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第2章 海賊船にようこそ!




 明るく雰囲気のよい医務室には、乗組員たちがしょっちゅう駆けこんできた。

「クリス先生〜! ちょおっと木槌で指ぶっ叩いちまったんだけど〜」
「血は出ていませんね? 内出血しているだけですから、よく冷やしておきましょう」
「うぃークリス先生……頭がぐわんぐわん言ってるぜぇ」
「ただの二日酔いですよ。しばらくはラム酒を控えることですね」
「クリス先生、頭痛……」
「熱は……ないようですね。とりあえず痛み止めの薬湯を飲んで、少し様子を――」
「クリス先生! 釣ったクラゲにさわったら、手が赤く腫れてきちまったぜよ!」
「……あなたはまず釣りをやめなさい、バージル副長」
 ――等々。
 乗組員たちは、わりと軽い症状でも、すぐにクリストファを頼ってくる。
 薬代が高くつくから、死ぬほど身体がつらくならない限り、医師の世話にはならないのが普通という環境で育った白雪からすれば、これは驚くべきことだった。「大の男が、なめておけば治る傷で騒いで、みっともない」等々は考えないのだろうか。
(みんな、軟弱者には見えないのに)
 不思議である。
(それとも……クリス先生が慕われてる、ということなのかな)
 クリストファに頼まれた薬瓶を出したり片付けたり、助手のようなことをしながら、異国の男たちについて考えているうちに、来客(?)の嵐は一段落した。部屋の外から聞こえてくるかけ声を聞くに、お昼ごはんの時間になったようだ。
 消毒用の酢を床にまき終えると、クリストファが言った。
「すみませんでした、病み上がりのあなたに手伝わせてしまって」
「いえ、わたしはもう身体は平気ですし……。少しでもお役に立てたのなら、うれしいです」
 何もせずに、忙しくしているクリストファを見ているだけのほうが、よほど心苦しかった。
「そうですか? とても助かりましたよ」
「……本当ですか?」
「ええ、本当ですよ」
 ふんわりと微笑んだクリストファに、白雪は大きな安心感をもらう。
 右も左もわからず、意味のつかめない異国語もとびかう帆船の中では、絶えず不安をあおられてしまうのだが――自分の両手でできることがあるという事実は、小さくなっている白雪の心を、確かに支えてくれたのだ。
 そんな白雪を見守っていたクリストファが、何かを思い出したように「そういえば――」と口にして、にわかに硬質な空気をまとった。
「もうひとつ、あなたに謝罪すべきことがるのを思い出しました」
「え? クリス先生がわたしにですか」
「ええ。実は――その、先ほどずぶぬれのあなたを手当てするとき……あなたが女性ではないかという推測を確かめるために、胸の上部を見てしまって。意識のない女性に、失礼なことをして申し訳なかったと思っています。許していただけますか?」
 大人の男性に真正面から、ひどく律儀に許しを乞われて、白雪はうろたえた。
「……そ……それは、ええと……怒るつもりなんて、ないですけれど」
 許すも何も。
 上部――というのなら「胸元を軽くはだけてのぞいた」程度だろうし――そもそもクリストファはお医者さまだ。お医者さまに身体を見せるなんて、ちっとも恥ずかしいことではないはずなのだが、こうも本気ですまなそうに目をそらされると、逆に恥ずかしくなってしまう。
 白雪は熱い頬を手で押さえた。
 でも……。
(……本当に、まじめな人なんだなあ)
 クリストファの、そういう部分には胸がほっこりした。
 さっきまで目つきも口も性格も悪い船長にいじられつづけていたせいか、余計に、この誠実でやさしい匂いを持った船医がまぶしく見える。
 この人がわたしのことを女だと知っていてくれるのなら、男の演技をがんばれそうだ、とも思えた。
(さっきの人たちも、クリス先生のことが好きで、つい頼ってしまうんだろうか?)
 かもしれない。
 あのいかがわしい船長とは大違いだ。
 アレクに唇を奪われたことは、クリストファには絶対に言わないでおこうと胸中で決める。
 なんとなく、この清廉な人には知られたくなかった。……困らせてしまいそうだし。



「どうぞ」
「……これは?」
 勧められるまま、床に金具で固定されたテーブルにつくと、木の椀が差し出された。
 中では、葛湯[くずゆ]のようにとろみがかった液体が湯気を立てている。
「病人用の携帯スープです。今日はそれで我慢してください。栄養はありますから」
「携帯すーぷ?」
「野菜や薬草を煮詰めて、とろみをつけたものです。あなたの国の言葉でいうと『アツモノ』や『シル』になりますか」
「へえ……」
 揃いの木の[さじ]でひと口すくってみれば、野菜のほのかな甘みと、薬草の豊かで食欲をそそる香りが、喉をするりとすべり落ちていく。鶏肉かその骨で丁寧に出汁[だし]をとったらしく、肉の深い風味もあった。
 航海中においしい食事を期待してはいけない、とよく言われるのに、予想外に美味しくて、白雪の口元がゆるむ。病人用らしく塩の味はごく薄いが、それがかえって白雪好みである。
「食べられますか?」
「おいしいです、すごく」
「それはよかった。実は、私がレシピを考案したスープなんですよ」
「れしぴ」
「料理の作り方、という意味です。まあ、しょせん料理長の領域には届きませんけどね」

(……料理まで得意なんだ、クリス先生)
 さっき使わせてもらった湯からも花の香りがしたが――こまやかな人だ。
 これは乗組員が、医務室に通いたがるわけだ。
 白雪の対面に座ったクリストファは、先ほど若い乗組員が運んできた豆の煮込みのようなものを淡々と――そしてちょっと見惚れるくらい行儀のよい食べ方で胃におさめていたが、途中で手を止めると、穏やかな声で訊ねてきた。
「そういえば訊くのを忘れていましたが、アレク船長とはどんな話をしたのですか?」
「それは――」
 白雪が(あのいかがわしい行為の部分だけは除いて)アレクとの「取引」のことを話すと、クリストファは納得した顔でうなずいた。
「キャビンボーイというのは妥当な選択ですね」
「そうですか?」
「アレク船長の召使[めしつかい]というのは――言い方は悪いですが、彼の所有物ということでもありますから。他の乗組員は、あなたにちょっかいをかけづらくなります。立場としては確かに最下層の雑用係ですが、あなたの身の安全のためには一番でしょう」
「……身の安全……」
「どうかしましたか?」
「いえ、いいえ、何も!」
 ――他の乗組員からは守られても、船長が襲ってくるのにはどうしたら!?
 なんて言えない。
(でもまあ……あの口づけは、わたしを試しただけだっていうから、またしてくることはないはずだし。そうでないと困るし……ッ……駄目だ! 思い出すだけで腹が立ってきた、あの船長を殴りたくなってきた!)
 暗い表情をしていたと思ったら、急に赤くなったり、拳を握りしめたり。
「……?」
 白雪の百面相の理由がわからないクリストファは、首をかしげながらも、突っ込まない方がいいということだけはなんとなく察したようだ。さりげなく気づかないふりをして、眼鏡をふきながら、話題をそらした。
「それと。フィロと組めというのも、アレク船長にしては気の利いた選択ですよ」
「それは……どのあたりがですか?」
「フィロは、あまり他人のプライベートに興味を持ちませんし――あなたは日常会話はこなせるようですが、船乗りの専門用語はあまり知らないでしょう? 逆に、フィロは日常会話はまだおぼつかないのですが、船乗りの言葉は完璧に理解しています。仕事を通して、互いに言葉を教えあえ、ということでしょう」
「……なるほど」
 理路整然とした言葉に、白雪は素直にうなずいた。それなら、男ではないことがバレにくいかな。
 ――眼鏡を外したクリストファは印象がずいぶん変わるな、と頭の片隅でついでに思う。
 まなざしに宿る怜悧さからくる、お堅く潔癖そうな印象がふとやわらいで、優男っぽさが増すのだ。
「フィロはやっぱり、異国の人なんですか? その、わたしみたいに」
「ええ。私も根掘り葉掘り聞いたわけではありませんが、ログレス王国からはだいぶ離れた、沙漠の国の生まれということは確かです。だから暑さと乾燥にはとびきり強いですし、かなりの細身のわりには力もある」
「……強そうです」
 フィロの汗の似合わない涼しげな無表情を思い出し、白雪は納得してうなずいた。
 ――ログレス王国からはだいぶ離れた、沙漠の国の生まれ。
 そんな人が、なぜこの海賊船に……?
 興味を覚え、同時に、ふと疑問に思う。
「そういえば、船長もクリス先生も、わたしの事情をあまり詳しく訊こうとしませんね」
 白雪が話したのは「わたしは姫の護り手で、敵に追われて海に落ちたのだと思うが、記憶がところどころ抜けている」程度だ。
 自分で言うのもナンだが、うさんくさいと思う。
 するとクリストファは、脚を組み直しながら事もなげに言った。やわらかな波の音に似た、静かな声が耳をうつ。
「このオライオン号には、いろいろな事情を抱えた乗組員がいますからね。それに、たまたま海を漂流していて、たまたま船長に助けられたあなたが、この船に何か悪いことを企んでいるなんて思いませんよ」
「じゃ、クリス先生はどうして、海賊船でお医者さまなんてなさってるんですか?」
「似合いませんか?」
「あまり」
「それは困りましたね。これでも精一杯、海賊らしくしているつもりなのですが」
 ……真顔すぎて、冗談か本気かわからない。
「あなたには私がまともに見えるのかも知れませんが――西方の基準では、私もじゅうぶん常識外れで、はぐれ者なのですよ。たとえば、あなたが食べた携帯スープと、ミント系の葉をミックスしたお茶ですが――そこに使われているハーブという薬草は、西方では『悪魔のもたらした草』と呼ばれています」
 ――つまり私は、西方では「悪魔の力を借りる[よこしま]な医者」というわけです。
 クリストファは淡々と言う。
 窓の向こうから響く、波が船体にあたって砕ける水音が、医務室を満たす。
 しばしの沈黙ののち、眼鏡をかけ直したクリストファは、素直に感心した様子しか見せていない白雪を意外そうに見つめた。すみれ色の瞳に宿るのは、道端で今まで見たこともない花を発見したかのような表情だ。
「おや。あなたは、そう聞いても怖くはならないのですか?」
「怖いというより……ええと……そう、親近感を感じてました」
 不慣れな西方語を、白雪は慎重に選んだ。
 すると、ますますクリストファの表情が驚きと戸惑いの色を濃くする。
「親近感、ですか?」
「わたしも、故郷の四生嶋[しきしま]では、クリス先生と同じような立場でしたから」
「というと」
「わたしは『忍者』と呼ばれる一族の末裔なんですけれど――忍者はあやしげな忍薬をばらまいたり、普通の人なら知らないような方法で火薬を調合したりして戦うせいか、忍者ではない人からは『魔人だ』『闇の生きものだ』って、化け物扱いされているんです」

 忍者には、実際には、魔性の力も闇の加護もない。
 ただ――一族の者たちが皆、ちょっと薬草と火薬の調合方法を熱心に研究していて、ちょっと普通の人よりも五感の鋭さや運動神経に恵まれていて、ちょっと集団で連携して動くのが得意で、ちょっと演技や嘘がうまいだけだ。
 それらの「ちょっと秀でたところ」が、一族の長がたてる綿密な計画の下に組み合わされて機能することで、忍者ではない人間には想像もつかぬような効果と威力を発揮する。忍者が魔人扱いされるのは、ひとえにその奇想天外な活躍の仕方ゆえだ。

「本当はただの人間なんだって説明しても、全然信じてもらえなくて。朧姫[おぼろひめ]さまに仕えている間も、さんざん陰口を叩かれてました。だから、クリス先生が『悪魔のもたらした草』で誤解されてしまうのも、他人事には思えないです」
いろいろと思い出せば、ほろ苦い笑みが頬をよぎる。

 ――闇の化け物なんぞが、神に仕える巫女姫を守ることを許されるはずがないのに。
 偏見はやはり消えず、白雪は、一族以外の人間と親しくできたためしがなかった。巫女姫の世話をする侍女たちには遠巻きにされたし、ひどいときには「目が合っただけで呪われる」とまで囁かれていた。
 例外は、巫女姫その人だ。
 朧姫ときた日には、高貴な姫育ちとは思えぬほど果敢で、気性がおおらかで……。
 いつものように一線を引いたお付き合いをしようとしていた白雪に、恐れ気なく近づいてきて「朧はあなたが気に入りました。お友達になりなさい」と驚きの命令をしたかと思ったら、白雪から忍者の話を熱心に聞いて、忍者の真似事までしだした。

(……姫さま)
 無邪気だが、包むような温もりにあふれた笑顔が、なつかしくて遠い。
 この波の音のはるか向こうで、あの可愛い巫女姫さまは、どうしているのだろう……?
(逢いたいな)
 ふと視線に気づいて顔を上げると、クリストファが意外そうに瞬きしながら、白雪を凝視していた。
 見たこともない表情に面喰らい、白雪は椅子の上で、わずかに身を引く。
「あの……わたしの顔、何かついてますか? クリス先生」
「あ、いえ、そうではなく」
 クリストファは少し慌てたふうに首を振った。
「初対面の、しかも女性にそんなふうに理解していただけたのは初めてなので、驚いてしまったんです。――ありがとうございます。」
 はにかむような笑顔は、常に浮かべている穏やかなそれと違って――大人の男性にこんなことを言うのはおかしいかもしれないが――可愛い、と白雪は思った。
 ほのぼのとした空気が、2人の間に満ちる。
「そうだ――クリス先生のその『悪魔のもたらした草』の中に、失った記憶を取り戻す力を持つものってありませんか?」
「記憶、ですか?」
「はい。実は――」
 白雪はうなずき、バージル副長の話で謎が深まった、記憶の欠落部分について説明した。
「そういうことですか……」
 真剣な表情で聞き終えたクリストファは、しばし黙考したかと思うと、まったく関係のないような話をしはじめた。
「海で人が死ぬと、船乗りは『ディヴィ・ジョーンズのロッカーに入った』と言います」
「ディヴィ……?」
「海の底の墓場に呼ばれて死んだ、というような意味ですね。あまりいいイメージの言葉ではありません。――私はあまり好きな表現ではないので、海の神様が精一杯生きた船乗りに安らぎを与えるために、天国に連れていったというふうに考えているんです」
「海の神様……ですか」
「ええ。海に生きる人間の、運命を司る神です。神様には誰も逆らえません」
「…………」
「つまり何が言いたいかというと――あなたの失われた記憶も、その海の神様が『今は思い出さないほうが幸福だから』一時的に封印しているのかもしれないということです」
「そんな」
 船医の消極的すぎる提案を受け容れかねて、白雪は眉をハの字にした。記憶が欠けて、わたしはひどく落ち着かないのに。
 早く取り戻したいのに――
 だから、つい、非難がましい口調になってしまった。
「お医者さまなのに、クリス先生はそんなに神様を信じてるんですか?」
「医師だからこそ、ですよ。――自分は神様ではないことを常に自覚していないと、とんでもない不幸な事故を招いてしまう職業ですから」
 さらりとした口調だが、経験からくる重みが底流にはあり、白雪は反論の言葉を失う。
 クリストファは諭すように続けた。
「話が逸れましたが――要するに、このオライオン号が風なしでは動かないように、あなたの記憶も、しかるべき時がくるまでは自力ではどうにもならないものと割り切ったほうが、精神衛生上よいだろうという話です。今のあなたには、ただでさえ『男のフリ』という重荷がついて回っているのですから、悩みは少ないほうがいい」
「…………」
「あなたは記憶を失った、いわば怪我人です。怪我人は焦らず、まずは自分の身体を大事にすることを最優先にしてください。これは医師としての忠告です」
「……はい」
 完全に納得したわけではないが、白雪は従順にうなずいた。
 クリストファが白雪の心身を誠実に案じてくれていることは十二分に伝わってきたから、その想いにこたえたいと思ったのである。
「では午後は、まず言葉の授業をしましょうか。七つ道具のことも教えますよ」
「! よろしくお願いします」
 そうして皿を片付けながら、そういえば――と思い出して、白雪は口を開いた。

「ところでクリス先生――今のとは全然関係ない話なんですけど、『じんこうこきゅう』とはどういう意味なんでしょう?」

 その意味を知って白雪が「聞くんじゃなかった」と心底後悔するまで、あと3秒もない。



2009.10.22. up.

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