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幕間




 胸にさらしを巻くのは慣れている。
 朧姫を警護するとき、宮司服を着て動き回るのに、邪魔にならないよう同じことをしていたから。朧姫は「紅白の巫女装束のほうが可愛いのに……」と、白雪が男性用の宮司服ばかり着るのを残念がっていたけれど、どうしても気が進まなかったのだ。
(……変な意地をはらずに、一度くらい、着てみせてさしあげればよかったな)
 今になって、そんなことを思う白雪である。
(戻れたら……その暁には)
 キャビンボーイ用だという狭い部屋から船長室に向かい、アレクと再び顔を合わせれば、上から下まで観察された。
 何か足りない、とでも言いたげな表情である。
「そうだ」
 やがてうなずくと、アレクは部屋の隅にあった衣裳箱とおぼしき木箱から、深紅色の地に変わった形の葉の模様が踊っている布きれを持ってきた。
「これは」
「スカーフだ。怪我しないよう、頭に巻いとけ。特に新入りには必ずつけさせてる」
 スカーフという単語は初耳だったが、頭巾や鉢巻みたいなものか、と白雪は解釈する。
 束ねた黒髪の上から、もらったスカーフを頭に巻きつけると、なかったときよりずっと表情が引き締まった気がした。これなら細身の少年海賊といっても通るんじゃないかと、白雪も少し男装に自信が出てくる。
「……ところで、ひとつ質問があるのですが」
「なんだ?」
「キャビンボーイの部屋というのは、どうしてあんなふうになっているんですか?」
 ふと思い出し、白雪はげんなりとした口調で訊ねた。
 暗くなる彼女を見下ろしたアレクも、片方しか見えない目を細め、しかめ面をした。
「なんだ。狭いってか?」
「そんなことで文句は言いません」
 空間が限られている船の中だ。どんなに狭くて物置同然だろうが、昼でも薄暗くて埃だらけだろうが、新参者の分際で個室がもらえるのは破格のことなのだと、白雪にはなんとなくわかっている。四生嶋の水軍では、若い水夫たちは集団で雑魚寝をしていると聞いた。
 ただ、問題は――
「ここの部屋から直通の扉があるのがイヤなんです」
「おまえ今イヤって言ったな? はっきりイヤっつったな?」
「言いました。当然でしょう」
「……はっきり言うやつだな」
 アレクも白雪に負けないくらい、げんなりとした表情で、問題の扉を見た。
 キャビンボーイの部屋に、扉は2つある。
 1つは当然、船内の通路へとつながっているが、もう1つは開ければすぐアレクの散らかった部屋が目に入るという代物だ。通路に出るほうには単純な鍵がついているが、船長室に通じるほうには、それがない。
「仕方ないだろうが。キャビンボーイってのは、ひらたく言えば俺専用の召使いなんだから、俺が呼んだときにすぐに来られるようになってなきゃ困るだろ。それとも何か。俺があの扉を使って、おまえに夜這いをかけにいくとでも?」
「よばいをかけ……?」
 また知らない西方語が出てきた。
 するとアレクは、深く考えこむように、手で口元を覆いながら言った。
「それも意味を知らないのか。そうだな、東方人でしかも初心なおまえにもわかりやすいように言うと――おまえが寝静まったころに部屋にそっと忍びこんだら、おまえの服を引っぺがしながら、さっきのアレより数段やらしいキスをして」
「よくわかりましたから、それ以上言わないでください!」
 赤裸々すぎる表現に泡を食って絶叫してしまった後で、白雪は、アレクが手の陰でにやにやと笑っていることに気づいた。
 またからかわれたことに気づき、白雪の浮かない表情に、怒りゆえの赤みが加わる。
 ――いつか船を下りるときと言わず、今すぐ殴り倒してやりたい。
 この性悪海賊!
「そんなことは心配してません。着替えの最中にいきなり開けられたりしたら最悪だと思っただけです!」
「俺は紳士だから、そんなことはしねえよ。声ぐらいかけてやるさ。むしろおまえこそ、俺の裸をのぞいたりすんなよ?」
「そんなものは命令されてものぞきません」
「そんなものとか船長さまに言うとはいい度胸してやがるな。まあいい、他に質問は?」
「――そうですね……あとは、髪のことが」
「髪?」
「男のフリをするのなら、短く切ったほうがいいでしょうか。あなたみたいに」
「よせよ。もったいないだろ」
 思いがけず即答されて――しかもそれが予想外の言葉で、声の響きが妙にやさしかったので、白雪は二重三重に不意をつかれて、きょとんとした。よもやこの野蛮な海賊から、そんな声が聞けるとは。
(もったいない? ……この髪を切るのが?)
 目をまるくして背の高い青年を見上げると、彼はちょっと瞳を伏せがちにして――
「おまえはもう髪が長い状態であいつらに会っちまってるんだから、急に切ったりしたら、逆に怪しまれるかもしれないだろ。――それに」
 刹那。
 おもむろに目線を上げたアレクの表情は、一変していた。
 青い瞳にはいつのまにか、危険なほど鋭い輝きが宿っている。笑い方をも悪人じみたものに変えて、彼は急に白雪に手を伸ばしてきた。――前ぶれもなく唇を奪われたときの記憶が、白雪の全身にすぐさまよみがえる。
 白雪はもちろん警戒して後ずさりしたが、アレクのほうが動きが早く、しかも腕が長いせいで逃げきれなかった。後ろでひとつに束ねていた、ぬばたまの黒髪をつかまれる。白雪がその無遠慮な手をはたき落とすより、アレクが彼女の黒髪に口づけるほうが先だった。
(……!?)
 予想もしていない行為に白雪は仰天し、動きが一瞬凍りついた。
 その一瞬でアレクは、白雪の鼻先にまで顔を近づけていた。こつり、額と額がぶつかる。
 が、唇を重ねることはしなかった。白雪の射抜くようなまなざしに、今度したら躊躇なく噛みつくぞという意思を見つけたせいだろうか。
 その代わりというように、白雪のむきだしの耳元にふっと吐息を吹きかけて、アレクは顔を離した。反射的にぞくりとしてしまったのが、白雪には悔しい。
「手ざわりが、非常に俺好みだ」
「は……?」
「おまえの髪。毎晩、撫でて眠りたいくらいだぜ。仔猫みたいにな」
「………………今すぐ切り落としたくなりました」
 おそらく普通の女性なら腰くだけになるのだろう甘い囁きだが、白雪には逆効果でしかない。
 虎の子がうなるように低い声で切り返してやったのに、アレクはむしろ、彼女の剣呑な反応が楽しくて仕方ないらしい。くくっと喉を鳴らして笑いさえする。
「本当に気が強いな。俺以外のやつが相手でも、その調子でがんばれよ?」
「…………」
 今度こそ遠慮なくアレクの手をはたき落として、白雪はため息をつく。やっぱりからかっていたのか。
(性格の悪い男だ)
 だが、いいかげん、対応の仕方はつかめてきた。要するに、突然のふるまいや妙な言葉に過剰に反応しなければいい。白雪が反応して顔色を変えるほど、この隻眼の海賊はおもしろがるだけなのだから。
(……どうしてこんな人が船長なんだろう?)
 とはいえ、そこはまじめに謎だった。
 白雪がもし本当に海賊だったら、こんな船長にはおよそ従いたくないものだが……?
「じゃ、ここを出る前に最後の確認だ。おまえが女だと知ってるのは?」
「あなたと、クリス先生だけ」
「歳は」
「14歳」
「おまえの立場は?」
「あなたのキャビンボーイ」
「俺との約束は?」
「この船がわたしの母国につくまで、わたしはあなたの下で働く。その代わり、あなたはわたしを庇護する」
「よし。じゃ、今から会いに行く男にも、決して気を抜くんじゃねえぞ」
「え? ……誰に会うんですか?」
「ん? まだ言ってなかったか」
「言ってません」
「一等航海士、バージル=ランカスター。俺の補佐役だ。おまえの知りたいことは、そいつが知ってる」



2009.10.11. up.

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