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第1章 漂流少女と異国の海賊(10)




 周囲の音が遠のき、一瞬、何をされているのか本気でわからなかった。

 頭が、現実を拒否していた。
 しかも、我に返って相手の胸板を突き飛ばそうとしても、アレクの長身はびくともしなかったし、頭をつかまれているから唇を離すこともできなくて、白雪はうろたえた。
 突然の深いくちづけは、白雪にとっては不意打ちの「攻撃」でしかなく、歓喜や陶酔を呼びさますことはない。身長差のせいでほとんど突っ張るようになっている脚や背骨の苦しさのほうが、よほど気がかりだった。
 しかし、てっきり腹でも殴って気絶させられるかと思っていたのに――
(どうして、こんなことを?)
 アレクのとった行動は、白雪の戦いの経験からすれば、異常のひと言に尽きる。
 実戦経験豊かな父の教えにも、こんな攻撃のやり方はなかった。
(わたしは、この人に抵抗しようとした人間で……でも、これは普通……恋仲の男女や、夫婦がするものでは……?)
 ひたすら戸惑うその間にも、アレクの「攻撃」は激しさを増していた。
 白雪のひとつしかない唇に、何度も角度を変えてくちづけを繰り返しながら、その大きな手で頬や首筋をさわさわと撫でてくる。まるで、緊張で固くこわばっている彼女の身体と心をどうにかあたためて、溶かそうとするかのように。
 そのたびに肌の下にはしる未知の感覚にも、相手の唇の感触にも戸惑って身じろいでいるうちに、白雪の頭にひらめいたのは――
(……この人、もしかして、わたしに薬を盛ろうとしてるのか?)
 という――当人は知る由もないが、一般常識からは多少ずれた――発想だった。
 白雪はあいにくそういうふうには仕込まれなかったが、女の忍びの中には、色を仕掛けて男を殺す技を持つ者も少なくない。うっとりと唇を重ねた隙に、相手の口腔内に暗殺薬などを送りこむのは、危険だけど意外に使える技術なのですよと、姉やのように慕っていた女性が教えてくれたことがある。
 ――きっとそれだ!
 白雪の小さな口のなかに荒々しく舌を割りこませてこようとするアレクの動きは、いかにもそれっぽい。と白雪は(本人は至ってくそまじめに)分析した。
(ということは……?)
 反射的に閉じてしまっていた(不覚!)目をうっすらと開いてうかがうと、青い右目とかち合ってしまった。
 慌ててまつげを伏せるが、白雪はその一瞬で確かに見た。
 アレクの隻眼に浮かんでいる鋭い光は、こちらの反応を吟味するような冷たいものだった。
 自分の考えが正しいことを、ひそかに確信する。
(とりあえず……殺意はないようだけど)
 あたりまえか。これから売り飛ばすつもりの奴隷を殺す海賊はいない。
(……ということは、眠り薬か、しびれ薬を?)
 何を含まされても、もちろん、おとなしく飲みこんでやるつもりはない。
 飲んだフリをしてアレクを油断させて、唇が離れたらすぐに吐き出すか。
 いちかばちか、逆に相手の口腔内に薬を押し返してやるか。
 ――前者だ、とすぐに決める。
 後者の荒業をこなせるような色仕掛けの忍術を、残念ながら白雪は知らない。
(そうなると……この人が油断するまでは、これに耐えるしかないということに……?)
 なにしろアレクはまだ、唇を離すことを許してくれないのだから。――こんな男にされるがままというのは、ひどく悔しいけれど。

 白雪はこぶしを握りしめ、身を硬くしたまま、アレクの出方をうかがった。
 緊張でからからに乾いた白雪の口のなかに侵入してきた舌は、不思議な動きをした。
 白雪のちいさな口の構造をすべて知り尽くそうとするように、粘膜をまさぐり、あちこちをなめたかと思うと、奥でちぢこまっている白雪の舌に彼のそれを無理やり絡めて、なんだかいやらしい感じにうごめいたりする。
「……っう……」
 なぜか、勝手におかしな悲鳴がもれそうになるのを、白雪は懸命にこらえたが。
 これは違うのでは……? と、次第に、疑念が頭をもたげてきた。
 だってそうだ。
 薬をのませるだけなら、こんなにも時間をかけて執拗に白雪の唇をいたぶる必要はないはずだし、だいたいここまで激しく舌を動かしていたら、アレク自身が誤って薬をのみこむ恐れがあるではないか。
 ――ということは、この男の狙いは、別?
(なんだろう……? このまま続けられたら気が遠くなりそうだし、早くなんとかしないと)
 白雪は、もうろうとする頭で思った。
 どういう肺活量をしているのか、それとも白雪の息を奪うことで呼吸しているのか。アレクは最初の勢いをわずかもゆるめることなく、白雪の口内を思うさま蹂躙している。が、受けてたつ白雪のほうは、息継ぎする間合いがつかめないから、苦しさが増すばかりだ。おまけに、ずっとつま先立ちである
 そこで、再びはっとする。
(もしかして、薬じゃなくて、『これ』で息を奪って意識を失わせる作戦か……?)
 ――なんて策士だ!
 まんまと相手の策中に片足を突っ込んでしまったことを口惜しく思いながら、白雪は次の手を考えた。唇を濡らしながらあふれた唾液がたてる、ちゅ、という耳ざわりな音を意識の外に追いやりつつ、ほんのわずかだけ目を開いて、雑然とした床へと視線を走らせる。

 ――『投げられる物は、もっとも基本的な武器だ』

 父の教えを思い出して、戦う勇気を駆り立てながら――白雪は動いた。
「……!」
 いい気になって白雪の口内をむさぼっていたアレクの舌と唇に、思いっきり噛みつく。
 すぐに血の味が広がった。
 アレクが思わずといったように唇を離したスキをついて、白雪は彼の腕を振り払い、抱擁という名の拘束から脱け出した。
 急に動いたのと酸欠のせいで一瞬、くらりと眩暈がしたが、意地でふりきる。跳ねるようにして間合いをとる。数歩進む間に、床に転がっていた品々のいくつかを拾った。
 動物の腰骨を、アレクめがけて投げつけて時間をかせいだ後で、白雪は文具らしきものを握りなおした。
 白雪は名前を知らなかったが、それは両脚器[ディバイダ]といった。片方の脚の先に、千枚通しのような針がついている。
 その尖った先端を、金髪の海賊に向けた。
 意外なことに――アレクは、怒ってはいないようだった。
 壁を背にして戦う構えをとった白雪を眺める目は、むしろ愉しそうに細められている。白雪の突然の反撃にあっても、まったく焦りを見せないのがかえって不気味だ。この憎らしいほどの余裕はどこからくるのだろう?
「なかなか勇ましいな」
 濡れた口元を彩った血をぬぐいながら、アレクが口の端を曲げる。まがまがしい眼帯の迫力もあって、ぞっとするような迫力の笑みに見えた。
「でも、そんな針だけで何ができる?」
「こんな針だけでも、じゅうぶんに人は殺せます」
「そうかもな。でもおまえ、人を殺したことはあるのか?」
 見透かしたように問われて、白雪はわずかに口ごもる。
 ――傷つけたことはあるが、殺したことは、実はない。
 だがここで弱気を見せたら負けだ。熱い頬、肩で息をしながら、白雪は腹に力をこめた。
「……一人目が海賊の船長というのは、悪くないと思いますが」
 いざとなれば相手を殺す覚悟を決めて、不遜に宣言したとたん――
 大きな拍手が、緊迫感をいきなりぶち壊した。
(なに?)
 拍手をしているのは、もちろんアレクだ。
 それまでの凶暴性や酷薄そうな眼光を唐突に引っ込めて、酔っ払いの歌でもはやすみたいに手を叩きながら、なんと、ひどく機嫌よさそうに笑いだしたのである。白雪は「これも罠……?」と頭の隅で考えつつも、ついつい、あっけにとられてしまった。



「上等。それなりに根性はあるようだな」
 ひとしきり声を上げて笑うと、アレクは満足してうなずいた。
 壁にへばりつくようにしている東方人の少女は、怪訝そうな表情でこちらを見上げている。
 予想以上におもしろい娘だ。
 こづいて泣かせてみたくなる線の細さを持ち、時に頼りない表情をのぞかせるくせに、瞳の輝きが強いなとは思っていたが――今、容赦なく舌に噛みついてきた根性や、その後の凶器を握る姿や身のこなしがなかなか堂に入っていることが、特にアレクの好みにはまった。
 そう。――「海の男」なら、これくらいの気概はないと。
「合格だ」
「ごうかく」
「気に入った、って意味だ。おまえをこの船で養ってやる。――ひとつだけ条件はあるが」
 条件、というフレーズが、彼女の関心を引きはしたようだ。
 少女の眉がぴくりと跳ねる。
 が、唇は引き結んだままだし、両脚器をナイフのように構える姿勢も崩そうとしない。その濃紫の瞳には「疑心暗鬼」とはっきり書いてあった。
 かなり長い沈黙のあと、アレクが発言をひるがえさず辛抱強く待っていることに少し信用を置く気になったのか、少女は慎重に口を開いた。
「――養うというのは、どういうことですか」
「言葉の通りだ。乗組員として扱い、俺の名の下に保護してやる」
「保護」
「ああ、そうだ。おまえの事情はよくわからねえが、大事な姫さまが待ってる国には帰りたいだろ? 今すぐにってわけにはいかねえが、いずれ送り届けてもやる。ま、お客さま扱いしてやる余裕はねえから、船の仕事を手伝ってはもらうがな」
「売り飛ばしたりはしない?」
「もちろんだ」
 もともと奴隷売買だなんて、ロクな死に方をしなさそうな商売をする気などない。
 が、彼女に「海賊」だと思われているのが妙に楽しかったので、アレクはあえて訂正しなかった。性格が悪いと言うならば言え、だ。
「どうだ?」
 アレク個人への警戒心が残っているのか、表情はなかなか明るくならないが――故国を遠く離れ、頼るもののない少女には悪い話ではないはずだ。
「条件というのは、この船で働くことですか」
「そうだ」
 次の難題さえ、クリアできれば。

「男のフリをして、な」

「………………は?」
 少女が目を点にした。その手から、ぽろりと両脚器[ディバイダ]が落ちる。
「名前は……ええと、何ユキだったっけか」
「白雪です」
 少女――白雪の目つきが少し鋭くなる。名前も覚えていなかったのか、となじる目だ。
 アレクは両手を挙げて、降参のポーズをしてみせる。
「許せ。おまえの国の名前は、俺たち西方人にはちょっと耳慣れないんだ。で。クリス先生が言ってたんだが、それって『白い雪』って意味なんだよな? それじゃ、船での通り名はスノウとでも――いや、やっぱ可愛すぎるか。シラユキでいいな。響きだけなら、俺たちには実は女の名前だってわからねえし」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
 白雪が焦った顔で口を挟んできた。
「働くのは構いませんけど……どうして男のふりをする必要が!?」
「この船は――つっても、たいていの海賊船はそうだが――女子禁制だからだよ。どうしてかは想像できるよな? 長い航海で退屈と獣欲をもてあました野郎どもが、女をめぐって余計なトラブルが起きるのを防ぐためだ」
「じゅうよく」
 彼女には耳慣れない異国語だったようだが、意味は想像できたらしい。
 白雪はすぐに、軽蔑するような冷たい視線をアレクへと突き刺してきた。
「……さっきのあなたみたいに?」
「ばか。さっきのは、わざと『欲望をむき出しにした野蛮な海賊』を演じたんだよ。おまえがここで暮らしていける根性があるか、試してやろうと思ってな」
「な……」
「おまえが俺に襲われて、ただ震えてるだけの小娘なら、トラブルが起きないよう次の港まで船倉の『隠れ穴』っつう場所で監禁航海をしてもらって、どこぞの船に乗り換えさせるつもりだったんだが。――興がのった」
「待ってください! 試すって、あッ……あれしかやり方はなかったんですか!」
 だいぶ明るくなってきた窓際の、上部がベンチ風になった物入れに腰かけたアレクへと、白雪が血相を変えて詰め寄ってくる。
「いや? そうでもないぞ。登り梯子でマストのてっぺん近くまで昇ってもらうとか、帆桁から命綱つけて海に飛びこんでもらうとかでも、別によかったな」

 キスにしたのは、完全に思いつきだ。
 海賊だと知ってうろたえまくっている白雪が妙にツボにはまって、もっと動揺させてみたくなった。理由はそれに尽きる。性格が悪いと言われれば、その通りだとうなずくしかない。

「だったら、どうしてあんな……!」
 白雪はといえば頭に血が上りすぎて、今にも卒倒しそうになっていた。小さな唇がわなわなと震えている。
 今すぐアレクを刺し殺してやりたいと言わんばかりの怒りようだが、さっきまでふれていた唇だと思えば、アレクには可愛らしいとさえ思えた。
 ――この少女の怒った顔は悪くない。
 少なくとも、さっきまでの憂いに沈みがちな表情よりは、ずっと生命力を感じられていい。
 そう思うと、つい、煽るような言葉を重ねてしまうアレクだ。
「なんだ。気持ちよくなかったか?」
「よかったはずがないでしょう!」
「へえ? ほんとに?」
 もちろん、白雪が戸惑いながらも微妙に反応しつつあったことを承知の上で言ったのだが。
 彼女が全身全霊で否定するものだから、余計に意地悪な気分にさせられる。
「じゃ、どうしてすぐに噛みつかなかったんだ?」
「……ッ」
 白雪が、顔を真っ赤にしてうつむく。
 予想通りの反応に、アレクはにやついた。
 しかし、やがて彼女がぼそぼそと呟いた反論は、アレクの予想外の内容だった。
「あれは…………あなたはてっきり、わたしに、薬でも飲ませるつもりかと思ってて」
「……は? ……薬?」
「口移しで、わたしに何かを飲ませて、抵抗する力を奪う気かと。だから最初は、あなたの様子をうかがっていたんです。」
「…………そいつは確かによくある手だがな。その前に、考えてもみろよ。おまえをおとなしくさせて売り飛ばすのだけが目的だったら、わざわざ目を覚ますまで待って話なんかしてないで、気絶してる隙に足枷はめて船倉にぶちこんどくほうが簡単じゃねえか?」
「あ……!!」
 そうだった! と内心絶叫しているのが手にとるようにわかる、白雪の動揺ぶりだった。頭を抱えて悶絶している姿を眺めているうちに、アレクは次第に楽しくなってきた。アレクだけは。
「しかし、そんなおもしろい理由だったのか。てっきり俺は、おまえが俺に惚れかけてるのかとばかり」
「ありえない想像はやめてください」
「おいおい、ありえないとまで言うか」
「当然です。あなたみたいな野蛮で男性に誰が惚れたりしますか」
 白雪がアレクに向ける鋭い視線は、まるでケダモノを見るかのようだ。
「そんなに怒るなよ、キスくらいで」
「普通はあんな真似をされたら、一生根に持ちます」
「東方人ってのは、みんなそんなに身持ちが堅くて純潔なのか。――それともおまえ、まさか初めてだったのか?」
 とアレクは、足元の物入れからラム酒の瓶を取り出しながらからかった。
 軽い冗談のつもりだった。そんなはずはないだろう、という意味で言ったのだ。
 が。
 ぼん!! と音が聞こえそうな勢いで白雪がまた真っ赤になったのを目撃したアレクは、大事なラム酒の瓶を落っことしかけた。
(え…………マジでか?)
 にわかには信じがたくて、白雪のうつむいた顔をのぞきこめば、濃紫の瞳は悔しさと悲しさで今にも泣きだしそうにうるんでいる。唇をきつく噛みしめてもいる。
 本気で初めてだったらしいと、アレクは半ば茫然としながら認めた。
 アレクも思わず彼女とは反対側に顔を向け、戸惑ったように金髪をかき上げた。
 というか、正直戸惑っていた。
 アレクの国では、17歳の少女といったら、貴族の姫君でもキスくらいは当然のように経験済みだ。キスは挨拶の手段でもあるから、ちょっと唇にふれたくらいでは、口説いたうちにも入らないほどである。
(……東方人って、わけわかんねえ)
 ちょっと頭を抱えたい気分だった。
 少女らしからぬ鋭い雰囲気こそあるが、白雪の顔かたちは、今までアレクが見た東方人の中でも白眉の美形だ。たとえ白雪本人にその気が薄くても、男が放っておくはずがないと思ったから、キスくらいならいいだろう思ったというに。
(なんなんだ、この罪悪感は……)
 奇妙な責任感も胸にこみあげてきて、アレクは反射的に彼女に謝りそうになる。
 謝らなかったのは、今さら謝ったところで彼女も困るだけだと思ったのと――
(このぶんじゃ、さっき俺が人工呼吸してやったことも教えねえほうがいいだろうな)
 ――それを思い出したからだ。
 実はこれが初回ではなく6度目なのだと知ったら、ショックのあまり海に飛びこんでしまいそうな雰囲気が今の白雪にはある。
 とりあえず、今の話はなかったことにしておこうか……?
 アレクは窓の外を見やりながら、こほりと咳払いをして――
「――と、いうわけでだ」
 だいぶ無理やりに話を戻した。
 視界の隅では、白雪も話題が変わってほっとしたように、肩の力を抜いている。
「おまえ、歳は15――いや、14ってことにしておけ」
「……どうして、歳まで嘘をつく必要が?」
「俺たちの国の基準では、おまえはとても17には見えねえからだ――睨むなよ。それにそのくらいの歳のガキだったら、ちょっとくらいなよなよしてても『本当は女じゃないか』って疑われる可能性は低くなる」
「なるんですか?」
「かもしれない」
「なんていい加減な」
 ますます頭痛がしてきた、というようにこめかみを押さえる白雪とは対照的にに、アレクはだんだんと持ち直し、また、おもしろくもなっていた。
 最初は「面倒なものを拾った」としか思えなかったのだが、『あの船』が見つからない退屈な日々を盛り上げるのに、彼女はなかなかいいスパイスになりそうだ。スリルがありすぎるほどだが、このくらい刺激的なほうが、アレクの好みである。
 多少の面倒を抱えてでも、庇護してやっていいくらいには、アレクは――かなり一方的に――この東方人の漂流者を気に入っていた。
 女としてではなく、可愛いおもちゃとして、だが。
「大丈夫だって。幸い、おまえが目が覚めた途端に姫さま姫さまと叫びまくってくれたおかげで、みんなおまえを男だと勘違いしてる。それに、おまえの国じゃどうか知らないが、俺たちの国の17歳の女はこう、もっと肉づきが豊満で大人っぽいもんだ。安心しろ、まず誰もおまえが17歳の女だなんて思わねえよ」
「……あまり、うれしくないのですが」
「まあ、そうだろうな。でも今回は喜んどきな」
ぽん、と乾きつつある黒髪の頭を軽く叩いてやれば、白雪は複雑そうにしながらも、愚痴は言わなかった。
「じゃ、まずは着替えだな」
「もう着替えてますけど」
「変装の小道具を追加するってことだよ。そうだな、胸にはサラシを巻いて――ケツの形で女とバレないように、腰まわりは剣帯とサッシュで隠すようにしな。ま、その薄い尻ならまず女だと思われねえだろうが、念のためだ」



 ひと言もふた言も多い金髪の海賊から、おさがりだという「変装の小道具」を受けとる白雪の表情は暗かった。
(男の服はともかく、男のフリをするのは初めてだけど……大丈夫だろうか?)
 白雪は忍びの一族ゆえ、変装の技もひととおりは習ってはいる。
 男装ではないが、別の職業の人間や、村娘になりすます忍務[にんむ]の経験ならある。
 しかしだ。

 ――『無理のある変装なら、いっそやめたほうが、襤褸[ぼろ]を出さずに済む』

 というのが、父の経験談である。
 どうしても不安が勝り、難しい顔で考えこむ白雪を、アレクは腹立たしいほど楽しそうに見下ろしてくる。
「とりあえず、今日は病み上がりだから何もしなくていいが、明日は朝から働いてもらうぜ」
「……何をして働くのですか?」
「平時は、俺専属のキャビンボーイだな」
「きゃびんぼーい?」
「最下層の雑用係ってとこだ。人手が足りない作業を手伝ったり、俺の身の回りの世話をしたり、俺の命令を聞いたりする」
「…………あなたの命令?」
「そう怯えんなよお嬢ちゃん。別に、さっきみたいなことをやらせろとは言わねえから」
 お嬢ちゃん。
 確か、白雪の国の言葉でいうと「娘さん」くらいの意味のはずだが、アレクからは女性に対する敬意その他は感じない。からかわれて子供扱いされている気しかしないが、それでたぶん正解だろう。
 アレクの、いけ好かないにやにや笑いを見てる限り。
「してほしいって言うんなら、喜んでやってやるけどな」
「そんなことを言うわけがないでしょう」
 追い討ちをかけるみたいにからかわれて、さらにこめかみが引きつる。
(命の恩人に、こんなことを言うのは悪いと思うが――)
 まったくもって気に食わない男だ。
 白雪は、内心、ひどく憮然とした。アレクを殴らない自分を褒めてやりかった。
 なにしろ白雪の理想の男は、敬愛する父・冬霧である。
 寡黙だが、誠実で。
 褒めてもらった記憶はないが、なんでも教えてくれた。
 あまり遊んでもらえなかったけれど、お役目に一所懸命な姿がすてきで。
 そして何より――白雪を生んですぐに亡くなった母を、今でもずっと愛している。
 不器用で、口下手で、けれど誰にでも誇れる父だ。
 アレクのように口が悪い・目つきが悪い・性格が悪いという三重に最悪な男は論外である。
 しかもさっきは、あんな――
(……いや、あれは……狼にでも食いつかれたと思って、忘れよう! 忘れるんだ!)
 白雪はぶんぶんと頭を振った。
 この海賊には、金色のロケットの女性がいる。
 つまり白雪にしたことは、完全にお遊び、からかい半分なのだ。それなのに自分だけが、あの蛮行を気に病むのは業腹すぎる。
 朧姫の護り手をしていた頃は、よもやあんな屈辱にあうとは思ってもいなかっただけに、衝撃は深いが。
(運がいいのか、悪いのか……さっぱりわからないな)
 あれが生まれて初めての口づけだと思うと、非常に気持ちが重くなるが。
 しかも、帰れるまで――身の安全を約束されたとはいえ――海賊船などの世話になるのは、常識人という自負のある白雪には、かなり気が進まなかったが。
(負けない)
 生きて、再び母国に帰るのが、何よりも大事だ。それまでは、なんでも耐えるのだと、白雪はひとり覚悟を決める。
(……で。この船を降りるときになったら、この人の鼻を思いっきり殴ってやろう。そうしよう)
 さぞかしスッキリするだろうと想像すれば、怒りが煮えくり返っている頭の中がいくらか落ち着く。白雪は、なんとか持ち直した。
「着替えたら、船乗りになるためのレッスン開始だ。今のうちに質問はあるか?」
「あります」
 山ほどある。
 しかし、現時点でもっとも知りたいのは――
「――この船は、今どこに浮かんでいて、どこを目指しているんですか?」




2009.10.7. up.

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