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第1章 漂流少女と異国の海賊(04)




 ――海に浮かんでいた、だと?
(わたしは、朧姫さまの一の護り手なのに)
 どうして朧姫のそばにいないで、こんな……異国の船の上なんかに拾われてるんだ?
 思い出そうとすると、頭のあちこちで激しい頭痛の火花が散る。
 記憶が混濁している。
 思い出せない。
 ただ、それでも必死で取り戻した記憶の断片は――
「――ッ!」
 がばりと上体を起こして男の胸ぐらにつかみかかるみたいにすると、周囲がどよめいた。
 ちらりと見ると、白雪と金髪の青年を取り囲んでいる男たちが何人もいた。おそらく、この船の乗組員だろう。見るからに異国の民ばかりだ。ついでに、やたら大柄な猫や、絵巻の中でさえ見たこともない生きものまで発見する。
 だがそんな観衆をすべて無視して、白雪は、目をぱちくりさせる金髪の青年に詰め寄った。
「姫さまは――あなたは、姫さまを見ませんでしたか?」
「姫さま?」
「朧姫です。十六夜島から海に出て――わたしの仲間と、船で落ち延びたはずなんです! このあたりで、姫さまの、いや、水軍の船を見ませんでしたか?」
「いや。今朝は1つも船影を見てないぞ」
「そんなはずは……!」
 落城寸前まで、敵に追いつめられていた。
 白雪が朧姫になりすまして、追手の目を引きつけた。
 何度か剣を交えた。手裏剣をはじめとする投器を使い果たした後は、ひたすら逃げた。
 ――そこまでは覚えている。
 だが、どうして海に落ちて漂流するはめになったのかが、まったく思い出せない。
(何があったんだ? 姫さまは――父上は……どうなった? わからない!)
 濡れた黒髪をかきむしる。
 戸惑いのあまり、錯乱の一歩手前まで行っていた白雪を止めたのは、新たなる人物だった。

「――落ち着いてください」

 穏やかな声が、ざわついていた甲板を一気に静かにした。
 決して大きくはないのに、まるで命令に慣れた貴族のそれのように、不思議な威力がある声だった。それでいて、不思議と偉そうには聞こえない。何もしていなくても、謝ってしまいたくなるたぐいの声音だ。
 だが白雪がなによりも驚いたのは、それが彼女の母国――四生嶋の言語だったことだ。
 こんな異国人だらけの船で、よもや母国語を聞けるとは思ってもいなかった。
(誰……?)

 むさくるしい人垣を割って現れた声の主は、細身に青い上着をまとった青年だった。とても船乗りとは思えない、上品な身なりが板についている。
 怜悧そうに整った面差し。髪は濡れたように黒く、小ぶりな眼鏡の向こうで澄んだ光をはなつ双眸は、気品のあるすみれ色だ。
 端整な美形だが表情のはしばしに荒々しさを感じさせる金髪の彼とは違って、骨の髄まで理性派という雰囲気である。

「遅いぞクリス先生。寝坊してたのかよ」
 と、金髪の青年が疲れたようにつぶやいたので、名前がわかった。なるほど。いかにも「先生」という感じだと、白雪は内心納得する。
 クリス先生と呼ばれた眼鏡の青年は、「すみませんアレク船長」とおとなしく頭を下げてから、白雪の傍らにしゃがみこんだ。
「私はこのオライオン号の船医、クリストファ=レンフロです。あなたの名前は?」
「……白雪、です」
 毒気を抜かれたように、白雪は母国語で答えていた。
 この人に真摯に問いかけられたら、答えないと悪い気がする。
 そんな気持ちにさせる、魅力というか説得力のようなものが、クリス先生――クリストファの物腰にはあった。
 クリストファは静かに、白雪に合わせた言語で話を続けてくれた。白雪の母国でもちょっと聞かないくらい、クセのない発音と言葉遣いをクリストファはした。
「東方の出身とお見受けしますが、神華国の方ですか? それとも、四生嶋でしょうか」
「四生嶋を統べる皇族の直系にして当代の巫女姫である朧姫を、お護りする者です」
「……なるほど」
 クリストファは静かな表情は変えないままで、納得したようにうなずいた。
「あなたの事情には、だいたい察しがつきました。しかし残念ながら、私たちの船はこの海域に入ったばかりなので、あなたの姫君の行方はおろか、四生嶋の皇族の方々が今どういった状況にあるのかさえわからないのです。力になれず、心苦しいのですが」
「そう……でしたか。いや……そう、ですよね」
 白雪の声は、だんだん細く小さくなっていった。
 ちょっと立ち止まって考えれば、あたりまえのことではないか。異国の人間が、朧姫の最新の情報を知っているはずがない。
 わたしは何をあんなに動揺していたのだと、白雪はにわかに気恥ずかしくなる。頬が灼けるような熱を帯びた。

――『いかなる場合でも、平常心を手放さぬことだ。ことに戦では、平常心を失った者から黄泉路に落ちるぞ』

 父上はつねづねそう仰っていたのに――と思うと、なおさら情けない。
 どんよりとうつむいてしまった白雪の肩に、ふれるかふれないかという具合に手を添え、クリストファは諭すように続けた。
「あなたが主人を心配する気持ちは理解できますが、船医としては、あなたの身体のほうが気がかりです。この季節、この海域の水に何時間もつかっていたとしたら、たとえ怪我はなくても無事で済むはずがない。どうか私を信じて、手当てをさせていただけませんか」
「……はい」
 謙虚なやさしさに満ちた言葉に、空虚感をこらえて白雪はうなずいた。
 父も、姫もいない。何がどうなっているのか、さっぱりわからない。
 ここにあるのは、疲れ果てた自分の身体だけ。
 ――そう思ったら限界だった。
 ぎりぎりまで張り詰めていた感情の糸がふっつりと切れ、衰弱しきっていた白雪は、再び気を失った。




2009.9.27. up.

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