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第2章 海賊船にようこそ!




 アレクの不意打ちの行為に、苦い経験がある白雪は、警戒心をあらわにして身構えた。
 ここは海の上。
 他に行ける場所も頼れる人もいないのだから、このいかがわしい船長にも我慢して――というか、うまくあしらって暮らすことへの覚悟は固めていた。
 ……のだが。
 きつい目でにらむ白雪に対して、アレクは例のにやり笑いを引っこめると、敬虔[けいけん]なといってもいいくらい静かで真摯な表情をしてみせた。まずはそこに驚かされる。そんな上品な表情ができたのかと。
(いや、だまされるなよわたし、この人は曲者だか、ら――……!?)
 努めて冷静さを保とうとした白雪の表情に、衝撃が走る。
 なんとアレクは、今度はひどく優雅な所作で、白雪の目の前にひざまずいてみせたのだ。まるで、武士が主君に忠誠を示すときのように。
(え……な、なにごと!?)
 予想外すぎて動けない白雪の手をすくいとる動きも、畏れ多いとでもいうように伏せた目も。
 その甲に、羽でふれるように軽く唇を押しつけた仕草も――
 まるで別人だった。
 限界まで目をまんまるにしている白雪の視線の先で、アレクがふと顔を上げる。
「目ん玉が落っこちそうだな」
 腰を伸ばし「どうよ?」というように口の端をゆがめたのは、見慣れたアレクで、白雪は不本意ながらも、妙にほっとしてしまった。
「ど……どうと言われても。なんなんですか今のは一体」
「俺の国ではキスにもいろいろ種類があるっていう例だ。今のは、敬意を示すキスだ」
「敬意……」
 白雪にはなじみが皆無の行為だが、なんとなくわかる気はした。確かにびっくりはしたが、嫌悪感や憤りは生まれなかったし。
 うなずいていると、今度はふわりと前髪をかき上げられて、額にアレクの唇が落ちてくる。
 さっきのアレクに圧倒された余韻が残っていたせいで、白雪はその接近を拒絶しそこねた。
「これが友情のキス」
「友情?」
「そう。だから、うちの野郎どもにコレやられたとしても、ビビるんじゃねえぞ」
「……まあ、これくらいなら」
 慌てず騒がず、受け止められる。気がする。たぶん。
 まじめにうなずいてみせれば、アレクは「いい子だ」というふうに目を細めて、
「それでこれが、おまえを友達として大好きだ、っていう意味のキスな」
 今度は白雪の頬に、唇を落とした。
 だんだん親密なというか、唇に近づいている気がして、危機感が電流のように白雪の身体を走り抜ける。
 ――おかしい。
 なんとなく雰囲気に流されて、教えを受ける弟子状態でおとなしくしてしまったが、よく考えれば(いや実は考えるまでもなかったが)やっていることが相当おかしい。白雪は思いっきり顔をしかめた。
「あの……今さらですが、なんでこんなことを……?」
「俺たちの国では、この程度のキスは挨拶だから、今のうちに慣れとけっていう俺の親心だ」
 ――下心じゃないのか?
 教えるだけなら別に実際に唇をつけなくてもいいのに、わざわざするのは変態船長の趣味としか考えられない。一瞬「意外に男前かもしれない」などと思って損した。
「バージルの野郎は抱きつき魔だが、この船にはその上をいく、キス魔もいるしな」
「あなたのことですか」
「俺は男にキスする趣味はねえよ」
「女性にだって、無理やりするのはどうかと思いますが」
「……だから、あれは悪かったって」
 白雪に冷ややかな半眼で見上げられたアレクが、降参というように両手を挙げる。
 しょげて見える横顔は、母親に叱られた悪ガキを連想させた。
(この人でも一応、反省はしていたのか?)
 だからと言って、綺麗さっぱり許せるわけではないが。
 それなら、この件を蒸し返すのはもうやめておう――少なくともそう努力しようと、白雪は殊勝にも思った。
「とにかく、だ。そのキス魔の野郎は、気分がよくなると誰彼構わずやらかしてくるから、用心しとけよ」
「わかりましたけど、そもそもそんなふしだらな人を野放しにするのってどうなんですか」
「多少迷惑だが、操舵手としては優秀だからな。プラスマイナスゼロってところだ」
「そうだしゅ?」
「舵をとるやつだ。名前はハロルド・シーウェル。ま、そのうち一緒に仕事させると思うが」
 ――ハロルド・シーウェル。
 白雪が、その名を頭の片隅に刻んで、「要注意人物」の棚に入れたときだ。
 アレクがまた距離を詰めてきたのは。
「じゃ、これが最後な。唇へのキスは愛情を」
「! あなたは少しは懲りてくださいッ」
 冗談を言いながら顔を寄せてきたアレクの肩を、白雪はぎょっとして突き飛ばす。
(油断ができないんだから、この人は……!)
 悪びれもせず、くつくつと性悪な笑い方をするアレクの胸元で、金色の首飾りが揺れているのが目についた。刹那、白雪は思わず叱り飛ばしていた。
「だいたい――あなたには、そのロケットの方がいるんでしょう!? わたしにこんなことばかりしてて、少しはその方に申し訳ないとか後ろめたいとか思わないんですか!」
 が。
 アレクの反応は、白雪の予想から大きく外れていた。
「……なんだって?」
 気まずそうに目を逸らすくらいはするかと思いきや、アレクはひどく面食らった様子で瞬きを繰り返している。
「バレたか」とか「ヤバいな」ではなく「ちょっと待て、何を言ってんのかわからねえぞ」という雰囲気だ。演技しているようにの見えなくて、白雪も「あれ?」と虚をつかれる。わたし……何か誤解してるのか?
「ロケットって――」
 アレクは困惑顔のまま、胸に金鎖でさげていたロケットをつまんでみせた。
「これのことだよな? でも、なんで俺がおまえを変態的にいじると、この中の奴に後ろめたくなるんだ」
 ――変態だと自分で認めたな。
「だってそれは、大事な方の絵姿を入れるものでは」
「あー、まあ……確かに、大事っちゃ大事な奴だけどな。あ。おまえもしかして、この中の相手に嫉妬して」
「何を勘違いしてるんですかあなたは!?」
「軽い冗談だよ、キレるなって。それと安心しな。ここに入ってるのは、おまえの想像してるような奴の絵姿じゃねえよ」
「え?」
 今度は、白雪が面食らう番だった。
 白雪はてっきり、ロケットの中身は「アレクの恋人」の絵姿だと推測していたのだが――
「まさか………………奥様とか?」
「てことは、最初は俺の恋人とでも思ってたのか? ――残念だな、どっちもハズレだ。悪いが俺はそこまで女々しくもロマンチストでもねえ」
「ろまんちすと」
「夢見がちって意味だ。俺がそういうふうに見えるか?」
「……力いっぱい見えませんけど。それじゃ――」
 ――そこには一体、誰の絵姿が?
 眉をひそめて問おうとした白雪の、機先を制するようにアレクが口を開く。
「それはまだ秘密だ。話せば長くなるし、ま、気が向いたら教えてやるよ」
 意味ありげな笑みで、人さし指を唇の前に立てて。
「そんなことより、おまえに土産が――ってうさんくさそうな目で見るな身構えるな武器になるものを探すな。別に何も、悪戯しようってんじゃねえよ」
「……本当にですか?」
「ほんとに信用なくしてんな俺は。ほら、これだ」
「っと」
 アレクは暗い色の材でできた書き物机の上から、何かを取り上げると、白雪にぽいと渡す。
 慌てて受けとったのは、西方風の書物だ。青鈍色の、手ざわりのよい表紙。
 薄い書物かと思ったが、ぱらぱらとめくったら、そうではないのがわかった。
「白紙……?」
「ノートだ。勉強用にやるよ。新しく覚えた言葉だとか、その日起こったことなんかをメモして、おまえ専用の航海日誌[ログブック]にしな」
「ろぐぶっく」
日記[ダイアリー]って言ったらわかるか?」
「あ、それなら……。でも書くものが」
「俺の書き物机にあっただろ? 貸してやるよ」
「ありがとうございます。でも……使い方がわからなくて」
 巨大な羽根のようにしか見えない筆など、四生嶋で使っていたのとはだいぶ勝手の違う文具ばかりなのである。
「じゃ、教えてやるから一緒に座れ。俺も航海日誌は書かなきゃなんねえし」
「…………」
「そんな冷てえ目をしなくても、なんにもしねえから。な?」
 略奪品だろうか――華やかな飾り編みのついた、アレクには不似合いに優美なランプに、灯りがともされる。
 陽は落ちて室内は暗いので、何か書こうと思ったら、ランプの置かれた書き物机に近づくしかない。木造帆船の中では、火を使ってもいい場所が非常に限られていて、白雪の二畳もないキャビンボーイの個室ではランプは使えないのだ。
「……わかりました」
 白雪は仕方なくうなずいた。
 書き物机の、アレクとは反対側の位置に椅子を持ってきて腰を下ろす。
 ――本人が宣言したとおり、アレクはおかしな真似は何もせず、白雪に文具の使い方を教えてくれた。毛筆と違って、羽根ペンとやらは書き味がやたらに硬い気はしたが、反故紙[ほごし]で練習しているとだんだん慣れてきた。
(今日のこと)
 日付を書いたところで、手が止まる。
(……って、どこまで書きとめておくべきなんだろう)
 白雪にとっては、今後の船上生活に関わる一大事だが、読み返したときにアレクの狼藉[ろうぜき]を思い出すのはどうにもシャクである。いつか四生嶋に帰る日が来たら、朧姫に話をせがまれて、これを読んでいただくことがあるかも……と考えると、いかがわしい内容は抜きにしたほうがいいか。
(というか、航海日誌ってどういうものなんだ?)
 対面でアレクが書いている航海日誌を、遠慮がちにのぞきこんでみる。
 が、残念ながら白雪は、アルファベットを逆向きから読めるほど西方語に慣れていない。
 難しい顔をしていると、アレクがふいに顔を上げた。
「なんだ?」
「え。いえ、その……航海日誌の、実物を」
「なら早く言えよ。こっちに来い、コソコソしてねえで」
 言い方はぞんざいだが、内容は親切だ。
(……こういうところは嫌いじゃないんだけどな)
 内心そんなことを思いながら、白雪はアレクの隣へと椅子を移動させる。
「俺よりもバージルが書いてる航海日誌のほうが、数字の面では間違いなく正確だがな」
「副長も書いてるんですか?」
「クリス先生もな。つうか、ランプが使える幹部連中はだいたい書いてるぞ。暇つぶしも兼ねて」
 アレクの説明にうなずきながら、目を通す。
 船の緯度・経度(数字だけ見ても白雪にはピンとこなかった)、天候(これはわかる)。乗組員に与えた罰(鞭打ちという単語を教えられて少し怖かった)、立ち寄った港(白雪の知らない地名ばかりだ)。
 そして何より、戦いのこと――
 交戦した船の名前らしきものが、ページの上に流麗な飾り文字で書かれ、その下にはいただいた物資やオライオン号の被害、戦闘での反省点や訓練を強化したいところなどが、意外なほど細かく羅列されている。
(字が意外ときれいだし……絵もうまいんだ)
 意外だ。
 ひそかに感心しながらページをめくっていくうちに、ひとつの船の名前が気になった。
『ダークナイツ号』。
 その名が、アレクの航海日誌には、やけに頻繁に出てくる。
「闇の夜……?」
「いや、『闇の騎士たち』って意味だ。乗ってるのは騎士には程遠い奴らばかりだがな」
「もしかして……海賊船ですか?」
「正解」
 白雪にわかる単語を拾って読んでみると、どうやらアレクたちのオライオン号は、ダークナイツ号を追跡しているようだ。立ち寄った港で集めた情報らしきものも記録されている。全部は解読できないが、どうやら神出鬼没の海賊船らしいことだけはわかった。
「でも、そんな船を追ってどうするのです」
「決まってんだろ? ディヴィ・ジョーンズのロッカーにぶちこんでやるんだよ」
 アレクはにやりと笑って言い放った。
 妙に乾いた声音だった。
「お宝をたんまり腹に抱えてるし、乗組員にかかってる賞金もでかい。それに俺たちは――……いや、とにかく、そいつを拿捕[だほ]すんのが、この船の最優先の目標だ。そうじゃなきゃ、こんな世界の裏側まで足を伸ばしてなかっただろうよ」
「…………」
「どうした。反応がにぶいな」
「……いえ」
 白雪は言葉をにごした。
 何度も見た笑い方のはずなのに、心臓を冷たい手でつかまれたようにぞくりとしたのは、青い右目をよぎった光が今までになく鋭いものだったからだ。視線が刃になるのなら、それで手が斬れてしまいそうなほど。
 金髪の海賊からは視線を引き剥がし、白雪は自分の日誌を書くのに集中するそぶりをした。
 そうしながら考える。
(……ディヴィ・ジョーンズ)
 クリストファは「ディヴィ・ジョーンズのロッカーに入る」は「海の上で死ぬ」という意味だと教えてくれた。
「ぶちこむ」というのは、ならば――
(殺す、ということか)
 ――ダークナイツ号の海賊を、すべて。
 そして根こそぎ略奪するのか。
 理解し、同時に想像したとたん、背骨が氷の柱になったかのように寒くなる。
 白雪は、忍びの一族の娘だ。父や一族の者たちが、戦装束から常に火薬と血のにおいをさせているような状態には、幼い頃から馴れている。人の死をなんとも思わないとは言わないが、人殺しだからといって大騒ぎはしないだけの精神力は、自然に育っていた。
 ……そのはずなのに。
 アレクの海賊としての冷酷な本性を垣間見た気がしたこのとき、白雪が感じていたのは間違いなく畏怖だった。
(ただのちゃらんぽらんな変態じゃない)
 荒んだ迫力と、相手を凍りつかせるような威圧感を、彼は確かに秘めている。
 ここが海賊船で、目の前にいるのが海賊だということを、改めて思い知らされた心地だ。
 それにもし、ダークナイツ号とやらに遭遇したら――
 否。
 航海日誌にあるように「獲物」の船を見つけたら、白雪はその略奪行為に協力しなくてはいけないのだろう。アレクの「所有物」扱いで、庇護される代わりに、この船で働くことを約束した以上は。
 借りた羽根ペンを握る手に震えが走り、それを抑えようとしたら不自然に力がこもった。
 爪がてのひらに喰いこんだ痛みで我に返るが、どす黒い霧のような不安感は、すでに胸をすっぽりとおおっていた。
(……憂鬱だ)
 白雪は、アレクには気づかれないよう、こっそりとため息をつく。
 マヌケなことに、白雪は、アレクと取引した時点ではそこまで考えていなかった。身の安全を確保するのに夢中で。
 しかし、朧姫や仲間を護るために戦うのならいざしらず、私利私欲にまみれた略奪と殺戮に力を貸すのは、根がまじめな白雪にはやはり抵抗があった。父だってそんなことをさせるために白雪を鍛えたわけではないだろうし、純真な朧姫にも顔向けができないではないか。
(できれば、何も起こらないといいんだけど……)
 獲物を求める海賊たちには申し訳ないが。
 白雪は、そう願わずにおれなかった。


 ――それは儚い願いに過ぎなかったと、わずか数日後に痛感させられるのだが。



2009.11.01. up.

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