意志ではなしに巻きこまれたというのなら、巫女姫さまも同じではありませんか」
「それはそうだけれど……」
「信じてください。春嵐さまは、あなたの身を案じ、いつか無事に逢える日を楽しみにしておいでです」
 ――春嵐さまが?
 朧姫の中で、まだ顔も知らない許婚の存在が、急に重みを増す。
 逢うのを楽しみにしてくれている。想像すると、妙に落ち着かない気分になった。
「……ありがとう、疾風」
 急に火照りを帯びた頬を押さえながら、朧姫は礼を口にする。心がとてもあたたかい。
 ――そのとき、ふと、疾風との距離がさっきより近くなっていることに気づいた。話す間にうっかり接近してしまったようだだ。
 瀟洒[しょうしゃ]な面差し。
 涼しい目元、意志の強そうな口元。
 今までなにげなく眺めていたそれらが不意に胸に迫ってくるようで、朧姫は緊張する。
 そういえば……若い殿方と、こんなに長い時間、ふたりきりで話すのは初めてだ。
(いつもは白雪がついていてくれたから……。どうしましょう、どきどきしているわ)
 気恥ずかしさを覚えて、小袖のたもとで顔を半ば隠しながら、視線でつい、ここにいるはずのない御庭番の少女を探してしまっていると。
「巫女姫さま」
 ずい、と疾風にさらに詰め寄られて、朧姫はのけぞりそうになった。
「な、なあに?」
「むしろあなたこそ、此度の結婚のことを、どう――」

「――おお、巫女姫さま! お目覚めでしたか」

 木戸を勢いよく開ける音と太い声が、ほぼ同時に、手狭な船室にとどろいた。
 朧姫はぴょんと寝具の上で飛び跳ねるほど驚き、疾風も、はっとして身を離す。
 あせあせと振り返り、
「まあ――髭黒さん!」
 朧姫は、ぱあっと表情を明るくした。

 戸口には、たくましい巨躯を誇る船乗りが仁王立ちしていた。
 歳の頃は三十代半ば。
 彫りの深い造作で、鼻頭に十文字の古傷がある。それと濃い髭があいまって、一見するといかめしい印象を与えるが、にっかりと笑った顔は驚くほど明るく、人なつっこい。威圧感もあるが、それ以上に、大樹を思わせる安心感を持つ男だ。
 疾風と同じような船乗り風のいでたちの上に、藍色の陣羽織をはおっている。
「髭黒」というのは朧姫がつけたあだ名で、本当の名は雷火[らいか]
 御庭番衆と連携して巫女姫を護る、水軍の船大将[ふなだいしょう]であった。

 長身をかがめながら戸をくぐった雷火は、朧姫の前にひざまずいた。
「巫女姫さまには、昨日よりもお顔の色がよろしいようで、何より」
「ええ。心配をかけて、ごめんなさい」
「いいのですよ、それより、お目覚めになられたのなら、お食事でも運びましょうか? 確か昨日は」
 ――ぐうう。
 質問された途端、昨日は絶食状態だった朧姫のおなかが、盛大に鳴った。
 ぽっと頬を染めた朧姫を、雷火はにこにことして、疾風は慈しむように見守っている。



2009.11.07. up.

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