スウィート・メモリーズ




「だったら、君もケーキを焼いてみるかい?」
 のんびりとした航海中の、小さな事件は、料理長のそんな言葉がきっかけだった。



 異国の帆船――オライオン号の調理室には、わたしが見たことのない食材がたくさんある。
 中でもお菓子作りの材料は、料理長のこだわりが詰まっているだけあって、壮観だ。
 殺風景になりがちな船内においては数少ない、目にもまぶしい色とりどりの品々は、見ているだけで気持ちが華やぐ。
 中でも目を引くのは、ケーキやクッキーを飾るためのトッピング。
 主に砂糖で作られたそれは、おそろいのガラス瓶に密封されて、料理に最適とはいえない環境でも質を保っている。

 黄色いミモザの砂糖がけ。
 翡翠色をした、葉っぱ型のゼリー。
 おとぎ話を思わせる、パステルカラーのシュガーボール。
 紅玉みたいなチェリーのシロップづけ。
 優美なスミレの砂糖がけ。
 一度だけ味見をさせてもらったことのある、甘酸っぱい乾燥イチゴ――

「君は、それを眺めるのが好きだねえ」
「わっ」
 いきなり声をかけられて、わたしは飾り棚に頭突きしてしまいそうになった。
 振り返ると、コックコートという白い上着がよく似合う、すらりと背の高い男性がいた。
 蜂蜜みたいな茶色っぽい髪で、垂れ目が甘さと柔和な印象を与える彼は、20代後半くらいに見える。ほかの海賊たちの話を聞くに、どうやらもう少し年かさらしいが。
 限られた材料でおいしい料理を作る、魔法のような腕を持つ料理長――エルバート・ラブ=ヒューイット氏。
 わたしに、飾り棚のトッピングをはじめ、未知の食材の名前を教えてくれたのはこの人だ。
 エルバート料理長は、驚きすぎなわたしを見て、ちょっと困ったふうに微笑んだ。
「ああ、ごめんごめん。おれ、気配を殺すのが特技だからさ」
「なぜそんな特技を……?」
「まあ、職業柄さ」
「でも、どう考えても料理には――」
 関係ないのでは? とつっこみかけた途中で気づく。
 焼きたてのアップルパイみたいな甘い笑顔を絶やさない、朗らかで穏やかな人だけれど、彼もれっきとした海賊船の一員。以前にあったような海戦のときには、この人も料理器具なんか放り投げて、戦闘技術を発揮するはずなのだ。
 エルバート料理長が包丁の代わりにカトラスを振り回す様を想像してみても、わたしにはさっぱり現実感がなくても。
(あ)
 ついでに自分がここの当直だったということを思い出し、わたしはあわてた。
「あ、すみません……! でも頼まれてたジャガイモの皮むきは、全部終わって――」
「うんうん、知ってるから大丈夫さ。怒ったわけじゃないから、そんな小さくならない。ただでさえちっこいんだからさ」
 手をひらひらさせて、なだめるように言う料理長。
 ……わたしがこの船で一番小柄なのは事実だけれど、改めてそう言われると、なんかしょんぼりだ。わたしはこの船で唯一の女だから、仕方ない。そう頭ではわかっていても。
 エルバート料理長は慣れた手つきで夕食の下ごしらえを始めながら、床掃除を始めたわたしに、気さくに話しかけてくる。
「君の国のお菓子では、ああいうトッピング類は使わないの?」
「中には、そういうお菓子があったような気はするんですけど――」
「けど?」
「……わたしは、そういう方面に興味を持っていなかったから、覚えていなくて」
 声が小さくなる。世界中の料理に興味があるというエルバート料理長に、教えてあげられることがないのが申し訳なくて。普段お世話になりっぱなしなのに。
「忍者食とか解毒剤とか、そういうものの調合なら山ほど叩きこまれたんですけど、お菓子はあまり……」
「でも、君たちの薬もそれはそれでおもしろそうだよ?」
「そうですか?」
「もちろんさ。おれはクリス先生とよく一緒に、おいしい保存食や身体にきく病人食の研究をしまくりだからね」
 ――そういうつながりもあるのか。
 まだオライオン号に乗って日の浅いわたしは、船内の人間関係をまだ把握していない。
 料理長と船医の、知識を共有する関係は、初耳だった。
「でも今になって、もう少しそういうものにも興味を持つべきだったかと思うんです。巫女姫さまにもときどきお説教されていましたし」

 朧姫。桜色の瞳をもつ乙女。
 わたしより4つ下で、わたしよりもずっと情緒の豊かなお姫さまは、女性的なものと距離を置きがちな護衛のことを案じていた。
 可憐な声がよみがえる。
 ――嫌いなわけではないのでしょ?
 だったら男物ばかりでなく、きれいな衣裳も着ればいいのに。わたしも見たいわ。
 きっと似合うと思うのよ。あなたの夜明けの色の瞳に似合う、紅の衣裳とか――

(……一度くらい、着てさしあげればよかったな)
(変な意地を張らずに)
 無邪気なお説教がなつかしくて、わたしはつい遠い目をしてしまう。
 結局いつも男衣裳ばかり着ていた成果が、今の「男のフリ」をして毎日過ごすという試練で活きているのだが。
 わたしの思い出話――朧姫さまはわたしの恋人という設定にしてあるので、のろけ話に聞こえたかもしれない――に、エルバート料理長はうんうんとうなずくと、道端で美しい花を見つけたかのような笑顔でこう言いだした。
「だったら、君もケーキを焼いてみるかい?」



「けーき……ですか?」
「そう。この機会だしさ」
「どの機会ですか。だいいち、そんなことをしていたら夕食の仕込みが」
「平気平気。時間になったら君以外にも手伝いの連中が来るからさ」
「でも……」
「母国に帰ったときに、君のお姫さまにお土産話が増えるだろう? なんなら、作ってさしあげてもいいじゃないか」
 朧姫さまの名前を出されると、わたしは弱い。
 恋人という設定は嘘だけれど、大事な存在なのは事実だから。
 ――そして今。
「おれはケシの実のケーキを作るからさ、君はヴィクトリア・ケーキね」
「ヴィ……?」
「何かほかに作りたいものがあれば、それでもいいさ?」
「それはないですけど」
 わたしを首を振った。それ以前に、お菓子の種類や作り方なんて知らないのだ。
「ヴィクトリア・ケーキっていうのは、おれたちの国では、子供が初めてお母さんと一緒に作るお菓子なのさ。材料は全部、卵3つ分。簡単だろう?」
 初心者向け、ということか。
 それならいけるかも?
 最初はおじけづいていたけれど、だんだんやる気が出てきた。
「そういえば、君は母国には――」
「母は、だいぶ昔に亡くなりました」
 わたしは努めて感情をさし挟まないようにして言った。わたしが3歳になるかならないか、という頃の話だ。
 父からは「おまえと似ている」と。
 仲間の忍たちからは「美人で気立てがよく、人間のできた奥様だった」と――
 思い出話をひとかけら聞かされたことはあるが、残念ながらわたしは、母の面影をおぼろげにしか覚えていない。かろうじて心の隅に刻みこまれているのは、つないでくれた手の温もりとか、わたしの名前を呼ぶやさしい響きとか。漠然としたものだ。
 ……寂しいと思ったことがないと言えば嘘になるけれど、今となっては、そこまで悲しみに暮れたりしないので、あまり気遣わせたくないと思ったのだが。
「そっか……」
 エルバート料理長は、正直にすまなそうな顔をした。
 いい人だということが、偽りなく案じてくれる表情でわかる。その気持ちがうれしくて、少し照れくさい。
 彼は真顔で言った。
「君もいろいろあったんだな。なんなら、おれをお母さんと呼んでくれてもいいよ」
「いや、それはちょっと」
「ああ、クリス先生のほうがいいかい? 切ないな。結構いるんだよね、医務室で寝ぼけて、クリス先生をおふくろって呼んじゃうやつ」
「全然違いますし、なんですかその微妙な情報は」
 海賊も人の子なのはわかったけど。無駄に。
 先日襲った――と言うと過激だが、追撃砲の一発だけで向こうから降伏してくれた――エスパーニャ王国の船からは、交易品を残らずいただいていた。その中には、ちょっと贅沢な保存食もあり、エルバート料理長はその一部をここで利用して、海賊たちの舌を満足させている。
「まずはこれを混ぜて」
「こ、こ……こうですか?」
「ちょっと手つきが荒っぽいな。焦らなくていいから、ゆっくり混ぜるのさ」
「はい……ん? んん?」
「あ、分離しかけてるな。ちょっと待ってね、それじゃ小麦粉を……」
 ……慣れないことだらけで、普段のキャビンボーイの仕事や、戦士長の鍛錬を受けるときよりも神経と体力を使っている気がする。
 でも、甘いにおいの中で心が浮き立つ感覚は悪くない。どんなケーキが仕上がるのか、楽しみでもあるし。
「料理長の作っているのは、だれの分なんですか?」
「特に決めてないけど、強いて言うなら具合の悪いやつ用かな。しょんぼりなときに美味しいお菓子を食べると、薬よりも効くからさ」
 ときどき船が大きく揺れて、台の上にタネをぶちまけそうになったりしながら、どうにかわたしは材料を混ぜ終えた。
(ど……どうにかなった、かな?)
 甲板作業のあとよりも疲れた気がするが、大事なのはここからだ。
 ストーブに料理長の指示どおりに薪をつぎこみ、火を熾す。木でできた帆船の上なので、火の扱いには慎重さを要する。まんがいち火事でも起こそうものなら、海に放り出されても文句は言えないのだ。
「よくできました。ここまでは順調だね」
 わたしの髪を撫ぜるエルバート料理長の表情は、小さい子を褒めるときのそれだ。ちょっと複雑である。
「じゃ、火の番頼んでもいいかい? おれは夕食の仕込みをするからさ」



 外から聞こえる海賊たちの声や波音に耳をかたむけながら、火を見守る。ストーブのそばにいつづける暑さに、額にじわりと汗が浮かんだ。
 まるい型に流しこんだ生地は、鋳物の扉の向こうで、今どうなっているのだろう?
 中が見えないから想像するしかないけれど、甘い香りがするから大丈夫かな。
 焦げていないかな。
 ふくらまなかったらどうしよう……?
 お菓子作りに興味を持ったことなんてないのに、やってみたら、ワクワクとドキドキを味わっている自分が少し不思議だ。
「そんなにストーブとにらめっこしなくても、きっとちゃんと焼けるから大丈夫さ」
「あ」
 料理長の声で、わたしは我に返る。気づけばずいぶん長いこと、ストーブとにらめっこしていたようだ。
「おれが教えてあげたんだ。失敗するわけないさ」
「でも、わたしはケーキを焼くのは初めてなので……」
「心配か。気持ちはわかるけど、おれの国には、『見つめるケーキはふくらまない』っていう言葉があるからさ」
 見つめる鍋は煮えない、という言葉なら、わたしの国にもある。なんだか納得した。
 船で数ヶ月もかかる異国にも、同じ意味の言葉があるのかと思うと、ある種の感動が胸をはずませる。わたしの海賊暮らしは、日々、そういう新鮮な驚きに満ちている。



 やがて、わたしの初めてのお菓子は、無事に焼き上がった。
 ――幸せな甘い香り。
 わたしは、我ながらぎこちないを通り越して危なっかしい手つきで型からケーキを外し、料理長が用意しておいてくれた網の上に置く。形を崩さなかったことに、ほっとした。下手な火薬の扱いよりも緊張した。
「味見してごらん」
「! おいしい……」
 型にこびりついていたスポンジのかけらを口にふくみ、わたしは目をみはった。
 甘そうな材料をたくさん使ったのに、できあがったケーキは甘みが程よく抑えられていて、やさしい後味だった。思わず頬がゆるむ。
 わたしの手が――剣術とか手裏剣術とか、乙女らしくないことばかりに熱中してきた手が、こんなに温かいものを作れるなんて、意外を通りこして信じられないくらいだ。大半は、エルバート料理長の手助けのおかげにしても。
「さあ、仕上げ仕上げ。可愛くお化粧しよう」
 横半分に切って、間に赤いイチゴジャムを挟む。少し焦げてしまったところは、きめの細かい砂糖をまぶして隠せば完成だ。
 にこりと破顔して、わたしの頭を撫ぜてくれたエルバート料理長が提案する。
「そうだ。それ、だれかに分けてあげたらどうだい? 一人で食べるよりも美味しいよ」
「だれかに……?」
 初めて焼いたケーキに目を落として、わたしは考えこんだ。



→やっぱり……船長に?
副長に差し入れをしようかな。
→クリス先生に食べてほしい。
→フィロさんはどうしてるんだろう?
→ヴィンスさんは、ケーキは好きかな。
→そういえば、ハロルドさんは甘いもの好きだって言ってたっけ。
→いい人だし、ジェフさんともっと仲良くしたい。



乙女ゲーのごとくルート分岐にしたら、かなりな分量になってしまったので、ちょっと先に料理長紹介部分まで。
分岐もぼちぼち挙げていきますね。
チェックがめんどくさい更新方法にしてしまって申し訳なく……。

2011.8.6. up.

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