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第2章 海賊船にようこそ!




「今日みたいな風が続けば、1週間もせずにグラティザンに到着だぜよ。――けど、本当にこれでいいのかい?」
「何がだ、バージル」
「結局『あの船』の航跡はつかめないまま寄港するんだ。負けた気分になったりは」
「しねえよ。3ヵ月も無寄港ってのは、俺もちと意地を張りすぎた。補給はともかく、野郎どもにはガス抜きが必要な頃合いでもあるしな」
「欲求不満が爆発して、おちびさんが襲われたりしても困るしなあ」
「腐った妄想はやめろ。だいたい襲ったのはおまえ――……いや、まあいい。グラティザンでは情報も集められるし、それで一度仕切り直そうぜ」
「ん、俺も異論はないぜよ。ほんじゃ、御意のままに、アレク船長」



 日没の少し前。
 夕食兼幹部との打ち合わせを終えたアレクは、新入りへのちょっとした土産を手に、船長室の扉を――
「――うお!?」
 開けた途端、目を疑った。
 というか部屋を間違えたかと思った。住み慣れた船内では、まずありえないことだが。
 我ながら「男の一人部屋ってのはどうしようもねえな……」と思うレベルで散らかっていた船長室が、綺麗に片づいているではないか。こんなに広々とした床を見たのは、一体いつ以来だろうと素で思う。
 薄暗くなりはじめた室内を感心したように見回しながら、埃を払い綺麗にみがかれた書き物机の上に、なにげなく「土産」を置いた時――
「……ッ……」
 部屋の片隅で、物音と気配がした。
 ぐるりと視線を向ければ、案の定、今日キャビンボーイに命じた男装の少女――白雪が視界に入った。縁に雑巾を引っかけた桶を手に立ち上がりかけた格好のまま、夜の濃紫の瞳をみはってアレクを凝視している。
 ――やはり片付けをしてくれたのは、彼女だったか。
 そこは納得したが、白雪が不自然に目をそらしたのに、アレクは妙な引っかかりを覚えた。
 逃げだす隙を探しているかのように、四肢を強張らせているのも気になる。
 アレクが探るように凝視する先で、白雪が早口に言った。
「クリス先生に頼まれたので――掃除と片づけをしました。あのまま散らしつづけていては、いずれ疫病が発生しかねないと」
「……えらい言われようだな。そこまでの惨状だったとは思わないんだが」
「もう少しで終わりますから。わたしのことは気にせず、あなたは好きにしていてください」
 強引に会話を断ち切って、白雪はあせあせと作業を再開する。
 ……何かおかしい。
 別れぎわにからかったから不機嫌なのか? と最初は思ったが、どうも違う気がする。
 普通にしていても「そんなに睨むなよ」と言われてしまうほど目つきの悪いアレクだが、この少女はそんなことでひるむタマではない。思いっきり舌に噛みついて、兇器を向けてきたときの瞳など、まるで狼の仔だった。
 しかし今の白雪は、まるで敵の気配にびくつく小動物のようである。
(避けられてるよな……?)
 そうとしか思えない。
 大急ぎで片づけを終え、桶を抱えて脇をすり抜けようとした少女の二の腕を、アレクはとっさに捕まえた。
 びくり、と露骨にその身体が震える。――なんだこの反応は?
 胸騒ぎがしたアレクは少女の顔を強引にのぞきこもうとするが、抵抗される。
「なんでそんなに暗い顔してんだ? うちの野郎どもに、尻でも撫でられたか」
「違います!」
「だったらどうした。言えよ、心配になるだろ」
「別に、……なんでもありません」
「なんでもないってツラじゃないから訊いてるんだ」
 アレクは食い下がるが、白雪も強情だった。固く引き結んだ唇が、声にせずとも「言いたくない」という意思を主張している。
 それならと、アレクは攻め方を変えることにした。
「船長命令だ。桶をそこに置いて、俺の目を見て、なんで俺を避けるのか説明しろ」
「な」
「乗組員の状態を把握するのは、船を指揮するにあたって大事なことだからな。さ、答えろ」
 白雪は「その言い方は卑怯だ」と責めるような色を、大粒の瞳に浮かべはしたものの、表立っては反発しようとしなかった。
 巫女姫とやらに仕える身分だったせいか、親に厳しく育てられてきたせいなのか、はたまた他の理由があるのか。――この東方人の少女は、こんなふうに上下関係や歳の差を持ち出されると、強気に出にくくなる性格らしいのだ。
 つまり、しつけがよく、まじめで礼儀正しいという意味だ。
 アレクのようなひねくれ者が相手では、弱点にしかならない美徳だが。
「…………」
 白雪は口ごもりながら、渋々といった様子で、桶をそっと床に下ろす。
 口を開いて、また閉じる。
 ためらうようにその動作を何度も繰り返す白雪の頬がなんだか妙に赤いのが、夕明かりのせいだけではないようだと気づいて、アレクが眉宇をひそめたとき――少女が、きっ! と視線を上げた。やけくそのように叫ぶ。
「まさか、あ……あなたと、6回もしていたなんて思わなかったから……あなたの顔を見るのがどうしても微妙で……それだけ、それだけなんです!」
 今度はアレクが硬直する番だった。
 何を「していた」のかは、はっきり言葉にされなくても、彼自身がよくわかっている。
 ……わかっているだけに、非常に居心地が悪かった。
「おまえ……それ、誰に聞いた?」
「クリス先生に『人工呼吸』という言葉の意味を聞いたら、ついでに教えてくれて」
「…………そこからか」
 熱湯でボイルしたタコみたいに顔を真っ赤にしてうつむいてしまった少女を前に、アレクは額を抱えた。
 あの、知識人だが変なところで天然を炸裂させる船医のことだ。人工呼吸は救命措置だからと、このまじめな少女がショックを受けるなどとは夢にも思わず、さっくり事実を説明したに違いない。例の穏やかで冷静な話し方で。
(恨むぜクリス先生……)
 ついでに、緘口令を徹底しきれなかった自分にも「ばか」と呟いておく。
 アレクはとりあえず白雪をなだめた。
「ええとな……6回目のアレは正直俺が悪かったが、あとの5回はそういうんじゃねえから」
「……わかってます。わたしを助けるためにしてくださったことでしょう? 怒る気も根に持つ気もありません」
「そう言うけどおまえ、まだ顔が真っ赤じゃないか」
「! こ――これは顔が勝手に熱くなってるだけで、わたしは別にあんなことを気にしてなんかいません! いないったらいないんです、わたしは……ッ」
 アレクにつかまれていないほうの手で顔をおおい、白雪は言葉を詰まらせる。
「あんなこと」を思い返した途端、羞恥で絶句してしまったのは、ひと目でわかった。
 それは微笑ましいのだが――
(……なんつうか)
 アレクも、なんとも言えない表情になった。
 異性を相手にして、こんなに困ったり後悔したのは生まれて初めてかもしれない。
 後悔なんて大嫌いだが、6つも下の少女をもてあそんだも同然なので、罪悪感が。
 誰にともなく、ため息が出た。
「そういえば――おまえの国では、初めてのキスは結婚相手と、とかいう慣わしでもあるのか?」
 白雪が、怪訝そうにアレクを見上げる。
「……別にそんなものはありませんけど……。なんですか、急に」
「いや、なんつうか」
 アレクは金髪をがしがしとかき乱しながら、彼にしては慎重に疑問を口にした。
「俺がおまえくらい美人だったら、17になるまでに男を何人も落として遊んでただろうになって、今ふと思ったんだよ」
「変態のあなたと一緒にしないでください」
 ――途端、蔑むような冷たい目線と声が返ってきて、アレクの頬が引きつった。
 嫌われても無理はないが、こうも露骨に態度に出されれば、それなりにはショックである。
「変態って。おまえ、どこでそんな言葉を覚えてくるんだよ」
「今日。クリス先生に、西方の少し俗っぽい言葉も習ってきましたから」
「マジで何を教えてんだあの先生は……」
「この船でもし万が一のことが起こったら『変態!』と大声で叫べと教えてくれました。他にもいくつか、使えそうな表現を」
「いや、言わなくていい。それより俺の質問への答えはどうなんだ?」
「質問?」
「要するに――恋愛とかしたことはないのかって」
 ――おいおい、なに恋愛とか言っちゃってんだ俺は。
 口に出すと非常に面映いし、うっかり顔から火が出そうにもなったが、聞かずに済ますことはできそうにないので、アレクはしかめ面のまま、不似合いな言葉を押し出した。女にこんなストレートな質問をするなんて初めてだし、今後も一生ないだろう。
「恋愛……って」
 頬の火照りを冷ました白雪は、戸惑いがちに眉根をよせている。
 アレクの間の抜けた質問をばかにしている様子はないが、純粋に「どうしてそんな質問をするのかがわからない」という様子で首をかしげている。
「父上の許しもなく、勝手にそんな真似をするなんて、考えたこともありませんが」
「いや待て。なんでそこで父親が出てくる?」
「母はわたしが小さいときに亡くなったので」
「そういうことを訊いてるんじゃねえよ」
 ズレた答えがもどかしい。
「どうして父親の許しがいるとか思うんだ? 普通、そういうもんじゃないだろ」
「でも、わたしにとってはそういうものです。――わたしは18になったら、一族でもっとも優秀な忍びをお婿さまにするはずでしたし……そうすることがわかっているのに、他の殿方と遊びの恋愛をするなんて、わたしには」
「……おまえ、結婚相手がいたのか」
 言っていることは非常に白雪らしく、きまじめだなこいつと納得させられるのだが、そこは驚いた。意外すぎる。いや、17歳なら不思議はないのだが。でもなんだか釈然としない。
 白雪は事もなげに言う。
「まだ誰になるのかは、決まっていませんけど……」
「でも、結婚は絶対にしなきゃならないのか」
「はい。女のわたしでは、父上のもつ忍びの技術を、完璧には受け継げませんから。一族の力を守るためには、どうしても男性の後継者が必要なんです。わたしには恋愛なんかより、その人と結婚していかに強い男の子を生むかが大事で」
「……あのな。さっきから気になってたんだが、なんでそんな、他人事みたいな口調なんだ? おまえの結婚だろうが」
「わたしのというより、一族の血と技術を、次の代につなぐための結婚です」
「おまえな……」
 とうとうアレクは額を押さえた。
 なぜだろう。……だんだん腹が立ってきた。
 白雪個人に、ではない。この17歳の少女を、自分の人生の一大事をひどく淡々とした瞳で語らせるように育ててしまった「父上」とやらが、アレクは無性に気に食わなかった。義憤といってもいいかもしれない。
「それじゃ、まるで一族のための道具じゃねえか」
「それではいけませんか」
 心から不思議そうに訊き返されれば、また妙な苛立ちがつのる。
 白雪はあいかわらず「どうしてこの人は、こんなに怒っているのだろう……?」という表情で、こちらを見上げている。
「いけないとかじゃなくて、普通はそういうのはイヤだろうって言うんだよ」
「……普通は、そうなのかもしれませんけど。わたしは――」
 白雪は、ふっとアレクから視線を外すと、何かを探すかのように窓のほうに見やった。
 伏せた長いまつげが、白い頬に濃い影を落とす。
 凛とした表情のときなら「華奢で美しい少年」でもギリギリ通るが、こういうときの彼女は少女にしか見えない。
 この――自分の命以外の何もかもを失ってしまったかのような、疲れた表情をするときは。
 やがて、白雪はあまり抑揚のない声で言った。
「たとえ道具でも、父上の役に立てるのなら、わたしはそれでよかったんです。父上はいつもお役目で大変そうで――なのに、わたしはちっとも力になれなくて。わたしが道具になることで、父上の悩みをひとつでも払えるのなら、それで十分です。いえ……十分だったんです」
 ――海から引き揚げた彼女が最初に見せた、寂しい瞳が、アレクの脳裏をよぎった。
 なぜだろう。
 ……妙にイライラするのは。
 胸を灼いた苛立ちに突き動かされるまま、アレクは空いていたほうの腕も伸ばし、おもむろに少女を引き寄せた。アレクの国の同年代のレディに比べると骨がやけに細い気がする華奢な身体は、彼の腕にすんなりとおさまる。
 だが、それは一瞬にも満たない間のこと。
「……!?」
 事態の急変に気づいた少女は、もちろんすぐに暴れだそうとする。
 アレクは彼女が攻撃の態勢を整える前に、その細い顎をつまんで顔を上げさせる。
 だが唇が重なる寸前に、白雪が、思いっきりアレクの横っ面を張り飛ばした。
「いってえ」
「何をするんですか、いきなり!?」
「……いや、何って」
 直球で詰問されると、アレクも答えにくい。
 ひりひりする頬を押さえて考えてみるが、自分の衝動的な行動の理由が、自分でもつかめていなかったりする。
 別に、どうしてもこの少女にキスがしたくなったわけじゃない。そこまで溜まってないし、溜まっていたとしても(実際は17歳だが)14歳くらいにしか見えない小娘で欲情を解消する趣味はないし、前にやったアレだって最初は単なる悪ふざけのつもりだったし……。
 悩みながら、抱擁から逃げ出して、少し離れた場所に少女を見下ろす。
 顔がまたトマトみたいになっている。
 思わず口をついて出たのは、得意のからかい文句だった。
「キリがいいように、7回にしてやろうかと思いついて」
「キリがよくなっても全然うれしくありません! あッあなたという人は……!」
 ――反省心のかけらもないのか!
 悪いとは思っているアレクは、真っ赤になって殴りかかってきた白雪に、頭や胸板をぽかぽか殴られるままにされた。
 されながら、ふと気づく。
(……ああ、要するに俺は、こいつが暗い顔をしてんのがムカつくんだな)
 頬は見事に腫れているが、白雪の瞳が(怒りと羞恥のせいであれ)活力を取り戻したのには満足している自分に気づき、アレクはひとりでうなずいた。
 が、「おまえに元気を出させたくて」なんてこっ恥ずかしいセリフを口ににするのは死んでも御免だったから、くだらない言葉でごまかしておく。
「ま、冗談は横に置いといてだな」
「冗談でも悪趣味すぎます! まじめに話をしてるかと思ったら、あなたはどうしてこうッ」
「まあ、落ち着け。俺は……そう、おまえに『自由』を教えてやりたくなったんだよ」
 特に考えもせずに紡いだ言葉だったが、それが逆によかったのか。
 ああそうだ、俺は本当はこいつをそうしたかったのかと納得できて、アレクは実にすっきりしたのだが、白雪は余計にうさんくさいものを見る目になって彼から距離をとる。
「じゆう……?」
「ああ、知らない言葉だったか?」
「いえ、知ってはいますけど――あなたの非常にいかがわしい行為でどうして『自由』がわかるのかは、さっぱりわかりません」
 ……いかがわしい、の上に「非常に」がついたか。
 アレクは口の端をゆがめた。
 根がひねくれているせいか、自分が彼女をこづき回したくなる理由がわかったせいか。そういう態度でも、楽しむ余裕が出てきている。
「じゃ、まずそこからにするか」
「どこからですか……」
「キスだよ。――いかがわしいだけじゃないって、教えといてやる」
「…………は?」

 明らかにイヤそうな顔で逃げ腰になる少女とは対照的に、アレクは彼にとっては最高に愛想のいい笑みを浮かべてやった。



2009.10.27. up.

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